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第32話 柏原の異変8
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佐平治が決行を凍夜に通達してきたのは、それから数日後だった。
「準備が整ったからな」
「準備って何をするんだ?」
「家の間取りを確認したり、誰がどの部屋を使っているか把握したり、火をつけるなら油も調達しなきゃならねえし、どこに火をつけて自分はどこから脱出するか考えておかねえとな」
「で、実際どうするんだ」
凍夜にとっても死活問題である。凍夜だって脱出し損ねたら死が待っているのだ。
「まずお店の方に油を撒いて火をつける。それからすぐにおいらは旦那とお内儀を片付ける。鬼火はお店に火が点いたらすぐに子供たちを避難させろ。裏口から出るんだ。子供たちを無事に逃がしたら、おめえは闇に紛れてここへ戻って来い。絶対に誰かに見られたり後を尾けられることのないようにな。
それから何度も見取り図を見て頭に叩き込んだ。茂助も孫六も「鬼火にちょうどいい仕事だ」と請け合ってくれた。凍夜は落ち着かない気分のまま夜を待った。
夜九ツころに佐平治が呼びに来た。佐平治の編む草履は全く足音を立てない。その上、佐平次は気配を消すのだ。背後に立たれても気付けない。
凍夜は裏口から忍び込み、佐平次は表店の方へと回った。あとは佐平治が火をつけるのを待つだけだ。
物陰に隠れ、静かに息を殺しているだけなのに、心の臓が高鳴った。
火が見えた。佐平治が火を放ったのだろう。だがまだだ、まだ早い。
影が動いて行くのが見えた。あの影は佐平治だ。物音がして再び凍夜の視界に入った佐平治が合図を送って来る。主人とお内儀を仕留めたということだ。まだだ。動くには早い。
佐平治が女中の部屋と子供たちの部屋の間に火を放つ。これで女中は子供たちを助けることができず、一人で逃げることになる。今だ。
そう思った瞬間、子供たちの部屋の唐紙がスパーンと開いた。出端を挫かれた凍夜は、子供の前に出損ねてしまった。
「お清! 火事だ、起きろ!」
凍夜と同い年くらいの男の子だ。傍らには寝ぼけ眼の女の子がいて、男の子の寝巻の帯を掴んでいる。
「父上! 母上!」
兄の切羽詰まった声に驚いた妹が泣き出す。女中の声がそこに重なる。
「旦那様! 旦那様! 坊っちゃん、ご無事ですか、坊っちゃん!」
「うわあああああん、兄上ぇえええ、怖いよぉ」
表店が激しく燃え、屋根が真っ赤に染まる。それでも主人とお内儀の声は聞こえてこない。やはり佐平治が良い仕事をしたのだ。
凍夜は兄妹の前に飛び出した。
「こっちだ!」
「父上は?」
「諦めろ、あっちはもう無理だ」
「ダメだ、私は父上を見殺しにはできない」
「時間がない」
「私は父を探しに……」
そこで凍夜は兄の頬をひっぱたいた。
「妹まで見殺しにする気か。あっちはもう無理だと言っただろう、今はこの子を守ってやれ」
兄は呆然と凍夜を見たが、それも一瞬だった。すぐに泣き喚く妹を負ぶった。
屋敷の外に出ると、女中らしき女が「坊っちゃん、ご無事で!」と駆け寄って来た。近所の人達や火消しの連中が集まってくる中、凍夜は人混みに紛れて静かに姿を消した。
団子屋に戻ると、既に佐平治が井戸の水で足を洗っていた。
「どうだ、うまいこと二人を逃がしたか」
「うん」
「よし、初仕事にしちゃ上等だ。今日はもう寝ろ」
そう言って佐平次は自分の小屋に戻って行った。凍夜も煤で汚れた手足を洗って自分の布団に潜ったが、あの子供たちが今晩寝る布団が無いのだと思うとなかなか寝付けなかった。
翌朝の凍夜は、前の晩になかなか寝付けなかったせいか寝過ごしてしのぶに起こされた。
もう朝餉ができているという。「早く来ないと食いっぱぐれるよ」と急かされた。
顔を洗って朝餉に顔を出すと、いつもと違う食事が出ていた。いつもは野草や野菜くずの入った薄い味噌汁なのだが、今朝は稗と零余子の粥だ。そこに野菜くずが入っている。鍋にいっぱいに作ってあり、おかわりできるらしい。
「どうしたの、これ」
「仕事が上手く行った時は、こうして稗と零余子のお粥を作るの。今回は佐平治さんと鬼火のお手柄。それなのに鬼火ったら起きて来ないんだもん」
「お手柄か……」
凍夜が俯くと、佐平次が「あの子たちのことが気になって眠れなかったか」と言った。図星だった。ここの人達は何でもお見通しだ。
「鬼火。よく聞け」
茂助が口を開いた。
「どんな悪党でも必ず家族がいる。大切な人がいる。おめえに両親がいたように、おめえの仇にも大事な人はいる。おめえが敵討ちをすりゃあ、その大事な人は残されるんだ」
それだけ言うと茂助はまた粥を食べ始めた。
「あたしたちはそれを呑み込んで、一人前の殺し屋になるの。それができそうにないなら、鬼火は今のうちに足を洗った方がいいよ。あんた優しいからどうしても残された人の気持ちを考えちまうんでしょ。でもそれは殺し屋には命とりさ」
