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父の想い
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ひたすら惰眠を貪り、目覚めた途端に焦り始め、そして後悔した。
『くそ……丸一日寝てしまうとは、なんたる不覚だ……」
これからの未来を決めるであろう、抱いた夢と野望を叶えていくには一刻も無駄にはできないのだ。
これからやるべきことは、いくらでもあるというのに……。
さりとて実際のところでは、何をして良いやら分からない。
仕方なく、原点に立ち帰ってみるしか無さそうだ。
「とりあえず読み直してみるか……」
やり場の無い溜め息を一つ付いてから、再び最初から読み直してみることにする。
小幡景憲が、どこかに端緒を残しているかもと考えたからだ。
目を凝らし集中し、その穴を探してみる。
しかし、これは余計に面白くさせてしまっただけだった。
いわゆる『熱中』という、読書家の境地に陥ってしまったのだ
その経緯はともかくも、この武田家軍師たる山本勘助が死んでいく箇所は、特に胸を熱くした。
「武田義信の窮地を救うため、自らの命を犠牲になされるとは……なんという立派な死なのだ!」
元々が大の軍学好き、こういう展開なものには途轍もなく弱かった。
号泣しながら読んでいく、もう涙は止まるはずもない。
捲る手は、取り憑かれたかのように止まらなくなっていた。
こうなると、ふと気が付く瞬間が訪れるまで読むしかないのだ。
その時が、ようやく訪れ、もう空が茜色になっていたのは仕方ない。
結局、端緒なんてものは見つからずに、ただ有意義に読破しただけだった。
「完全に引き込まれてしまった……これは小幡景憲の計略か⁉︎
……だが俺は負けんぞ!」
会ったことも無い小幡景憲を勝手に敵認定しただけで、一日を終わろうとしている。
その時、救いの一言が聞こえて来た。
「おーい、『きりざい』が出来たぞ!」
気付かぬ間に、既に仁左衛門は帰って来ていたのか、すぐに肴と酒を持って来てくれた。
また女に貢いでもらったようだが、野菜や漬物を細かく切って納豆と混ぜ合わせた『きりざい』だけが肴となっている。
「お父、これだけか⁉︎」
「あまり強請ると、面倒くさい勘ぐりを呼ぶからな。
女子を相手にする際はな、攻め時と退く時を見定める、これが極意だ!」
「なるほどなぁ。
けど、これだけとは侘しいなぁ」
「まぁ酒はあるから、そう言うな」
こうは言ったが、『きりざい』は好物の一つである。
葉野菜と納豆を絡めただけで絶妙な食感と味を感じさせてくれる絶品、なによりも酒は進むから問題は無かった。
「なんだ、まだ終わってなかったのか?」
先程まで読み耽っていた軍学者を見て、仁左衛門は問うて来る。
期日は今日までと聞いていたのに、まだあるのだから不思議に思い問うたが、息子からは驚きの言葉を返されるはめになった。
「いや、もう一組筆写していた」
「えっ、あっ、おいおい⁉︎」
「露見はしなかったぞ」
「いや……そういうものじゃないだろ」
そう心配になりながらも、よくよく思い出せば諦めざるへなかった。
こういう性分で、息子は生まれついているのだ。
思い起こせば、幼き頃から探究心だけは強いのだから仕方ない。
近所の寺の坊主から『太平記』を聴いて以来、軍学に対しての執着ぶりは親である自分が見ても異常だった。
あまり自身を他人に現すことを好まない息子が、自分から習いたいと坊主に頼み、そして読み書きを覚えていった。
それが高じて、現在祐筆などにはなっているが、大して目指してなった訳ではない。
事実、この屋敷を見回しても、至る所に軍学書が置いてある。
買い求めたり、頼み込んで借り、それを寝ずに筆写したりと様々だ。
そんな息子が小幡景憲とかいう軍学者の書物を手に取れば、こうなることは必然だと思わざるへなかった。
「やはり、未だ『軍師』には憧れておるのか?」
「そりゃそうだ、わかっておるだろ」
「そうだな、そりゃそうだ」
もし自分が若き頃の時代、いやお父辺りの時代に生まれていれば、息子は不識庵謙信公の隣りに立っていたのかもしれない。
背景や立場が適合する時代、例え叶わずとも機会すら与えられない時代に生まれてしまった息子が不憫に思えて来た。
そこで自分に出来ることはないかと模索し始めたが……良い考えなど浮かばない。
では、手助けしてくれる知己はいないか?
