虚構の軍師 上杉謙信軍師『宇佐美定行』を作った男、名は宇佐美勝興

筒香時一

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第一歩

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元和十年(1624年)初春、まだ常陸国水戸は夜ともなれば肌寒い。
そんな城下のノ刻あたり、一軒の粗末な足軽長屋にて一組の男女が『一仕事』を終えたかのように、激しい吐息を漏らしている。
互いに全裸、『あの後』なのは間違いなさそうだ。
よって、この様子だけなら夫婦の営みの後、子孫繁栄を願った先の行為と思われるかもしれない。

だが違う。

この男女は全くの垢の他人、然も事を始める三刻ほど前に偶々知り合っただけの関係だ。
当然ながら、『愛』なんていう崇高ものは無かった。
互いが持つ、浅ましい『本能』が引き起こした愚かしい行為の結果だけだ。

暫くして徐々に興奮は遠ざかり、二人は賢者のように冷静になっていった。
但し、男女間で大きな違いは存在する。
男は余韻を味わうと同時に、じわじわと『またやってしまった……』との後悔の念が湧き上がって来た。
一方で女は現実的だ。 この男に着いて行けば、現在の貧困生活とは別れられると確信し始めていた。
騙されているとも気が付かずに……出会った際の、如何にもという男の出立ちと巧妙な口車によってだ。

そんな女が男の胸へ、指先で何やらなどり始めた。
別に意味は無い、ただ男の気を自分から離したくないと思いなどっただけだ。
そんな女が、わざと甘えるような声で聞いた。

勝興かつおき様、あと幾日ほどで仕官はまとまるのでしょうね?」

「そうだな……こればかりは俺とて分からん。
『時流の流れ』という言葉もあるからな」

「ならば、決まったも同然ですわ。
貴方様ほどの知恵者、放っておくはずがありませんもの」

このような会話の流れに、男は一瞬の硬直を見せた。
自分の未来への明るい展望を見出した女には、それが男の抱いた野望への現れだと思ったが、これは残念ながら違う。 単純に不安の表れだった。 

この男、名門山内上杉家と関東管領職を継承し北国(現在の北陸地方)や関東で戦さを繰り広げた長尾景虎(後の上杉謙信)に仕えた宇佐美定満の孫、『宇佐美勝興うさみかつおき』という浪人である。
ここ水戸には亡き大権現の十一男である徳川頼房、水戸藩に仕官するために訪れていた。

だからこその不安が、この男には常に付きまとっている。
要は、この嘘がバレるかバレないかという、子供染みたものについてだ。

何故なら宇佐美定満には子孫などおらず、もう親戚縁者もいない。 宇佐美家など、二十年ほど前には跡形もなく断絶していたのだ。
では、この『宇佐美勝興』と名乗る男は一体何者なのか?

本当は『若山三木乃助わかやまみきのすけ』という名であり、越後国三条藩稲垣家に仕える一介の料理人の息子であった。
但し、父と同じ料理人ではない。
この時代には珍しく文字が書ける上で速筆であり達筆、おかげで藩主である稲垣重綱から祐筆に抜擢されていた。
従って、それなりには順風満帆な日々を歩んでいたのだが、とある事情から触れてはいけないものに触れてしまい、聞いてはいけないことを聞いてしまったがゆえに、その人生を大きく変えてしまう。
三年前のある日、主君の稲垣重綱から、あるものを早急に筆写するよう命じられたことから、この男の人生は変な方向に向かい始めた。

「酒井様からの頼まれものだ、三日以内には必ず筆写してくれ。 それと絶対に汚してはならんぞ」

こう当然の如く言われたが、受け取ってみると二十巻二十三冊からなる軍学書、普通の祐筆ならば数人で手分けして五日で可能かどうかではあるが、自分ならば出来なくもない。
だが、どうやっても字は乱れてしまう。
確実性を喫するため、期日の引き延ばしを願おうと思ったが、その表紙に記載された名を見た途端に辞めた。

あの戦国最強と謳われた甲州武田家の軍法、甲州流軍学の第一人者小幡景憲の名があったからだ。
これは後にわかったことだが、あの『甲陽軍鑑』の原書となるものであった。

この若山三木乃助、幼い頃に近所の寺の住職から『太平記』を聴いて以来の大の軍学好き。
特に、『楠正成』の活躍には憧れ尊敬しているほどだった。
以来『孫子』や『六韜』などにも手を出す執心ぶり、それらを理解するために字の書き読みを学び、やがて祐筆に抜擢されていた訳でもある。

