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忍び寄る野望
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仁左衛門が米沢へと旅立ち、すでに二月が過ぎようとしている。
何の音沙汰も無い父をもちろん心配するが、さりながら自身への不安を隠せない毎日も過ごしていた。
もう大名の文書を無断で筆写したなどと、そんなものでは語れない事態になっている気がしていたからだ。
これは誰しもが同じなのだろう。
隠しておきたい、詮索されたくない、誤魔化したい、そう感じる場合は触れてやらないのが人の情けだ。
だからこそ、『触らぬ神に祟り無し』といった例えもあった。
しかし自分達親子は、敢えて触れようとしている。
まして、きな臭い権力と思惑が絡んでいるかもしれないものを探ろうとしているのだ。
ただ、こうも思う。
もしかしたら、単なる帰趨かもしれない。
こんなのは俺自身が勝手な想像で作り上げただけだ。
よく考えてみろ、譜代大名達にも堂々と流布しているような軍学書だぞ⁉︎
そんなものが、危ないものであるはずはない。
きっと、そうだ! 絶対に間違いない!
こう床に入る度に毎回念じるが、やはり不安は簡単には消えてくれなかった。
おかげで、眠れぬ日々を過ごしている。
そして、それが形となって現れた。
眠気眼で出仕し、いつものように筆写に励んでいた時だ。
稲垣重綱から、火急な呼び出しを受けた。何事かと急いで参上すると、見知らぬ人物、そう自分と歳の変わらぬ人物と、にこやかに茶を飲んでいる。
誰だ?と思いつつも平伏すると、その人物が軽々しい声で語りかけて来た。
「おぉー、そなたが若山三木乃助か!
酒井様から噂は聞いておる。
見事な速筆、しかも達筆であったらしいな!」
再び、深々と平伏しつつ考えた。
速筆、達筆……だとすると、あの軍学書を言っているのか⁉︎
もしや露見したか⁉︎ いや……まさか。
「酒井様にお喜びして頂けるとは、子々孫々の家宝を賜った如き幸せでございます」
思わず額に汗が滲み出るが、無理矢理の笑みを浮かべて、こう丁重に礼を返した。
おそらく酒井忠勝の関係者なのは間違いないだろう。
しかし正確な関係も何者なのかも分からない以上、ただ無作法にならぬよう出来るだけ遜るだけしか出来なかった。
だが、これは相手の態度を仰々しくさせてしまったようだ。
「似た歳と聞いていたゆえ、気安く語ったつもりであったが、これは失礼した」
「いえ……とんでも無きこと」
「いや誠に失礼した」
二人して何度も頭を下げ合う、奇妙な展開になった。
どうやら、この男に別段の悪意は無さそうだ。
そうこうして、ようやっと稲垣重綱が紹介してくれた。
「こちらは 横田尹松殿の御次男倫松殿だ」
「はっ、横田様。
お目に掛かれ、ありがたき幸せ!」
これまた額を擦り付けるように平伏し、じっくり頭の中で考えた。
横田尹松……確か大身旗本だった。
小幡景憲とは武田二十四将であった原虎胤の繋がりもあり、従兄弟の関係になるはずだ。
あの軍学書にも書いてあった。
そんな方の次男が、俺に何の用だ?
やはり、達筆とか速筆などと遠回しに示唆しているところを考えると、もう一組の存在が露見しているのか?
どうして露見した⁉︎
まさか……重綱様は最初から勘づいておったのか⁉︎
そう思い稲垣重綱の顔をチラッと伺うが、他意を持つ様子もなく、むしろ好々爺じいになったかの如く、笑みを浮かべているだけだ。
もし害意があるなら、横田倫松など同席させるまでもなく、発覚した時点で殺されているはずだ。
では、一体何の用だ?
色々と思考を巡らすが、全く答えを見出せない。
それでも、あれやこれやと頭の中で考えていると、倫松から明るい声で頼まれた。
「実はのう、其方に頼みがあり越後まで参った」
頼み……この俺なんぞに何の頼みが?
思わず訝しい表情を出してしまったが、すぐに笑顔の稲垣重綱から補足を入れてきた。
「倫松殿はな、三木乃助から書を学びたいそうだ」
書、読み書きである。
何故、俺からだ?
