柿ノ木川話譚5・お恵の巻

如月芳美

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第五章 七篠先生

第十六話

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いわ(癌)……ですか」
 榎屋のおかみさんを乗せた手押し車を押しながら、悠はボソリと言った。
「そうさ、体中に広がっちまってね。胃の腑も岩になっちまってるから食べられないんだ」
 岩になってしまったらもう治らないというのはこの時代では常識である。その岩はどうやって移動していくのか、体のあちこちにでき始める。体中を岩に占拠されてしまったら、もう助かる見込みはない。ただ黙って死を待つだけだ。
 岩は激痛を伴うという。それでもおかみさんは普通の調子で話していた。大したものだと悠は思った。これくらいでないとあの榎屋を切り盛りできなかったのだろう。おかみさんあっての榎屋のようなところがあった。
 椎ノ木川を下ると柿ノ木川に合流する。そこに街道が引いてある。楢岡は柿ノ木川の下流に当たるので、道の右側が柿ノ木川、左側が山になっている。といっても右側だって川の向こうは山なのだが。
「ほら、おかみさん。あそこごらんなさいな、山桜が咲いてますよ。やっぱり柏原より楢岡の方が下流だから早いんでしょうかねぇ。柏原ももう少ししたら椎ノ木川沿いの桜が咲きますねぇ」
「あたしはそれまで生きられないよ」
 悠はその言葉に、彼女の猛烈な生への執着を感じた。
 本当は生きたいのだ。お玉の祝言を楽しみにして、孫の顔を見たいのだ、その手で抱きたいのだ。だが、それができないこともわかっている。あと数日しか持たない体だということもわかっているから、これ以上苦しまずに早く逝ってしまいたいのだ。今だって相手がお玉ではなくて悠だから、ひたすら痛みに耐えているのだ。
「お玉ちゃんの縁談、流れちまいましたね」
「ええ、あたしのせいでね。児玉屋さん乗り気だったのに」
「お玉ちゃんに悪いことをしたと思っているんですか」
「そりゃそうさ。それが心残りでね」
「お玉ちゃん自身がそれを喜んでいても?」
「え?」
 どこかで気の早い鶯が鳴いた。
「児玉屋の秀次さんでしたっけね。あの人とお玉ちゃんは似合いだったかもしれません。でもそれってどなたが決めたんです?」
「うちの人が。あの子みたいなのは嫁の貰い手がいないから、どこかの小さいお店の次男坊がいいだろうって」
「おやおや、お玉ちゃんの希望も聞かなかったんですねぇ。お玉ちゃんにはいい人がいたんですよ」
「そうなの?」
 驚いたおかみさんは激しくむせた。ほんの少しだが血も吐いたようだが、いつものことなのか、平然とぬぐっただけだった。
「それにね、児玉屋さんが乗り気だったとは思えないんですよ。長男は児玉屋の後を継ぐ、次男坊は邪魔だから出て行かなければならない。だから女は居るが男がいないところに縁談させてそこに入り婿として入ってそのお店を継ぐ、まあ考えそうなことですね」
「じゃあ、秀次さんが榎屋を継ぐというか乗っ取るつもりだったと?」
「そりゃそうでしょうよ。現にこうしておかみさんが大変な時に見舞いの一つも来ない。介護を嫌がって縁談を破棄する。この縁談は流れて正解ですよ。秀次が欲しいのは榎屋であってお玉ちゃんじゃありませんよ」
 だいぶ柿ノ木川を下って来た。もうすぐ楢岡に入るだろう。
「それでお玉にいい人ってのは?」
「琴次って言うんです。秀次と名前は似てますけど、全然中身が違います。髪結いをやってるいい男なんです。あたしははっきり言っちまいますけどね、おかみさんはもう長くない。だからね、おかみさんの目の黒いうちに、お玉ちゃんと琴次に祝言を挙げさせてやりたいんです。お玉ちゃんの白無垢姿をおかみさんに見てやってほしいんですよ」
 おかみさんはしばらくぼんやりと柿ノ木川の流れに目をやっていた。児玉屋のことを考えていたのだろうか、琴次という男がお玉にいたことを知らなかった自分を恥じているのだろうか。
 鳶がぴーひょろろろと大きな輪を書く。悠はおかみさんの反応を待った。
「祝言まであたしが持つかねえ」
「持たせるんです。これから七篠先生のところへ行くのに、どうしてあたしが来たと思ってるんです。今頃、榎屋さんでは二人の祝言の準備で大わらわですよ」
「今日?」
 驚いて振り返ろうとするおかみさんに悠は笑った。
「花嫁衣装も借りて来ました。お玉ちゃんの高島田はきっと琴次が結い上げてますよ。いつもあたしが世話になってるんです。腕は確かですよ。だからね、おかみさんは今日は七篠先生にしっかり麻酔かけて貰ってお玉ちゃんの白無垢を見てやっておくんなさいよ」
「そういうことだったのかい……あたしは……あたしは……」
「泣いちゃいけませんよ、また咳が出ます」
「ありがとうねぇ。これで心置きなく逝けるってもんだよ」
「ね。だから今日一日は何が何でも元気でいて貰わないと困るんですよ。あたしも頑張って押しますから」
「あたしが味噌樽みたいな体だった頃ならあんたにはここは押せなかったねぇ。そう思えば、枯れ枝みたいになるのも悪くないね」
 おかみさんがそう言うと、二人で声を上げて笑った。
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