俺ならば気合いを入れて頑張れば、一日ちょっとで可能だ。
後二日は、じっくりと気兼ねなく読めるかもしれない。

そこで悪知恵を講じた。

「承りました。
ただ私でも、まともにやっては間に合いません。
寝ずにやりますので、家へ持ち帰ってもよろしいでしょうか?」

「何⁉︎ それは困るぞ。
酒井様とて板倉様からの借り物らしい。
汚しでもしたら酒井様の顔を潰してしまう……」

「だからこそです!
一刻でも早く返却された方が、酒井様も御安心されるに違いありません」

「確かに……それもそうだな」

この『酒井様』とは、左衛門尉家系統酒井家の酒井忠勝を指し、後の三代将軍徳川家光の体制下で大老となる雅楽頭家系統の酒井忠勝ではない。
しかし徳川幕府の中で酒井氏系統の勢力は強く、ここで語る酒井忠勝は出羽国庄内藩十四万石の太守であった。
また稲垣重綱は、酒井忠勝の父であった家次にも大恩もある。
あの大坂の役(大坂冬・夏の陣)では家次の陣に属し戦功を上げ、それをきっかけとして越後国三条藩藩主となれていたのだ。
そんな酒井忠勝が稲垣重綱を信用し頼んでくれた。 
まして、そこには京都所司代である板倉重宗が絡んでいる。
いわば、この信用は絶対に裏切れないのだ。

こうして三木乃助は軍学書を胸に抱き帰宅し、さっそく自分が持てる最速で筆写を始め、翌日の朝には完成させてしまった。

「さてさて、ゆっくりと読むとするかな!」

最初は姿勢を正し座って読む、時が経つにつれ寝転がり読む、ひたすらに寝食を忘れて読んだ。
ひと段落を付けた頃、ふと外を見ると茜色に染まっている。

「もう夕刻か、まだ一日あるなら余裕で読めるか」

そう思い安心すると、腹の虫が鳴った。
ほぼ二日、何も食べず水すら飲まずにいたのだ。
こうなれば飯の用意をと思ったりするものだが、三木乃助は違う。
当然のように、父の仁左衛門を待つという決定を選んだ。

お父のこと、どこぞの女から美味いものを貢いで貰って来るはずだ。 それを肴にして続きを読むのも悪くない。

そう考えた途端、にやにやと満面の笑みを浮かべながら、大きな包みを抱える仁左衛門が帰って来たのが見えた。
予想どおり肴となる食材を抱え、ついでに酒まで貰えたようだ。 意気揚々と入って来た父に言う。

「お父、今日の肴は何だ?」

「ええっ……なんだ、三木乃助居たのか⁉︎」

「居たのかじゃないよ。
息子が腹を減らして待っていたんだ。
早く捌いて食わしてくれよ」

「ちっ……しょうがねぇなぁ」

この親子の関係は、少しばかりいびつである。
子の顔立ちは死んだ妻であり母に似たのか、清潭な顔立ちの父とは似ずに平凡。
おまけに気性においてさえ、父は外向的、子はやや内向的と全く違った。
そもそも、三条藩での俸禄が違う。
父親は一介の料理役、息子は曲がりなりにも若くして藩主の祐筆という役職を賜っていた。
これは差別などではなく、現に調理場を仕切る上役は三木乃助よりも遥かに多い俸禄を得ていたのだから、単に仁左衛門が小間使いなだけである。
従って、この小ぶりだが足軽長屋より遥かにマシな屋敷も三木乃助へ与えられたものであり、仁左衛門は居候という立場となっていた。
しかし、仁左衛門は一向に気にはしていない。 

息子の栄達を生み出したのは、俺の種!
ならば俺が出世したのも同然、俺に与えられたも同様だ! と考えているから、全く気にしていなかった。

「お父、早くしてくれ」

「ちょっと待ってくれよ」

とても親への口調ではない雑な言い方で、三木乃助が仁左衛門を急かせた。 これにも理由がある。
本来は明るい父なのだが、現在の奥深くに隠した心情は眩くなかったからだ。
仁左衛門は、元上杉家の家臣宇佐美定賢に仕えた料理役である。
とはいえ、徳川家の天下を決めたと言って良い関ヶ原合戦の数年前までの話だった。
時の天下人豊臣秀吉の命により、上杉家は越後国から陸奥国会津へと加増移封とされたからだ。
だが、その目的は上杉景勝の武勇と愚直さを信用し、当時においてでさえ盛況な勢力を保持した徳川家康の抑えと期待しての処置だった。
しかし仁左衛門が仕えた宇佐美定賢は会津には行かず越後に残った、いや敢えて残留させられた。
これは上杉家家宰であった直江兼続の計略、天下騒乱が起これば北国方面から攻め入るであろう徳川軍の阻止を目的とした一揆『上杉遺民一揆』のためである。
だが、大した効果も無く終焉してしまう。
さらに一年後に関ヶ原合戦が起こり、秀吉の期待どおりに徳川家と敵対するが敗北し、上杉家は大幅に減封され今日に至る。