そんなのはいない、まして大名の筆写を無断でしたなど言えるはずもない。
だいたい仁左衛門は稲垣家では好まれていないから、家中で頼れる知己などいなかった。
その原因は料理にある。
昨日の『かきあえなます』や目の前にある『きりざい』が物語っていた。
元が三河人である稲垣家家中に、『かきあえなます』で使われる菊を食する習慣は無く、また『きりざい』にある粘り納豆ではなく味噌のように半生乾燥させたものを好むから、越後人である仁左衛門の料理など受け入れられるはずなどない。
従って意欲など湧くはずもなく、また小間使いに甘んじる立場に追いやられていた。
料理は駄目だ、だったら他には……。
酒を飲みながら必死に考え、そして辿り着いた。
俺には料理以外にもあるじゃないか!
絶対に露見せず、俺のためなら口を閉ざすことすら厭わない知己達が!
そう考え着くと、行動は早かった。
「今から出掛けて来る、当分は帰らん。
城には急な病だと伝えてくれ」
「えっ、こんな夜更けにか? どうしたんだ⁉︎」
「ちょっとばかり用を思い出した」
「用って何だ、こんな夜更けでないと駄目なものか?」
「あぁ、すぐにせねばならん。
だから三木乃助、大船に乗った気で待っていろ!」
そう頼もしげな言葉を残して、颯爽と出掛けてしまった。
「おいおい大船に乗った気って……どうするんだ、俺の飯は⁉︎」
それからは、下手な手合いで何とか食い繋いだ。
もちろんだが休みが明けると、きちんと出仕し務めに励む。
但し無断の筆写がバレていないか、注意深く稲垣重綱の様子を窺いながらである。
だが暫くして、この懸念はあっけなく帰趨に終わった。
「江戸からの文によると、酒井様は大変お喜びであったそうだ!
三木之助にも、お褒めの言葉を賜れたそうだぞ!」
「はっ、ありがたき幸せ! ですが……もう酒井様のお手に渡られておるのですか?」
「家中一の騎馬武者と家中一の馬、銭もふんだんに使い、往復五日で必ず運べと念押ししておったからな!」
「それはそれは……」
そんな日々を過ごす二十日後に、ようやくと仁左衛門が帰って来た。
かなり疲れ切った顔と腰を抑えながらであった。
「おいおい、お父!
今まで、どこをほっつき歩いておったんだ⁉︎」
「つっ、つっ、疲れた、死にそうだ……」
これには慌てて駆け寄り心配するが、すぐ鼻を突き、一旦離れざるへない。
何とも言えない臭いが仁左衛門の全身を覆い離れない。 これは女人の匂いだ!
「お父……もしや二十日も女遊びをしておったのか⁉」
「おー、そのもしやよ!
さすがに二十日で三十八人は、いくら俺でも骨が折れたわ。
おかげで目的は達したがな」
「二十日で三十八人だと!?
まさか、俺の弟達や妹達を仕込んでおったのではあるまいな!?」
「阿保抜かせ! 小幡光盛様の足跡を探っておったのだ!」
「小幡光盛の足跡!? どうやって?」
「良いか三木乃助、女子はな男よりも耳が聡く噂好きでもある。
噂は人の耳へ矢よりも早く走っていく、千里の道も刹那、それだけの伝手を、女子は持っておるのだ!」
「はぁ……何を言っているんだ?」
「女子達には、その伝手を使って小幡様の足跡を辿ってもらった。
やはり慶長の十年頃には米沢で死んでおる、それと実子はおらん。
ただなぁ……面白い話は聞けたぞ!」
「面白い話だと!?」
「お亡くなりになる少し前から、妙な男が屋敷に居座っておったらしい」
そこから仁左衛門が話した内容は奇妙なものだった。
見計らったように小幡光盛が死ぬ半年前ほどから、親類を名乗る一人の男が屋敷に居座っていたらしい。
更には光盛が死を迎えると同時に、突如として姿を消したらしいのだ。
「もしや、その男が小幡下野守か?」
「それは分からん、しかしおかしなことはしておったらしい」
「おかしなこと?」
「下女だった婆さんの話では去る前に、屋敷にある書付やら文やらを必死になって炉にくべておったそうだ」
「何故そのようなことを?