横田家は大身旗本、五千石という十分な俸禄もあり、なによりも現当主である横田尹松は大阪の役で亡き徳川家康を難から救った功績もある。
したがって、下手な外様大名などよりも幕府からは優遇されているはずだ。
そのような家なら、祐筆の一人や二人は必ずいる。
本当に習いたいのであれば、家中の祐筆からが本来の筋だろう⁉︎
こんな言葉に出さずとも、疑問しか浮かべていない表情から察したのだろうか、さも倫松が恥ずかしそうに笑い答えた。
「我が家の祐筆達には、もう頼めんのだ。
俺のお頭が悪すぎたようでなぁ」
よくよく聞くと、頼んでいたが倫松の頭が悪いのか、それとも祐筆の教え方が悪いのか、さっぱりと覚えられなかったらしい。
「そのような時、偶々お会いした酒井様から其方の話を聞いた。
ぜひにも頼みたい!」
「そういう事情だ。
これは我が家の名誉だ、酒井様の顔を立てるためにも教授致せ」
こう言われれば、断れそうにもなかった。
だいたい稲垣重綱の口から出た以上、これは厳命となっている。 もう了承するしかないのだ。
しかし、ここからおかしなことを倫松が言い出した。
まったくの予想外、常識はずれである。
「はっ、かしこまりました。
では明日からでも……」
「いや、本日から頼みたい」
「本日から⁉︎
旅のお疲れもあられるかと……」
「いや心配無用、本日から頼む!」
「かしこまりました。
では、どこどの室をご用意致しますゆえ……」
「いや、其方の屋敷で良い。
じっくりと寝ずに、ご教示願いたい!」
「私めの屋敷ですか⁉︎
それは恐縮ながら……」
「良い、其方の屋敷で教示願いたい。
似た歳だ、気兼ねなく願いたい!」
いくらなんでも大身旗本の次男を、ただが一祐筆の家へ泊めるなど出来ない。
さすがに助けを求めて稲垣重綱へ視線を移したが、あっさりと期待は裏切られた。
「三木乃助、これだけ熱心に学ぼうとされておる。
応えてこそ、それが『漢』ではないか!」
だめだ……話にならない。
こうして、三木乃助の屋敷まで徒歩で向かうことになる。
もちろん馬など輿などを勧められたが、これは倫松から丁重に断られた。
しかし、倫松の荷物を担ぐ従者は添えられている。
荷物だけでなく、稲垣重綱から命を受けた料理方が作った肴や酒、おまけに菓子などもあったからだ。
そんな最中、にこにこと笑顔を浮かべ歩く倫松に対して、先導しながら三木乃助は考えていた。
この不自然な流れに対してだ。
書を学びたいのはわかった。
だが、どうして俺だ?
達筆、速筆と認められたのかもしれないが、俺程度なら江戸あたりには多数居るだろう。
そもそも、どうして俺の屋敷で学びたいのだ? お城の一間を借り、そこで寝ずに学べば良いではないか?
二人きりになる状況を、わざわざ創ろうとしているかのように……。
やはり軍学書を、無断で筆写したのが露見しているのか⁉︎
しかし害意があるとも思えない。
俺は稲垣家家中の者、そんな人間を殺傷すれば、いくら大身旗本の次男であろうと大事になるのは間違いないだろう。
いや屋敷に入った途端に無礼討ちにする気……それも無い。
そんな手間を掛けるなら、適当なところで闇討ちすれば良いだけだ。
まったく意図がわからない……。
そうこうしていると屋敷に着いた。
「お役目ご苦労。
重綱様に、良しなにお伝え下され」
丁重に礼を言われた従者が、荷物を屋敷に運ぼうとした時だ。
「良い良い、我らで運ぶゆえ。
ここまでで結構」
二人きりの状況を、しかも急ぐように創ろうとしている。
やはり書を学ぶ以外に、何かありそうだ。
「さぁ邪魔するぞ!」
倫松自ら荷物を無造作に担ぎ、投げ捨てるように放り込んでいく。
「お手が汚れます、私が運びますゆえに……」
「良い良い、一刻も早く書を学びたいゆえな!」
本当に書を学びたいだけで、他意は無かったのだろう。
そう、少しだけ胸を撫で下ろすことが出来た。
しかし、ここから倫松は変化していく。
ぴっしゃっと戸を閉め、主たる三木乃助の許可を求めることも無く、屋敷の奥へと入った時だ。
