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二十六章 異性の好みに口出しするのは、野暮だと覚えておこう

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 生徒の夏季休業期間中も、加藤はバタバタ動き回っていた。

「あらせいちゃん。怠け者の節句働きならぬ、夏休み働きかしら」

 などという、白根澤のツッコミに、言葉を返す暇もなかった。

 そして、出張届を出すと、その足で新幹線に飛び乗った。
 行先は兵庫。出張の表向きは、全国養護教諭大会への参加。
 しかして真の目的は、音竹の伯母に会うことだ。

 神戸までは三時間弱。少し寝ようかと思った加藤のスマホに、母からメールが届く。

「この小説を読んで、感想を送ること」

 母からのメールには、ネット小説のURLが載っていた。

「なんだこれ。『婚約破棄は構わないのですが、あなた様がケンカを売ったお相手……』って、これを読めだと? 何考えてるんだ、あの母親」

 仕方なく、中身の薄そうな小説を、加藤は斜め読みした。


 音竹の伯母、長尾亜都子ながおあつこは兵庫在住だ。
 同県の研究所に勤務しているという。
 三宮のバスターミナル近くの喫茶店で、会うことになった。

「珍しいわね。男性の養護教諭って」

 待ち合わせの時間ぴったりに現れた長尾は、額のラインが綺麗な弧を描く、いかにも理知的な女性である。
 ただし、その唇から吐き出される言葉は、氷雪魔法の呪文のようだ。

「それで、音竹伸市について、私に聞きたいことって何かしら」

 眉間の皺を深くして、長尾は加藤に訊く。
 
「音竹君が夏休み直前に、保健室で言いました。『僕は父を殺した』って」

 スプーンがテーブルにぶつかり、軽い音をたてる。
 長尾の指先は震えていた。

「ば、馬鹿な。伸市が、生まれる前に死んだ男を、伸市が殺せるわけないでしょ!」

「俺もそう言いました。だけど、彼の心は傷ついている。自分が産まれなかったら、妊娠しなかったら、父だった人は別の女性と、結婚出来たはずだって……」

 長尾は目を見開き、加藤を凝視する。
 唇を、白くなるほど噛みしめながら。
 見開いた目の縁から、ぽたりと滴が落ちた。

 加藤はチーズケーキを食べながら、長尾の言葉を待った。
 神戸名物「とろふわチーズケーキ」の甘さは、至極控えめだった。


「あの子には、伸市には罪なんてないわ。あるとしたら、伸市の父親と、母親。そして、その二人を放置した、私」

 長尾はぽつぽつと、語り始めた。

 伸市の父親だった男性、音竹伸彦は長尾の大学の同級生で、長尾自身が婚約していた。
 長尾は学位取得後すぐに就職が決まったが、音竹伸彦は非正規雇用に甘んじていた。
 
「入籍前だったけど、彼の生活が不安定だったから、一緒に暮らしていたの。そこへ妹の樹梨じゅりもよく遊びに来てた」

 長尾が仕事に忙殺されている間に、いつしか伸彦と樹梨は恋人関係になっていた。

「私が気付いた時には、もう樹梨は妊娠していた。伸彦は土下座、樹梨はただ泣くだけ。もう全部馬鹿らしくなって、私は兵庫こっちへ転勤願いを出したわ」

 昔から、姉である長尾の持ち物を、何でも欲しがる妹だった。
 長尾の両親が、それを窘めることはなかったという。

 加藤は、音竹伸市の母親、樹梨の顔を思い浮かべる。
 ふわふわの髪を、自分の人差し指でくるくる巻いていた。

 幼児性の高い女性に、よく見られる行動だ。

 そして姉の物を欲しがったというのは、自分に自信がない証拠。

「復縁の申し出はなかったのか?」

「音竹から? ああ、あったわよ、二人が入籍してすぐに。これ以上馬鹿にしないでって、断ったけどね」

 なるほど。
 婚約破棄された優秀な姉。破棄した側のアホな連中。
 ネット小説で流行りだという「婚約破棄」モノの実例みたいだ。

 加藤の母が読めといったのは、このためだったのか。
 加藤の母は、ヘンなところで勘が良いのだ。
 

「音竹の父親は、あんたに復縁を蹴られて、自殺でもしたのか?」

 段々加藤も素の喋りになる。

「自殺、と思いたくはないのだけど、……自損事故で亡くなったわ」

 長尾は小さく笑う。

「だいたい、自分より成績が良いとか給料が良いとか、男ってそんな女を嫌うでしょ? ゆるふわで、庇護欲を誘う華奢な女の子が良いって」

 はぁ?
 加藤は叫ぶ。心の中で。
 いきなり何を言っているのだ、この長尾という女は。

「いや。あんたの周囲の少数の事例だけで、男性全体を論じないで欲しい」

 きっぱりと言い放つ加藤に、長尾も眦を吊り上げる。

「あら、あなただってそうじゃないの? 教え子の母親が美人で儚げだから、わざわざ兵庫くんだりまで来たんでしょ?」

 心の底から「ちげーよ!」と叫びたい。
 
「そもそも俺は、女の顔の美醜基準なんて分からないし、分からなくて良い。俺にとっての美は、広隆寺の弥勒菩薩像だ。俺の友人なんかも、好みのタイプは『目と目の間が限りなく広い、爬虫類みたいな女』とか言ってるしな。……そんなことはどうでもイイや。

俺が来たのは、音竹伸市の心身の傷みを、なんとかしてやりたい、それだけだ!」

 長尾の表情がふわりと変わる。

「変わった先生ね」

「ああ、よく言われる」

「私は何をすれば良いのかしら。伸市のために」

 加藤は二かッと笑う。そして「淡路島特産新鮮卵プリン」を注文した。

「準備が出来たらお呼びするよ。妹さんにも、会ってもらわなければならないが……」

「それは構わないわ」

「ああ、それと、篠宮って医者、知ってるか?」

「篠宮……音竹の高校時代の同級生、だったかしら」

 加藤の脳内で目まぐるしく仏像が回転する。
 足りなかったピースが、パチンパチンと埋まる。

 卵プリンのカラメルソースは、結構甘く、加藤の好みの味だった。


 翌日、加藤のスマホに、今度は父親からメッセージが届いた。

「もろもろ、準備完了」
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