仮に真に小幡下野守ならば、くべる必要は……ああっ!」
「そうだ、隠滅を謀りおったのだ!」
なにやら繋がってきた。
やはり、きな臭いと感じた予感は正しかったようだ。
この軍学書に書いてある経緯は、仁左衛門から聴く話と大きく解離し過ぎている。
だが美談であらねばならない事情からあったから、このように書かねばならなかった。
事実を抹消する、そのような判断を下し燃やしたのだろう。
そう考えると、一つ疑問が生まれて来た。
小幡光盛の屋敷に半年も居座ったかだ。
いくら死に際とはいえ、半年も居座ったなら小幡光盛本人から、少しくらいの話や原本となった書物の所在くらいは聞けなかったのか?
それとも不能だったのか?
「お父、小幡光盛様はお幾つで亡くなられたのだ?」
「それはわからん。
だが越後におられた頃なら、六十あまりを過ぎているとはお見受けしたが」
「そうか六十あまりか……やはりそうか」
「何だ、やはりとは?」
「確証は無いのだが、もしや小幡光盛様自身がおかしいのかもしれん」
「小幡様が⁉︎」
「お父の知る小幡光盛が事実なら、この軍学書に登場する父、日浄とは齢がおかしくなる。
日浄が死んでから、小幡光盛は生まれたって話になるからな」
「では小幡下野守ってのは……」
「この原書を成立させるための辻褄合わせで生み出された人物だ……」
これには二人して黙り込むしかない。
想像以上の危うさを感じ始めたからだった。
なにしろ酒井、板倉、稲垣と譜代大名へ流布するような軍学書に、『小幡下野守』などと居もしない架空の人物を堂々と登場させている。
きっと何かしらの都合から、このように書いたのだ。
その背後には、大名など比肩すら叶わない想像も付かないような権力があるに違いない。
これ以上、いらぬ首を突っ込むと自分達の身も危うくなると思えてきた。
真実を知ってしまえば、自分達など蚊のように潰されてしまうだろう。
「お父……飲もう。
さっさと飲んで、もう忘れた方が良い!」
「……そうだな」
それからは親子で、ありったけの酒を浴びるほど飲んだ。
父は無理矢理の笑顔を作り、これまでの女子達との話を語った。
息子は興味も無かったが、無理矢理の笑顔を作り聞く。
一刻も早く忘れたい、このような危ないものは見ていません!こんなものは読んでいません!こんなの聞いてもいません!こんなものは調べませんでした!と語るかのように酒を煽った。
しかしだ、酒というものは罪である。
飲べば飲むほど、親子の性格的違いが露になっていく。
父は基本的に外向性、いわゆる楽観的だ。
物事を簡単に考え、どうにかなる!と考えて前へと突き進んで行く傾向が強い。
息子は基本的には内向性、いわゆる悲観的だ。
物事を必要以上に重く考えてしまい、余程の欲望に取り憑かれないかぎり、中々前には進めない。
悲観的な息子は早々に諦めたが、楽観的な父は違った。
『既に原本となる軍学書が出回っているなら、今更多少調べようが早々露見はしないはずだ!