隅々に無造作に積まれた軍学書や書物を見て言った。
「『太平記』や『平家物語』、おまけに『六韜』や『十八史略』まで筆写し読んでおるのか!」
こう言われ最初は『掃除なりをしておけば良かった……』と後悔しただけだった。
しかし、すぐにおかしなことにも気付く。
読み書きを学びに来た者が、あっさりと『太平記』や『平家物語』、更には『六韜』や『十八史略』と表面を見て読んだのだ。
この男、すでに書は修得している。
しかも、かなりの教養の持ち主だ。
もしかしたら、『太平記』や『平家物語』だけならば武将の嗜みとして見た可能性もあるだろうから、その文字の形だけで判断したと考えられる。
しかし『六韜』や『十八史略』は、そうもいかなかった。
それらは漢文構成で書かれており、未だ和訳はされていないからだ。
ということは、読み書きは修得済み、しかも漢文を読めるほどの教養は持ち合わせているということになった。
「倫松様、貴方様は一体……」
また不安が胸の中を渦巻いていくが、帰趨で終わった。
読み書きを習うとは別の頼みが、倫松にはあったからだ。
「いやいや、嘘を付いてすまなんだ。
だが……頼みがあるのは本当だ」
「それは一体……」
「これを其方に筆写願いたい」
倫松が胸元に隠した三冊の書を取り出した。
見ると、陣立を表した書、いわゆる戦さの手引き書である。
「これを三日以内に解読し、筆写して貰いたいのだ」
「これを⁉︎」
「これは武田家古来より伝わりしもの。
信玄公の全ての勝利は、これのおかげだ」
そう恐るべきことを言われ、改めて見てみる。
内心では、ただが三冊くらいの筆写なんど、なんぼのもんじゃ!と思いながら見てみたが、『解読』と言った意味が、よくわかってきた。
よくわからない挿絵や言い回しが、乱用されている。
おそらく武田家だけの独特の解釈が存在し、そういったのを加味しながら代々伝えられて来たものなのだろう。
「どこで、こんなものを……」
「我が家は元は武田だ、父尹松が手に入れた」
「しかし、それでは尹松様は……まさか勝頼から……」
「害し奪ったとかではないらしい。
ただ勝頼公が捨ててしまわれたから拾っただけだそうだ」
「捨てた⁉︎ このような大事なものを⁉︎」
「天正9年(1581年)3月、高天神城での話らしいのだかな」
そこから聴くことは馬鹿しく、しかし悲しいとも思える話だった。
天正9年(1581年)3月、徳川家によって高天神城が攻略された後らしい。
それは横田尹松が命からがら甲斐に逃げ帰り、その報告に武田勝頼の御前に罷り越した時に起こった。
「奮戦虚しく落城、将兵の多数が亡きものに……」
「そうか……大義であった。
下がって良い、休め」
そう労われ、下がった直後に聴こえてきた。
怒り狂う勝頼と宥める跡部勝資、長坂光堅ら側近達の会話だ。
「これ、全然駄目じゃ!」
「もしかしたら、我らの解釈自体が間違えておるのかも……」
「これ以上、どのように解釈すれば良いのだ⁉︎」
「もう我らでは……何とも」
「俺は四男で、元々諏訪の跡取りなんだぞ!
父上からは何も聴いてもおらんし、教えて貰ってもおらんのだぞ!」
「確かに……御長男義信様なら聴いておったのかも知れませぬ」
「じゃから、俺は武田を継ぐのは嫌だと言うたんだ!
それを、あいつら古参供ががたがた言いやがったから……。
挙げ句が、さっさと討死までしやがって……」
「お家のために討死されたのであり……」
「あの時は、織田や徳川には柵があって多くの鉄砲まであったんだぞ!
お前ら見てただろ⁉︎
それを喜び勇んで馬鹿の一つ覚えで突撃したら、どうなるかなんてわかるよなー!
俺は止めたのに、無視しやがったから!」
「いや、それは何とも言いようが……」
「おい、これからどうしたら良いんだ⁉︎
だが俺は悪くないぞ、責任など無いぞ!」
「今、それを言っても線なきこと。
一刻も早く、これを解釈せねば」
「もう良い……捨ててしまえ。
もう知らん、そんなもの見たくもない!」
「しかし……」
「捨てろ……早く捨てろ!
