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第一章 お玉の憂鬱
第二話
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三郎太が長屋に戻ると、ちょうどお恵が井戸で水を汲んでいるところだった。
「三郎太さん、お帰り」
「ああ、ただいま」
お恵は今年で十歳になる。ちょっとおませで男の子に興味を持ち始めたころだ。去年は三郎太の家に居候していた凍夜に勉強を教えていたが、どうやら美形の凍夜にお熱だったようで、彼が出て行ってからは少し元気がなかった。最近また元気が復活してきたところを見ると、新しい恋でもしたのかもしれない。
「どうしたのよ、そんな顔して」
「この顔は生まれつきでい。文句は親に言ってくんな」
「何かあったでしょ」
「とんだ目に太田道灌てなもんよ」
お恵は汲んだばかりの水をそばにあった湯飲みに入れて、三郎太の方へ突き出した。
「誰かの相談に乗ったでしょ。それがにっちもさっちも行かなくて困ってる」
三郎太は湯飲みを受け取ると一気に飲み干した。
「なんでわかるんだい?」
「顔見てりゃわかるわよ。枝鳴長屋で一番わかりやすい顔だもの」
お恵は三郎太の湯飲みをひったくると、さっさと洗いながらそう言った。
「冗談はおいらだけの顔にしてくれってな。ってどんな顔だよ」
「嘘がつけない顔だよね。全部顔に出ちゃう。そこ行くと悠さんはいつも笑顔だから本当のところ何考えてるかわかんない。栄吉さんなんかはそもそも漬け物石みたいな顔だしね」
栄吉というのは、この長屋ができたときから住んでいる古株で、夜鳴き蕎麦屋をやっている五十代半ばの爺さんだ。眼光鋭く足音も立てず、猛禽のような雰囲気を持っている。
悠は三十手前の色男。柏原で一番の絵師で、子供の頃に潮崎のお城の唐紙を|描いたことで有名だ。美形なうえに洒落者で、いつも女ものの着物を男らしく着流している。ちょいと横にずらした鯔背な髷に、左の耳だけ穴をあけてぶら下げている耳飾りが、美的感覚に優れた絵師らしい。父親も絵師で、歌舞伎役者顔負けの男前だったというもっぱらの噂だ。
「それにさ、三郎太さんて悩み事とか話したくなっちゃう雰囲気だよね。解決してくれることには全く期待してないんだけどね」
「解決は期待しねえのかよ」
「期待しないんじゃなくて、できないのよ」
「ほっておけさの盆踊りでい」
「でも、聞いてくれるだけで心が軽くなる感じ。三郎太さんは心の医者になればいいんだわ。きっとあと何百年かしたら、医療にも心を扱う領域ができてると思うの」
「おいおい、堪忍信濃の善光寺、馬鹿言っちゃいけねえ。それまでおいらは生きてねえよ。だいたいこっちの身がもたねえや」
「確かに三郎太さんは悩みも丸ごと引き受けちゃうもんね。そこがいいんだけど、特定の女の人ができない原因よね。あと、髪も」
髪は余計なお世話である。子供はこういうところに容赦がない。
「それよりお恵ちゃんこそどうしたんだい。凍夜がいなくなってからずっと塞いでたのに、なんだか最近楽しそうじゃねえか」
お恵はあからさまに耳まで赤くした。これは恋だ。
「友達ができたの。お茶屋の徳屋さんに少し前に入った丁稚奉公の男の子。ほら、去年凍夜がここを出て行ってちょっとしたくらいに、生薬屋の松清堂から火が出て子供たちだけ逃げたでしょ。その子たち二人いたんだけど、上の子で松太郎さんて言うの。今まで大店のお坊ちゃんとして何不自由なく暮らしていたのに、いきなりこんなことになって。それでも一所懸命働いているのよ」
これは大本命だな、と三郎太は心の中でニヤニヤする。
「ああ、松太郎を徳屋さんに紹介したのは悠さんなんだぜ。あんまり松太郎の話ばかりすると、悠さんがヤキモチ焼くぞ。凍夜の時だって随分妬いてたんだ。心配しすぎて禿げるかと思った」
「それは心配してもしなくても一緒だよ」
それを言われては元も子もない。
「悠さんて黙っていたら男前なのに、どうして子供にしか興味ないのかしら」
「性癖ってのはいろいろなんだよ」
恋愛に全く縁のない三郎太が言っても、まったく説得力はないのだが。
「そういえば、松太郎さんと一緒に逃げた妹のお清ちゃんはどこに行ったのかしら」
「悠さんが蜜柑太夫に頼んで、柏茶屋で面倒見て貰ってるみたいだよ。蜜柑太夫になら安心して任せられるからな」
「お清ちゃん、九歳の松太郎さんより二つ下だって言ってたから、今年七歳ね」
「お恵ちゃん十歳になって良かったな。七歳くらいなら悠さんの性癖ど真ん中だぞ」
「悠さんの守備範囲は多分十歳くらいまでよ」
「なんてこった、ますますおでこが広がる」
「悠さんがいて良かったね。髪が薄いのを悠さんのせいにできるわ」