例え露見しても、何とかなるだろ!』
こう酒の力を借りて考え始めてしまった。
翌朝、三木乃助が頭を抱えながら起きると、仁左衛門が普段に無い正装をしている。
「お父、また女子の所にでも行くのか?」
「女子ではない。 お城に行くのだ」
「ではなぜ、そのような格好を?」
「お暇を頂いて来る」
「えっ、辞めるのか⁉︎
どうしてだ?」
「ちょっと米沢に行って来る」
「えええっ⁉︎ お父、危ないから辞めておけ!」
「心配するな、この父は三木乃助を必ず軍師にしてみせる。
大船に乗った気で待っていろ!」
止めるのも聞かず、仁左衛門は走り去ってしまった。
もちろん、料理役内では大して引き留められることもなく、あっさりと暇は頂いたのだが……。
「お父、あまり無茶はしてくれるなよ……」
こうして仁左衛門は米沢へと旅立った。
しかし、これが三木乃助と仁左衛門の人生を複雑にするだけではなく、あの甲州流軍学者小幡景憲の順風満帆な人生をも狂わせていくとは想像も付かなかった。
何故なら、後々には江戸幕府を悩ませるだけでなく、紀州藩徳川家の命運を握った軍学の誕生へ繋がっていく。
すなわち、越後流軍学の元となっていくのだから。
但しそれは、まだまだ先の話である。
『くそ……丸一日寝てしまうとは、なんたる不覚だ……」
これからの未来を決めるであろう、抱いた夢と野望を叶えていくには一刻も無駄にはできないのだ。
これからやるべきことは、いくらでもあるというのに……。
さりとて実際のところでは、何をして良いやら分からない。
仕方なく、原点に立ち帰ってみるしか無さそうだ。
「とりあえず読み直してみるか……」
やり場の無い溜め息を一つ付いてから、再び最初から読み直してみることにする。
小幡景憲が、どこかに端緒を残しているかもと考えたからだ。
目を凝らし集中し、その穴を探してみる。
しかし、これは余計に面白くさせてしまっただけだった。
いわゆる『熱中』という、読書家の境地に陥ってしまったのだ
その経緯はともかくも、この武田家軍師たる山本勘助が死んでいく箇所は、特に胸を熱くした。
「武田義信の窮地を救うため、自らの命を犠牲になされるとは……なんという立派な死なのだ!」
元々が大の軍学好き、こういう展開なものには途轍もなく弱かった。
号泣しながら読んでいく、もう涙は止まるはずもない。
捲る手は、取り憑かれたかのように止まらなくなっていた。
こうなると、ふと気が付く瞬間が訪れるまで読むしかないのだ。
その時が、ようやく訪れ、もう空が茜色になっていたのは仕方ない。
結局、端緒なんてものは見つからずに、ただ有意義に読破しただけだった。
「完全に引き込まれてしまった……これは小幡景憲の計略か⁉︎
……だが俺は負けんぞ!」
会ったことも無い小幡景憲を勝手に敵認定しただけで、一日を終わろうとしている。
その時、救いの一言が聞こえて来た。
「おーい、『きりざい』が出来たぞ!」
気付かぬ間に、既に仁左衛門は帰って来ていたのか、すぐに肴と酒を持って来てくれた。
また女に貢いでもらったようだが、野菜や漬物を細かく切って納豆と混ぜ合わせた『きりざい』だけが肴となっている。
「お父、これだけか⁉︎」
「あまり強請ると、面倒くさい勘ぐりを呼ぶからな。
女子を相手にする際はな、攻め時と退く時を見定める、これが極意だ!」
「なるほどなぁ。
けど、これだけとは侘しいなぁ」
「まぁ酒はあるから、そう言うな」
こうは言ったが、『きりざい』は好物の一つである。
葉野菜と納豆を絡めただけで絶妙な食感と味を感じさせてくれる絶品、なによりも酒は進むから問題は無かった。
「なんだ、まだ終わってなかったのか?」
先程まで読み耽っていた軍学者を見て、仁左衛門は問うて来る。
期日は今日までと聞いていたのに、まだあるのだから不思議に思い問うたが、息子からは驚きの言葉を返されるはめになった。
「いや、もう一組筆写していた」
「えっ、あっ、おいおい⁉︎」
「露見はしなかったぞ」
「いや……そういうものじゃないだろ」
そう心配になりながらも、よくよく思い出せば諦めざるへなかった。
こういう性分で、息子は生まれついているのだ。
思い起こせば、幼き頃から探究心だけは強いのだから仕方ない。
近所の寺の坊主から『太平記』を聴いて以来、軍学に対しての執着ぶりは親である自分が見ても異常だった。
あまり自身を他人に現すことを好まない息子が、自分から習いたいと坊主に頼み、そして読み書きを覚えていった。
それが高じて、現在祐筆などにはなっているが、大して目指してなった訳ではない。
事実、この屋敷を見回しても、至る所に軍学書が置いてある。
買い求めたり、頼み込んで借り、それを寝ずに筆写したりと様々だ。
そんな息子が小幡景憲とかいう軍学者の書物を手に取れば、こうなることは必然だと思わざるへなかった。
「やはり、未だ『軍師』には憧れておるのか?」
「そりゃそうだ、わかっておるだろ」
「そうだな、そりゃそうだ」
もし自分が若き頃の時代、いやお父辺りの時代に生まれていれば、息子は不識庵謙信公の隣りに立っていたのかもしれない。
背景や立場が適合する時代、例え叶わずとも機会すら与えられない時代に生まれてしまった息子が不憫に思えて来た。
そこで自分に出来ることはないかと模索し始めたが……良い考えなど浮かばない。
では、手助けしてくれる知己はいないか?