『宇佐美定賢様は、上杉の凋落を嘆いたまま死んで行きなさった。
なぜ、もっと上手く一揆を先導しなかったのかと……すべてはご自身の責だと……。
ならば、大恩のある定賢様をお支え出来なんだ俺は、もっと無能者だ……』

常に、こんな後悔の念に苛まれていた。
だからこそ仁左衛門自身も上杉家を離れ、稲垣家で小間使いなどをしている。
だが一人息子の前でも笑顔は絶やさず、他人から見れば『色男金と力は無かりけり』を地で行っていたから、見かけ上は明るいと思われているだろう。 
しかし息子から見れば、全く違った。

『あのお日様のような笑みのあった父はどこへやら……こんな作り笑顔ではなかった』と思っていた。

このような仁左衛門に、慰めの言葉など掛けたところで拍車を掛けるだけである。
だからこそ、三木乃助は敢えて強く言う。
いつか発奮し殴り掛かってでも来ないかと待っているが、そのような気配は未だ無い。

「おぅ、出来たぞー!」

「やっとか、お父は手が遅すぎる」

「そう言うな、今日は三木乃助の好物『かきあえなます』もあるからよ」

「『かきあえなます』か、そいつは美味そうだ!」

共に酒を注ぎ合い、一つ一つを皿や膳に分けることもなく、大皿に無作法に盛っただけの『かきあえなます』や他の肴を突き合う。
こんな遠慮の無い親子の食事をしていた時、ふと仁左衛門が言った。
持ち帰って来た、小幡景憲の軍学書を見て問うたのだ。

「なんだ、それは?
また誰ぞから頼まれたのか?」

「いや、これは私事ではなく公務だ」

偶に重臣などから内密に頼まれて筆写をしていたから、そう思われたのだ。
もちろんだが私事であるから、隠れての銭稼ぎだった。

「公務でか⁉︎ よく許されたな!」

「急ぎものだからな、酒井様から頼まれたらしい」

「どんなものなんだ?」

珍しく仁左衛門が興味を持って聴いて来た。
料理か女遊びばかりしているような父。 裏を返せば、それらしか興味を示さない父がである。
普段なら公務上のことであるから喋らないが、この時は違った。
好きな軍学書を読み機嫌良く、また興味を示さないはずの父が聞いて来たことに対しての興味から、べらべらと喋ってしまった。
酒も入ったせいか、熱く詳しく身振り手振りを加えて話していた時だ。
仁左衛門が手を挙げ遮った。

「ちょっと待って、これは武田の話だな⁉︎」

「そう、武田家の話だ」

「おかしくないか?」

「おかしい⁉︎」

「俺の知っている武田とは随分と違う。
お前からならば爺様になる、俺のお父から聞いた話とも全く違うぞ」

「えっ……どういうことだ⁉︎」

「そもそも、なんだその……『人は城、人は石垣、人は堀……』っていうのは?」

「これはだな『人は石垣や城と同じくらい、戦の勝敗を決するのに大切だ』ってことを表して……」

「おいおい、民に過度な棟別(納税)や過料銭(軍役免除代)をした挙句、家を滅ぼした奴が偉そうに言えたもんだ。 信濃から逃げて来た民にも会ったが、皆泣いてたぞ」

「それは民であって、重臣には……」

「その重臣達も甲州征伐時には、あっさりと逃げた。 
あの頃は上杉も同盟組んでたから焦ったよ」

「いや……それは勝頼の頃で信玄公の頃には……」

ここで、また仁左衛門が手を挙げて遮った。
一杯飲ませろ、そう言わんばかりにである。
そして、三木乃助の人生を変える話をし始めた。

「あの頃に、こんなのがあり得るはずはない! 
もし出来ていたら、武田は滅んでおらんわ!」

仁左衛門の言いたいことはわかる。
武田家は施政が悪すぎたから滅んだ訳で、民と良好であれば簡単には滅んでいなかったと言いたいのだ。
確かに民を蔑ろにしていれば、いくら戦略そして戦術、その軍法が凄かろうと意味はない。
実際に血を流して戦ったのは民であり、武士など偉そうに後方で踏ん反り返っていただけだろうから、いずれは反旗を翻される。 実際に武田家は滅んでいるのだ。

