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第五章 七篠先生
第十七話
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しばらくして一本松が見えてきた。有名な『楢岡の一本松』だ。この松を過ぎると楢岡の町に入る。
この松はいわくつきで、根元に置いてある賽銭箱に報酬と標的を書いた紙を入れておくと、殺し屋がその仕事を請け負うことになっているらしい。一本松の賽銭箱に入れることから『松毬一家』と呼ばれているが、その姿を見たものは誰もいない。
この一本松の手前に左に入る道がある。その道は左に入った後すぐに右に大きく曲がりながら坂道を登っていくので誰もそっちにはいかないが、お恵の話によると、去年付け火に遭ってお店を畳んだ生薬屋の松清堂に以前勤めていた甚六が住んでいるらしい。この上ならば土地もたくさんあるだろうし、他に誰も住んでいないので薬もたくさん作れるのだそうだ。お恵はここまで三郎太に送られて甚六の息子たちに読み書きを教えているんだな、と悠は関係ないことを考える。まあ、彼の優先順位で考えれば、よそのおかみさんよりお恵の方が上なのだから仕方ない。
「七篠先生のところはもう少し先ですね」
「ええ、さっきの一本松のところみたいに左に入る道が」
おかみさんは再び激しく咳込んだ。悠は岩の恐ろしさを始めて間近で見て、本能的な恐怖を感じた。母の花柳病とはまた違う恐ろしさだった。吐いた血で手拭いが一本真っ赤に染まった。お玉がこの人を一人でずっと看病していたのだと思うと胸が痛んだ。
しばらくして、一本松のところのように左にそれる小さな脇道があった。おかみさんの案内に従って、そのわき道に入って行った。左にそれて、またすぐに左にそれるながら山道を登っていく。今来た道を戻るような形でちょっとした山を登るようだ。
そう言えば甚六のところも左に入ってすぐに右に大きくそれて登ると言っていた。案外甚六の家と七篠先生の診療所は山の上の方では近いのかもしれない。
普段あまり力仕事をしない悠には、この坂道は少々難儀した。いつも「あたしは筆より重いものが持てないんでねぇ」とか言って、力仕事は三郎太に任せていたのがあだになった。
下男をやっていた頃はなんでもやっていたはずなのに、これではいけない。いざという時に幼女を助けられないようでは困る。
そんな「他人にはどうでもいいが悠にとっては死活問題になる」ようなことを考えていると、唐突に建物が現れた。入り口はひとつ。だが奥に向かって何部屋もあるようだ。
悠は不意に『安楽死』という言葉を思い出した。そうだ、ここでたくさんの薬を使ってもすぐに死ねなかった場合の部屋が必要なのだ。昏睡状態のまま死を待つだけの人の部屋が。家族がその死に立ち会えるよう、三畳くらいの部屋が三つ四つあるのかもしれない。
「ほら、そこに『診療中』の看板がかかっている時は声をかけずに外で待つんですよ。でもそれが無い時は誰も患者さんがいないってことなんです」
つまり今なら七篠先生に会えるということだ。
彼は玄関の引き戸を開けると「ちょいと御免なさいよ、七篠先生はおいでですかい」と奥に向かって声をかけた。奥の方でなにやら物音がして白衣を着た女性が縁側を小走りにやって来た。
驚いたのはその廊下である。真ん中に部屋が並び、その両側に縁側があるのだ。何組かの家族がその死に立ち会う時、知り合いだと気まずいことこの上ないだろう。お互いに顔を合わせずに済むように、どちらかの縁側を廊下にしているに違いない。
「お待たせしました、どういったご用件でしょうか」
「すいませんねぇ、七篠先生に会いに」
「わたくしが七篠です」
悠は固まった。勝手に勘違いしていた自分が悪いのだが、七篠先生は男性だとばかり思いこんでいた。そういえばお玉もおかみさんも、七篠先生が男性だとは一言も言っていなかった。
「すみません、あたしは悠って言いましてね。今日はお玉ちゃんの代理であたしが榎屋のおかみさんをお連れしたんです。今日は何が何でも麻酔をガンガン利かせて一日だけでも楽しませてやってください。お玉ちゃんの祝言があるんです」
「まあ、祝言ですか、おめでとうございます。ですが麻酔をガンガンとおっしゃっても……」
七篠先生は長いまつげをやや伏せた。まだ三十路に入ったばかりだろう、色白で「医者の不養生」という程度には痩せていた。
悠がすっと彼女に顔を近づけると、一瞬ぽっと赤くなった。
「七篠先生も医師ならご存知でしょう。おかみさんはもってあと二日三日ってとこだ。あたしはおかみさんの目の黒いうちにお玉ちゃんの白無垢姿を見せてやりたいんですよ」
「でもそのためには」
「ええ、わかってます。寿命を縮めるかもしれません。それでも一日二日縮まったところで変わらないでしょう。それよりはお玉ちゃんの祝言を見せてやることの方がずっとおかみさんのためになる。それさえ見れれば今夜亡くなってもおかみさんは満足でしょう。先生もおなごならあたしなんかよりずっと共感できるんじゃありませんか?」
そう言った男は下手な女より色気があり、顔を離すと岩絵の具の残り香がした。