そんなのはいない、まして大名の筆写を無断でしたなど言えるはずもない。
だいたい仁左衛門は稲垣家では好まれていないから、家中で頼れる知己などいなかった。
その原因は料理にある。
昨日の『かきあえなます』や目の前にある『きりざい』が物語っていた。
元が三河人である稲垣家家中に、『かきあえなます』で使われる菊を食する習慣は無く、また『きりざい』にある粘り納豆ではなく味噌のように半生乾燥させたものを好むから、越後人である仁左衛門の料理など受け入れられるはずなどない。
従って意欲など湧くはずもなく、また小間使いに甘んじる立場に追いやられていた。
料理は駄目だ、だったら他には……。
酒を飲みながら必死に考え、そして辿り着いた。
俺には料理以外にもあるじゃないか!
絶対に露見せず、俺のためなら口を閉ざすことすら厭わない知己達が!
そう考え着くと、行動は早かった。
「今から出掛けて来る、当分は帰らん。
城には急な病だと伝えてくれ」
「えっ、こんな夜更けにか? どうしたんだ⁉︎」
「ちょっとばかり用を思い出した」
「用って何だ、こんな夜更けでないと駄目なものか?」
「あぁ、すぐにせねばならん。
だから三木乃助、大船に乗った気で待っていろ!」
そう頼もしげな言葉を残して、颯爽と出掛けてしまった。
「おいおい大船に乗った気って……どうするんだ、俺の飯は⁉︎」
それからは、下手な手合いで何とか食い繋いだ。
もちろんだが休みが明けると、きちんと出仕し務めに励む。
但し無断の筆写がバレていないか、注意深く稲垣重綱の様子を窺いながらである。
だが暫くして、この懸念はあっけなく帰趨に終わった。
「江戸からの文によると、酒井様は大変お喜びであったそうだ!
三木之助にも、お褒めの言葉を賜れたそうだぞ!」
「はっ、ありがたき幸せ! ですが……もう酒井様のお手に渡られておるのですか?」
「家中一の騎馬武者と家中一の馬、銭もふんだんに使い、往復五日で必ず運べと念押ししておったからな!」
「それはそれは……」
そんな日々を過ごす二十日後に、ようやくと仁左衛門が帰って来た。
かなり疲れ切った顔と腰を抑えながらであった。
「おいおい、お父!
今まで、どこをほっつき歩いておったんだ⁉︎」
「つっ、つっ、疲れた、死にそうだ……」
これには慌てて駆け寄り心配するが、すぐ鼻を突き、一旦離れざるへない。
何とも言えない臭いが仁左衛門の全身を覆い離れない。 これは女人の匂いだ!
「お父……もしや二十日も女遊びをしておったのか⁉」
「おー、そのもしやよ!
さすがに二十日で三十八人は、いくら俺でも骨が折れたわ。
おかげで目的は達したがな」
「二十日で三十八人だと!?
まさか、俺の弟達や妹達を仕込んでおったのではあるまいな!?」
「阿保抜かせ! 小幡光盛様の足跡を探っておったのだ!」
「小幡光盛の足跡!? どうやって?」
「良いか三木乃助、女子はな男よりも耳が聡く噂好きでもある。
噂は人の耳へ矢よりも早く走っていく、千里の道も刹那、それだけの伝手を、女子は持っておるのだ!」
「はぁ……何を言っているんだ?」
「女子達には、その伝手を使って小幡様の足跡を辿ってもらった。
やはり慶長の十年頃には米沢で死んでおる、それと実子はおらん。
ただなぁ……面白い話は聞けたぞ!」
「面白い話だと!?」
「お亡くなりになる少し前から、妙な男が屋敷に居座っておったらしい」
そこから仁左衛門が話した内容は奇妙なものだった。
見計らったように小幡光盛が死ぬ半年前ほどから、親類を名乗る一人の男が屋敷に居座っていたらしい。
更には光盛が死を迎えると同時に、突如として姿を消したらしいのだ。
「もしや、その男が小幡下野守か?」
「それは分からん、しかしおかしなことはしておったらしい」
「おかしなこと?」
「下女だった婆さんの話では去る前に、屋敷にある書付やら文やらを必死になって炉にくべておったそうだ」
「何故そのようなことを?