こう吐き捨てるように語った後、また酒を煽り今度は少し寂しげに語り始めた。

「まぁ憚られるが、それは不識庵謙信公も同じさ。
信玄とは、戦さという奴隷狩りをやっていただけだからな」

不識庵謙信公、聞いたことはある。
ついこの間に死んだと聞く、上杉景勝の養父である人物だ。

「幼少の頃に遠目で見たが、奇妙なお方であったよ」

「どんな方だ?」

そう聞くと憚るというよりも、言い辛いというような表情を浮かべながら語った。

「……頭がおかしかった」

「おかしい⁉︎」

「神仏にしか興味を示さず祈ってばかりだ、女人まで絶って戦さに勝てるようにってな。
頭がおかしいとしか思えん」

「戦さの勝利を願うのは、武将であれば当然ではないか⁉︎」

「そう当然だ。 しかし、あの方にとっての『戦さ』とは他人と意味が違ったからな」

「戦さの意味は違った?」

「普通であれば戦さには、版図を広げるとかの利害がある。
だがあの方にとって戦さとは『芸』、『勝利』という自身への確信が欲しいだけだった。
結局は己がために、多くの死人と銭を出しただけだ」

自分が生まれてから聴く不識庵謙信とは、戦さの天才だったとか、義を重んじていたとか、そんな当たり障りのない話しかない。
しかし仁左衛門の話を考慮して考えると、殆んどと言って良いほど実質的な功績は残していない。
確かに関東管領職と名門山内上杉家を継承しただの、生涯無敗だの、はたまた足利将軍家を助けただの、名目上の功績はあるかもしれないが、それは不識庵謙信自身を飾り立てただけであった。
国への何の実績も成果もなく、仕える重臣や民からすれば迷惑この上なかったであろう。

そう考えていくと、先ほどまで熱心に読んでいた軍学書が馬鹿らしく思えてきた。
結局、噓八百を並べ立ているだけなのかもしれないのだ。

「なんだか、よくわからなくなってきたな。
どうして、こんな風に書いたんだ……小幡景憲は」

「そいつが、これを書いたのか?」

「色々と辿った後のものを入手して、編纂し書いたものらしいけどな」

「色々辿った?」

「書いてあった流れなら、こうだ」

書いてある通りの経路を説明し始めたのだが、すぐに『待った!』と手を挙げ酒を飲み干し、驚く顔をして仁左衛門は言った。

「おい、今……小幡光盛と言ったか?」

「あぁ、お父は小幡光盛を知っておるのか!?」

「信濃から越後に来られた方だ。
上杉では、よく『からす踊り』をして皆を楽しませておったわ。 さすがに、もう亡くなられておるだろうがな」

「えっ、そのようなお方だったのか⁉︎」

「あぁ、故に軍学に興味がお有りだったとは思えん……そもそも子はおらなんだはずなのに、小幡下野守とは誰だ⁉
養子を迎えなさっていたとも聴かなんだが……」

「では誰だ、この小幡下野守とは?」

二人して黙り込む。 仁左衛門は記憶の奥深くまで攫いさらい出したが、小幡下野守など覚えも無く間違いはなさそうだ。
そして三木乃助は、この軍法書に何やらきな臭さを感じ始めていた。
大名が筆写を頼むようなものが、軍法はともかくも、あまりにも成り立ちが事実と解離し過ぎていることに……。
やがて、ある考察が生まれてきた。

『もしや小幡景憲は故意に書いているのか? そうする必要と理由があったのか?
そもそも、これは完成途中のもののはずだ……』

暫くして、親子の時間は酒が無くなったことを合図にお開きとなり、すぐに三木乃助は行動に取り掛かった。

『これには何やら裏がありそうだ、もしかしたら俺も乗っかれるかもしれない』

翌朝、本当に寝ずの筆写となったが、赤い目を擦りながら無事に稲垣重綱へ原書と筆写分の二組を手渡した。

「さすがは三木乃助、ようやってくれた!
何ぞ褒美でも出そうか?」

「お役目上、当然でございます。
ただ寝ておらぬゆえ、二日ばかり出仕はご遠慮させて頂きとうございますが……」

「おぉー当然じゃ、二日と言わず三日ほどゆるりと致せ、大義ご苦労!」

「ははぁー、ありがたき幸せ」

こうして上機嫌な稲垣重綱を尻目に、またすぐに下城し帰宅した。
但し、にやにやとしながらである。

『上手くいった、もう一組を筆写しているとは気付かれなかったようだな』

計二組、自分の分の筆写もしていたのだ。
大名の文書を許可無く筆写した、バレれば大罪となるのは間違いない。 最悪死罪も免れないだろう。
しかし、そんなものよりも幼き日に夢見たものと新たに生まれ出た野望が優った。

『この戦国が終わった時代では軍師になるなんてのは到底無理だ。 しかし、これを使えば軍学者への道は開けるかもしれない』

こうして、『宇佐美勝興』となっていく若山三木乃助の第一歩が始まった。

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