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青年時代
28
しおりを挟む翌朝、まだ霧がかかる山道。
この坂道を進めば丘の宮殿に行けるのだが、ふいに横道を逸れて坂を登っていくルージュは急に立ち止まった。黒いハットを被り、灰色のパンツスタイルの彼女の衣装は、ヴァンにとって新鮮に映った。この世界では、女はスカート、男はパンツという格好が定番だからだ。
──男装する変な女。
と、ヴァンは思っていた。
そんなイケメン然としたルージュの後についていたヴァンは、さらさらと風に揺れる金糸の髪を見つめていた。帽子のなかから垂れるおくれ毛だけが、彼女の美しい女らしさをかすかに光らせていた。
「どこに連れて行く気ですか?」
ふん、とルージュは鼻で笑う。
「着きましたよ」
そこは土砂崩れが起きた原因の場所だった。
えぐられた山肌が赤土を晒している。もげられた木々、転がる巨大な岩の群れ。もしも地獄があるとしたら、このような世界かもしれない、と思うヴァンの身体は震えていた。
だがルージュはそんなのお構いなしで、じっと岩を観察する。そのザラついた岩肌をなでた指先を見つめる瞳は、まるで学者のようだ。
「形、大きさ、うん……この岩がいいわね」
「ルージュさん、まさか!? このでっかい岩を落とせってことですか?」
「ご名答、うふふ」
「はあ? 無理ですよ!?」
思わずヴァンは巨大な岩に触れ、驚愕した。
不敵な笑みを浮かべたルージュは言う。
「あら、意外と簡単よ」
あらかじめ用意しておいてあったのだろうか、ルージュはおもむろに木陰から木の棒を取り出した。美少女が持つには、まったく不似合いな木の棒だったで、ヴァンは少しだけ可笑しくなって、ぷっと噴いた。それを見たルージュは、はあ? と片方の眉を吊りあげた。
「うむ……この岩の大きさからして、二メートルの棒で十分でしょう。この棒を使います」
「そんなの、どうするんですか?」
「もちろん、これ単品だけではこのような巨大な岩は動かせませんよ」
「え?」
「ちょっといいですか、ヴァンさん? そこの足元にある小ぶりの石を持ちあげて運んで下さい」
ルージュは人差し指で、つんと膝丈ほどの石を示した。
「岩の近くに置いて下さい」
仕方ないとばかりに腰と落としたヴァンは腕を伸ばし、石を抱えた。
「どこに置けば? このへん?」
「いや、もっと西」
「西? どっちですか?」
「ああ、ヴァンさんからしたら、右手の方角です」
「ここでいいですか?」
「うーん、もう一歩、右」
「ここ?」
「ああ、行き過ぎですっ! 半歩、左」
──人使いが荒いな。
ヴァンはルージュの言う通りに動き、石を置いた。
するとルージュは巨大な岩の下に木の棒を刺し始める。ぐりぐりと斜めに、恨みを晴らすかのように。やがてその棒が、ぐいっと鋭角に突き刺さると、先ほどヴァンが置いた小さい石が当たる仕組みとなった。
「これで、よしっ!」
ルージュは額の汗を手の甲で拭う。
なんですか、これは? とヴァンが訊くと彼女は快活に答えた。
「梃子の原理です」
「テコのゲンリ? こんなので岩が動くのですか?」
「はい、木の棒の端を持ってください、ヴァンさん」
こうですか? と言いながらヴァンは木の棒を持った。
ルージュは腰を落とす仕草をすると言う。
「棒を下に落としてみて下さい」
はい、と答えたヴァンは試しに棒に力を加え落としてみた。すると、真ん中にある石がつっかえて支点となり、ただの棒が巨大な岩を少しだけ浮かす強力な棒となった。
「うおお! 動いた!」
ヴァンはおもちゃを貰った子どものように喜んだ。
「すごいすごいすごい! ルージュさんは天才だ!」
えへへ、とルージュは指先で鼻を触れた。
「まあ、こんな仕掛けは小学生の理科で習います」
「え? ショウガクセイ? リカ? なんですかそれは?」
「いいえ、こっちの話です。物理学ですよ」
「ルージュさんって変わってますよね」
「その言葉、あなたに言われたくありませんが、褒め言葉として受け取っておきましょう」
二人は笑った。
その笑い声は空高く舞い上がり、飛ぶ鳥の鳴き声と重なる。
そして、岩を落とす時間が訪れようとしていた。崖の下の道では、馬車の往来が見られる。そこまで来て、ヴァンはようやく察した。
──岩を落として馬車に激突させる計画だろう。
だが、ルージュは何も言わない。
言ったらダメだ。犯罪になってしまう。あくまでも、これは自然現象なのだ。俺たちはそれに、少しだけ手を加えるだけ。ただそれだけなのだ、とヴァンは自分に言い聞かせた。
そして、その時間がきた。
ルージュは鞄から縦笛を取り出した。
「私がこのリコーダーを鳴らしたら……落として下さい」
ヴァンは、こくりと頷いたが内心では、ルージュから飛び出す聞いたこともない単語に違和感を覚えた。
──リコーダー?
ルージュは微笑みを残しつつ、さっと踵を返して歩いていく。颯爽と風のように向かった先は崖の下。馬者の往来を見定めている。しばらくして、ルージュの視線が鋭くなった。
「あの馬車に、王子ノワールがいる……」
王宮御用達の豪華絢爛な馬車を、青い瞳が捉えている。
ルージュの頭のなかで、自分が描いていた絵画『自然の脅威』が蘇る。何回も何回も、この光景をシミュレーションしていた。馬車の走行速度と、岩の落下速度の計算が、ぴったりと答えを導きだす。
ピュー!
ルージュは縦笛に息を吹きこみ、美しくも高らかな音色を鳴らした。それは鳥の鳴き声とよく似ていたが、崖の上にいるヴァンには、それがルージュからの合図だと理解していた。
「ふんっ!」
ヴァンは思いっきり力を込めて棒を下に落とした。
すると、巨大な岩が面白いように浮き上がり、ゴロゴロと転がっていった。
「よっしゃー! いっけー!」
ヴァンの狂気じみた叫び声とともに、巨大な岩が物凄い音を立てて転がり、やがて崖の下に落ちる寸前までいく。その落下地点をヴァンは目を凝らして見つめていた。
ちょうど、そのときだった。
騎士たちが護衛する王宮の馬車が山道を走ってきた。このままいくと、落下する岩に衝突するだろう。
──完璧じゃないか……。
ヴァンは急に恐ろしくなった。
これから起こる惨劇。それと同時に、ルージュの天才的な頭脳に恐怖すら覚えた。
ガガガッガガ!
自然災害は誰も予想ができない。
そのはずなのだが、今まさに岩は自分の手で落とされた。その事実が握っていた棒の感触として、ヴァンの手に伝わっていた。
そして王宮の馬車は落下した岩に押し潰され、粉々に砕け散った。砂埃を巻き上げ、山道は一瞬にして地獄と化し、慌てふためく騎士たちの悲鳴が、まるで暴風のように吹き荒れた。
「今日は鳥がよく鳴くわね」
と、ルージュはささやいた。
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