「わかりました。おかみさんを中へ。あなたは外でお待ちください。半刻ほどかかります」
悠は「じゃあ、頼みましたよ」とだけ言って外へ出た。
この松はいわくつきで、根元に置いてある賽銭箱に報酬と標的を書いた紙を入れておくと、殺し屋がその仕事を請け負うことになっているらしい。一本松の賽銭箱に入れることから『松毬一家』と呼ばれているが、その姿を見たものは誰もいない。
この一本松の手前に左に入る道がある。その道は左に入った後すぐに右に大きく曲がりながら坂道を登っていくので誰もそっちにはいかないが、お恵の話によると、去年付け火に遭ってお店を畳んだ生薬屋の松清堂に以前勤めていた甚六が住んでいるらしい。この上ならば土地もたくさんあるだろうし、他に誰も住んでいないので薬もたくさん作れるのだそうだ。お恵はここまで三郎太に送られて甚六の息子たちに読み書きを教えているんだな、と悠は関係ないことを考える。まあ、彼の優先順位で考えれば、よそのおかみさんよりお恵の方が上なのだから仕方ない。
「七篠先生のところはもう少し先ですね」
「ええ、さっきの一本松のところみたいに左に入る道が」
おかみさんは再び激しく咳込んだ。悠は岩の恐ろしさを始めて間近で見て、本能的な恐怖を感じた。母の花柳病とはまた違う恐ろしさだった。吐いた血で手拭いが一本真っ赤に染まった。お玉がこの人を一人でずっと看病していたのだと思うと胸が痛んだ。
しばらくして、一本松のところのように左にそれる小さな脇道があった。おかみさんの案内に従って、そのわき道に入って行った。左にそれて、またすぐに左にそれるながら山道を登っていく。今来た道を戻るような形でちょっとした山を登るようだ。
そう言えば甚六のところも左に入ってすぐに右に大きくそれて登ると言っていた。案外甚六の家と七篠先生の診療所は山の上の方では近いのかもしれない。
普段あまり力仕事をしない悠には、この坂道は少々難儀した。いつも「あたしは筆より重いものが持てないんでねぇ」とか言って、力仕事は三郎太に任せていたのがあだになった。
下男をやっていた頃はなんでもやっていたはずなのに、これではいけない。いざという時に幼女を助けられないようでは困る。
そんな「他人にはどうでもいいが悠にとっては死活問題になる」ようなことを考えていると、唐突に建物が現れた。入り口はひとつ。だが奥に向かって何部屋もあるようだ。
悠は不意に『安楽死』という言葉を思い出した。そうだ、ここでたくさんの薬を使ってもすぐに死ねなかった場合の部屋が必要なのだ。昏睡状態のまま死を待つだけの人の部屋が。家族がその死に立ち会えるよう、三畳くらいの部屋が三つ四つあるのかもしれない。
「ほら、そこに『診療中』の看板がかかっている時は声をかけずに外で待つんですよ。でもそれが無い時は誰も患者さんがいないってことなんです」
つまり今なら七篠先生に会えるということだ。
彼は玄関の引き戸を開けると「ちょいと御免なさいよ、七篠先生はおいでですかい」と奥に向かって声をかけた。奥の方でなにやら物音がして白衣を着た女性が縁側を小走りにやって来た。
驚いたのはその廊下である。真ん中に部屋が並び、その両側に縁側があるのだ。何組かの家族がその死に立ち会う時、知り合いだと気まずいことこの上ないだろう。お互いに顔を合わせずに済むように、どちらかの縁側を廊下にしているに違いない。
「お待たせしました、どういったご用件でしょうか」
「すいませんねぇ、七篠先生に会いに」
「わたくしが七篠です」
悠は固まった。勝手に勘違いしていた自分が悪いのだが、七篠先生は男性だとばかり思いこんでいた。そういえばお玉もおかみさんも、七篠先生が男性だとは一言も言っていなかった。
「すみません、あたしは悠って言いましてね。今日はお玉ちゃんの代理であたしが榎屋のおかみさんをお連れしたんです。今日は何が何でも麻酔をガンガン利かせて一日だけでも楽しませてやってください。お玉ちゃんの祝言があるんです」
「まあ、祝言ですか、おめでとうございます。ですが麻酔をガンガンとおっしゃっても……」
七篠先生は長いまつげをやや伏せた。まだ三十路に入ったばかりだろう、色白で「医者の不養生」という程度には痩せていた。
悠がすっと彼女に顔を近づけると、一瞬ぽっと赤くなった。
「七篠先生も医師ならご存知でしょう。おかみさんはもってあと二日三日ってとこだ。あたしはおかみさんの目の黒いうちにお玉ちゃんの白無垢姿を見せてやりたいんですよ」
「でもそのためには」
「ええ、わかってます。寿命を縮めるかもしれません。それでも一日二日縮まったところで変わらないでしょう。それよりはお玉ちゃんの祝言を見せてやることの方がずっとおかみさんのためになる。それさえ見れれば今夜亡くなってもおかみさんは満足でしょう。先生もおなごならあたしなんかよりずっと共感できるんじゃありませんか?」
そう言った男は下手な女より色気があり、顔を離すと岩絵の具の残り香がした。
「わかりました。おかみさんを中へ。あなたは外でお待ちください。半刻ほどかかります」
悠は「じゃあ、頼みましたよ」とだけ言って外へ出た。
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