代々のものか何か知らん、そこの林にでも捨てろ!
見たくもない、そんな役立たず早く投げ捨てろ!」
こうして武田家子々孫々まで伝えられ、勝利を確約し続けて来た書物は武田勝頼の代で投棄され、
隠れて聴いていた横田尹松によって拾われたらしい。
「そんなことが武田家に……」
「よって、我が家の手にある訳なのだがな」
「しかし、これを解読し筆写して倫松様は何を致すおつもりか?」
こう聞いた直後、しばらくは黙り考え込んだ後に倫松は答えた。
彼自身の覚悟を示したようにである。
「兄の横田政松から跡目を奪ってやるつもりだ!」
どうやら三木乃助は、横田家の家督相続争いに巻き込まれたらしい。
何の音沙汰も無い父をもちろん心配するが、さりながら自身への不安を隠せない毎日も過ごしていた。
もう大名の文書を無断で筆写したなどと、そんなものでは語れない事態になっている気がしていたからだ。
これは誰しもが同じなのだろう。
隠しておきたい、詮索されたくない、誤魔化したい、そう感じる場合は触れてやらないのが人の情けだ。
だからこそ、『触らぬ神に祟り無し』といった例えもあった。
しかし自分達親子は、敢えて触れようとしている。
まして、きな臭い権力と思惑が絡んでいるかもしれないものを探ろうとしているのだ。
ただ、こうも思う。
もしかしたら、単なる帰趨かもしれない。
こんなのは俺自身が勝手な想像で作り上げただけだ。
よく考えてみろ、譜代大名達にも堂々と流布しているような軍学書だぞ⁉︎
そんなものが、危ないものであるはずはない。
きっと、そうだ! 絶対に間違いない!
こう床に入る度に毎回念じるが、やはり不安は簡単には消えてくれなかった。
おかげで、眠れぬ日々を過ごしている。
そして、それが形となって現れた。
眠気眼で出仕し、いつものように筆写に励んでいた時だ。
稲垣重綱から、火急な呼び出しを受けた。何事かと急いで参上すると、見知らぬ人物、そう自分と歳の変わらぬ人物と、にこやかに茶を飲んでいる。
誰だ?と思いつつも平伏すると、その人物が軽々しい声で語りかけて来た。
「おぉー、そなたが若山三木乃助か!
酒井様から噂は聞いておる。
見事な速筆、しかも達筆であったらしいな!」
再び、深々と平伏しつつ考えた。
速筆、達筆……だとすると、あの軍学書を言っているのか⁉︎
もしや露見したか⁉︎ いや……まさか。
「酒井様にお喜びして頂けるとは、子々孫々の家宝を賜った如き幸せでございます」
思わず額に汗が滲み出るが、無理矢理の笑みを浮かべて、こう丁重に礼を返した。
おそらく酒井忠勝の関係者なのは間違いないだろう。
しかし正確な関係も何者なのかも分からない以上、ただ無作法にならぬよう出来るだけ遜るだけしか出来なかった。
だが、これは相手の態度を仰々しくさせてしまったようだ。
「似た歳と聞いていたゆえ、気安く語ったつもりであったが、これは失礼した」
「いえ……とんでも無きこと」
「いや誠に失礼した」
二人して何度も頭を下げ合う、奇妙な展開になった。
どうやら、この男に別段の悪意は無さそうだ。
そうこうして、ようやっと稲垣重綱が紹介してくれた。
「こちらは 横田尹松殿の御次男倫松殿だ」
「はっ、横田様。
お目に掛かれ、ありがたき幸せ!」
これまた額を擦り付けるように平伏し、じっくり頭の中で考えた。
横田尹松……確か大身旗本だった。
小幡景憲とは武田二十四将であった原虎胤の繋がりもあり、従兄弟の関係になるはずだ。
あの軍学書にも書いてあった。
そんな方の次男が、俺に何の用だ?
やはり、達筆とか速筆などと遠回しに示唆しているところを考えると、もう一組の存在が露見しているのか?
どうして露見した⁉︎
まさか……重綱様は最初から勘づいておったのか⁉︎
そう思い稲垣重綱の顔をチラッと伺うが、他意を持つ様子もなく、むしろ好々爺じいになったかの如く、笑みを浮かべているだけだ。
もし害意があるなら、横田倫松など同席させるまでもなく、発覚した時点で殺されているはずだ。
では、一体何の用だ?