仮に真に小幡下野守ならば、くべる必要は……ああっ!」
「そうだ、隠滅を謀りおったのだ!」
なにやら繋がってきた。
やはり、きな臭いと感じた予感は正しかったようだ。
この軍学書に書いてある経緯は、仁左衛門から聴く話と大きく解離し過ぎている。
だが美談であらねばならない事情からあったから、このように書かねばならなかった。
事実を抹消する、そのような判断を下し燃やしたのだろう。
そう考えると、一つ疑問が生まれて来た。
小幡光盛の屋敷に半年も居座ったかだ。
いくら死に際とはいえ、半年も居座ったなら小幡光盛本人から、少しくらいの話や原本となった書物の所在くらいは聞けなかったのか?
それとも不能だったのか?
「お父、小幡光盛様はお幾つで亡くなられたのだ?」
「それはわからん。
だが越後におられた頃なら、六十あまりを過ぎているとはお見受けしたが」
「そうか六十あまりか……やはりそうか」
「何だ、やはりとは?」
「確証は無いのだが、もしや小幡光盛様自身がおかしいのかもしれん」
「小幡様が⁉︎」
「お父の知る小幡光盛が事実なら、この軍学書に登場する父、日浄とは齢がおかしくなる。
日浄が死んでから、小幡光盛は生まれたって話になるからな」
「では小幡下野守ってのは……」
「この原書を成立させるための辻褄合わせで生み出された人物だ……」
これには二人して黙り込むしかない。
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その背後には、大名など比肩すら叶わない想像も付かないような権力があるに違いない。
これ以上、いらぬ首を突っ込むと自分達の身も危うくなると思えてきた。
真実を知ってしまえば、自分達など蚊のように潰されてしまうだろう。
「お父……飲もう。
さっさと飲んで、もう忘れた方が良い!」
「……そうだな」
それからは親子で、ありったけの酒を浴びるほど飲んだ。
父は無理矢理の笑顔を作り、これまでの女子達との話を語った。
息子は興味も無かったが、無理矢理の笑顔を作り聞く。
一刻も早く忘れたい、このような危ないものは見ていません!こんなものは読んでいません!こんなの聞いてもいません!こんなものは調べませんでした!と語るかのように酒を煽った。
しかしだ、酒というものは罪である。
飲べば飲むほど、親子の性格的違いが露になっていく。
父は基本的に外向性、いわゆる楽観的だ。
物事を簡単に考え、どうにかなる!と考えて前へと突き進んで行く傾向が強い。
息子は基本的には内向性、いわゆる悲観的だ。
物事を必要以上に重く考えてしまい、余程の欲望に取り憑かれないかぎり、中々前には進めない。
悲観的な息子は早々に諦めたが、楽観的な父は違った。
『既に原本となる軍学書が出回っているなら、今更多少調べようが早々露見はしないはずだ!
例え露見しても、何とかなるだろ!』
こう酒の力を借りて考え始めてしまった。
翌朝、三木乃助が頭を抱えながら起きると、仁左衛門が普段に無い正装をしている。
「お父、また女子の所にでも行くのか?」
「女子ではない。 お城に行くのだ」
「ではなぜ、そのような格好を?」
「お暇を頂いて来る」
「えっ、辞めるのか⁉︎
どうしてだ?」
「ちょっと米沢に行って来る」
「えええっ⁉︎ お父、危ないから辞めておけ!」
「心配するな、この父は三木乃助を必ず軍師にしてみせる。
大船に乗った気で待っていろ!」
止めるのも聞かず、仁左衛門は走り去ってしまった。
もちろん、料理役内では大して引き留められることもなく、あっさりと暇は頂いたのだが……。
「お父、あまり無茶はしてくれるなよ……」
こうして仁左衛門は米沢へと旅立った。
しかし、これが三木乃助と仁左衛門の人生を複雑にするだけではなく、あの甲州流軍学者小幡景憲の順風満帆な人生をも狂わせていくとは想像も付かなかった。
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