そのあとは今日これから街に売りに行く草履の話に変わり、凍夜だけが一人取り残されたように松清堂の二人の子供のことを考えていた。
「準備が整ったからな」
「準備って何をするんだ?」
「家の間取りを確認したり、誰がどの部屋を使っているか把握したり、火をつけるなら油も調達しなきゃならねえし、どこに火をつけて自分はどこから脱出するか考えておかねえとな」
「で、実際どうするんだ」
凍夜にとっても死活問題である。凍夜だって脱出し損ねたら死が待っているのだ。
「まずお店の方に油を撒いて火をつける。それからすぐにおいらは旦那とお内儀を片付ける。鬼火はお店に火が点いたらすぐに子供たちを避難させろ。裏口から出るんだ。子供たちを無事に逃がしたら、おめえは闇に紛れてここへ戻って来い。絶対に誰かに見られたり後を尾けられることのないようにな。
それから何度も見取り図を見て頭に叩き込んだ。茂助も孫六も「鬼火にちょうどいい仕事だ」と請け合ってくれた。凍夜は落ち着かない気分のまま夜を待った。
夜九ツころに佐平治が呼びに来た。佐平治の編む草履は全く足音を立てない。その上、佐平次は気配を消すのだ。背後に立たれても気付けない。
凍夜は裏口から忍び込み、佐平次は表店の方へと回った。あとは佐平治が火をつけるのを待つだけだ。
物陰に隠れ、静かに息を殺しているだけなのに、心の臓が高鳴った。
火が見えた。佐平治が火を放ったのだろう。だがまだだ、まだ早い。
影が動いて行くのが見えた。あの影は佐平治だ。物音がして再び凍夜の視界に入った佐平治が合図を送って来る。主人とお内儀を仕留めたということだ。まだだ。動くには早い。
佐平治が女中の部屋と子供たちの部屋の間に火を放つ。これで女中は子供たちを助けることができず、一人で逃げることになる。今だ。
そう思った瞬間、子供たちの部屋の唐紙がスパーンと開いた。出端を挫かれた凍夜は、子供の前に出損ねてしまった。
「お清! 火事だ、起きろ!」
凍夜と同い年くらいの男の子だ。傍らには寝ぼけ眼の女の子がいて、男の子の寝巻の帯を掴んでいる。
「父上! 母上!」
兄の切羽詰まった声に驚いた妹が泣き出す。女中の声がそこに重なる。
「旦那様! 旦那様! 坊っちゃん、ご無事ですか、坊っちゃん!」
「うわあああああん、兄上ぇえええ、怖いよぉ」
表店が激しく燃え、屋根が真っ赤に染まる。それでも主人とお内儀の声は聞こえてこない。やはり佐平治が良い仕事をしたのだ。
凍夜は兄妹の前に飛び出した。
「こっちだ!」
「父上は?」
「諦めろ、あっちはもう無理だ」
「ダメだ、私は父上を見殺しにはできない」
「時間がない」
「私は父を探しに……」
そこで凍夜は兄の頬をひっぱたいた。
「妹まで見殺しにする気か。あっちはもう無理だと言っただろう、今はこの子を守ってやれ」
兄は呆然と凍夜を見たが、それも一瞬だった。すぐに泣き喚く妹を負ぶった。
屋敷の外に出ると、女中らしき女が「坊っちゃん、ご無事で!」と駆け寄って来た。近所の人達や火消しの連中が集まってくる中、凍夜は人混みに紛れて静かに姿を消した。
団子屋に戻ると、既に佐平治が井戸の水で足を洗っていた。
「どうだ、うまいこと二人を逃がしたか」
「うん」
「よし、初仕事にしちゃ上等だ。今日はもう寝ろ」
そう言って佐平次は自分の小屋に戻って行った。凍夜も煤で汚れた手足を洗って自分の布団に潜ったが、あの子供たちが今晩寝る布団が無いのだと思うとなかなか寝付けなかった。
翌朝の凍夜は、前の晩になかなか寝付けなかったせいか寝過ごしてしのぶに起こされた。
もう朝餉ができているという。「早く来ないと食いっぱぐれるよ」と急かされた。
顔を洗って朝餉に顔を出すと、いつもと違う食事が出ていた。いつもは野草や野菜くずの入った薄い味噌汁なのだが、今朝は稗と零余子の粥だ。そこに野菜くずが入っている。鍋にいっぱいに作ってあり、おかわりできるらしい。
「どうしたの、これ」
「仕事が上手く行った時は、こうして稗と零余子のお粥を作るの。今回は佐平治さんと鬼火のお手柄。それなのに鬼火ったら起きて来ないんだもん」
「お手柄か……」
凍夜が俯くと、佐平次が「あの子たちのことが気になって眠れなかったか」と言った。図星だった。ここの人達は何でもお見通しだ。
「鬼火。よく聞け」
茂助が口を開いた。
「どんな悪党でも必ず家族がいる。大切な人がいる。おめえに両親がいたように、おめえの仇にも大事な人はいる。おめえが敵討ちをすりゃあ、その大事な人は残されるんだ」
それだけ言うと茂助はまた粥を食べ始めた。
「あたしたちはそれを呑み込んで、一人前の殺し屋になるの。それができそうにないなら、鬼火は今のうちに足を洗った方がいいよ。あんた優しいからどうしても残された人の気持ちを考えちまうんでしょ。でもそれは殺し屋には命とりさ」
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作家 蔵屋日唱
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