三郎太は思わず「そうだな!」と言いそうになって、「いや、そうじゃないだろう」と心の中で慌てて訂正をした。
「三郎太さん、お帰り」
「ああ、ただいま」
お恵は今年で十歳になる。ちょっとおませで男の子に興味を持ち始めたころだ。去年は三郎太の家に居候していた凍夜に勉強を教えていたが、どうやら美形の凍夜にお熱だったようで、彼が出て行ってからは少し元気がなかった。最近また元気が復活してきたところを見ると、新しい恋でもしたのかもしれない。
「どうしたのよ、そんな顔して」
「この顔は生まれつきでい。文句は親に言ってくんな」
「何かあったでしょ」
「とんだ目に太田道灌てなもんよ」
お恵は汲んだばかりの水をそばにあった湯飲みに入れて、三郎太の方へ突き出した。
「誰かの相談に乗ったでしょ。それがにっちもさっちも行かなくて困ってる」
三郎太は湯飲みを受け取ると一気に飲み干した。
「なんでわかるんだい?」
「顔見てりゃわかるわよ。枝鳴長屋で一番わかりやすい顔だもの」
お恵は三郎太の湯飲みをひったくると、さっさと洗いながらそう言った。
「冗談はおいらだけの顔にしてくれってな。ってどんな顔だよ」
「嘘がつけない顔だよね。全部顔に出ちゃう。そこ行くと悠さんはいつも笑顔だから本当のところ何考えてるかわかんない。栄吉さんなんかはそもそも漬け物石みたいな顔だしね」
栄吉というのは、この長屋ができたときから住んでいる古株で、夜鳴き蕎麦屋をやっている五十代半ばの爺さんだ。眼光鋭く足音も立てず、猛禽のような雰囲気を持っている。
悠は三十手前の色男。柏原で一番の絵師で、子供の頃に潮崎のお城の唐紙を|描いたことで有名だ。美形なうえに洒落者で、いつも女ものの着物を男らしく着流している。ちょいと横にずらした鯔背な髷に、左の耳だけ穴をあけてぶら下げている耳飾りが、美的感覚に優れた絵師らしい。父親も絵師で、歌舞伎役者顔負けの男前だったというもっぱらの噂だ。
「それにさ、三郎太さんて悩み事とか話したくなっちゃう雰囲気だよね。解決してくれることには全く期待してないんだけどね」
「解決は期待しねえのかよ」
「期待しないんじゃなくて、できないのよ」
「ほっておけさの盆踊りでい」
「でも、聞いてくれるだけで心が軽くなる感じ。三郎太さんは心の医者になればいいんだわ。きっとあと何百年かしたら、医療にも心を扱う領域ができてると思うの」
「おいおい、堪忍信濃の善光寺、馬鹿言っちゃいけねえ。それまでおいらは生きてねえよ。だいたいこっちの身がもたねえや」
「確かに三郎太さんは悩みも丸ごと引き受けちゃうもんね。そこがいいんだけど、特定の女の人ができない原因よね。あと、髪も」
髪は余計なお世話である。子供はこういうところに容赦がない。
「それよりお恵ちゃんこそどうしたんだい。凍夜がいなくなってからずっと塞いでたのに、なんだか最近楽しそうじゃねえか」
お恵はあからさまに耳まで赤くした。これは恋だ。
「友達ができたの。お茶屋の徳屋さんに少し前に入った丁稚奉公の男の子。ほら、去年凍夜がここを出て行ってちょっとしたくらいに、生薬屋の松清堂から火が出て子供たちだけ逃げたでしょ。その子たち二人いたんだけど、上の子で松太郎さんて言うの。今まで大店のお坊ちゃんとして何不自由なく暮らしていたのに、いきなりこんなことになって。それでも一所懸命働いているのよ」
これは大本命だな、と三郎太は心の中でニヤニヤする。
「ああ、松太郎を徳屋さんに紹介したのは悠さんなんだぜ。あんまり松太郎の話ばかりすると、悠さんがヤキモチ焼くぞ。凍夜の時だって随分妬いてたんだ。心配しすぎて禿げるかと思った」
「それは心配してもしなくても一緒だよ」
それを言われては元も子もない。
「悠さんて黙っていたら男前なのに、どうして子供にしか興味ないのかしら」
「性癖ってのはいろいろなんだよ」
恋愛に全く縁のない三郎太が言っても、まったく説得力はないのだが。
「そういえば、松太郎さんと一緒に逃げた妹のお清ちゃんはどこに行ったのかしら」
「悠さんが蜜柑太夫に頼んで、柏茶屋で面倒見て貰ってるみたいだよ。蜜柑太夫になら安心して任せられるからな」
「お清ちゃん、九歳の松太郎さんより二つ下だって言ってたから、今年七歳ね」
「お恵ちゃん十歳になって良かったな。七歳くらいなら悠さんの性癖ど真ん中だぞ」
「悠さんの守備範囲は多分十歳くらいまでよ」
「なんてこった、ますますおでこが広がる」
「悠さんがいて良かったね。髪が薄いのを悠さんのせいにできるわ」
三郎太は思わず「そうだな!」と言いそうになって、「いや、そうじゃないだろう」と心の中で慌てて訂正をした。
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