色々と思考を巡らすが、全く答えを見出せない。
それでも、あれやこれやと頭の中で考えていると、倫松から明るい声で頼まれた。
「実はのう、其方に頼みがあり越後まで参った」
頼み……この俺なんぞに何の頼みが?
思わず訝しい表情を出してしまったが、すぐに笑顔の稲垣重綱から補足を入れてきた。
「倫松殿はな、三木乃助から書を学びたいそうだ」
書、読み書きである。
何故、俺からだ?
横田家は大身旗本、五千石という十分な俸禄もあり、なによりも現当主である横田尹松は大阪の役で亡き徳川家康を難から救った功績もある。
したがって、下手な外様大名などよりも幕府からは優遇されているはずだ。
そのような家なら、祐筆の一人や二人は必ずいる。
本当に習いたいのであれば、家中の祐筆からが本来の筋だろう⁉︎
こんな言葉に出さずとも、疑問しか浮かべていない表情から察したのだろうか、さも倫松が恥ずかしそうに笑い答えた。
「我が家の祐筆達には、もう頼めんのだ。
俺のお頭が悪すぎたようでなぁ」
よくよく聞くと、頼んでいたが倫松の頭が悪いのか、それとも祐筆の教え方が悪いのか、さっぱりと覚えられなかったらしい。
「そのような時、偶々お会いした酒井様から其方の話を聞いた。
ぜひにも頼みたい!」
「そういう事情だ。
これは我が家の名誉だ、酒井様の顔を立てるためにも教授致せ」
こう言われれば、断れそうにもなかった。
だいたい稲垣重綱の口から出た以上、これは厳命となっている。 もう了承するしかないのだ。
しかし、ここからおかしなことを倫松が言い出した。
まったくの予想外、常識はずれである。
「はっ、かしこまりました。
では明日からでも……」
「いや、本日から頼みたい」
「本日から⁉︎
旅のお疲れもあられるかと……」
「いや心配無用、本日から頼む!」
「かしこまりました。
では、どこどの室をご用意致しますゆえ……」
「いや、其方の屋敷で良い。
じっくりと寝ずに、ご教示願いたい!」
「私めの屋敷ですか⁉︎
それは恐縮ながら……」
「良い、其方の屋敷で教示願いたい。
似た歳だ、気兼ねなく願いたい!」
いくらなんでも大身旗本の次男を、ただが一祐筆の家へ泊めるなど出来ない。
さすがに助けを求めて稲垣重綱へ視線を移したが、あっさりと期待は裏切られた。
「三木乃助、これだけ熱心に学ぼうとされておる。
応えてこそ、それが『漢』ではないか!」
だめだ……話にならない。
こうして、三木乃助の屋敷まで徒歩で向かうことになる。
もちろん馬など輿などを勧められたが、これは倫松から丁重に断られた。
しかし、倫松の荷物を担ぐ従者は添えられている。
荷物だけでなく、稲垣重綱から命を受けた料理方が作った肴や酒、おまけに菓子などもあったからだ。
そんな最中、にこにこと笑顔を浮かべ歩く倫松に対して、先導しながら三木乃助は考えていた。
この不自然な流れに対してだ。
書を学びたいのはわかった。
だが、どうして俺だ?
達筆、速筆と認められたのかもしれないが、俺程度なら江戸あたりには多数居るだろう。
そもそも、どうして俺の屋敷で学びたいのだ? お城の一間を借り、そこで寝ずに学べば良いではないか?
二人きりになる状況を、わざわざ創ろうとしているかのように……。
やはり軍学書を、無断で筆写したのが露見しているのか⁉︎
しかし害意があるとも思えない。
俺は稲垣家家中の者、そんな人間を殺傷すれば、いくら大身旗本の次男であろうと大事になるのは間違いないだろう。
いや屋敷に入った途端に無礼討ちにする気……それも無い。
そんな手間を掛けるなら、適当なところで闇討ちすれば良いだけだ。
まったく意図がわからない……。
そうこうしていると屋敷に着いた。
「お役目ご苦労。
重綱様に、良しなにお伝え下され」
丁重に礼を言われた従者が、荷物を屋敷に運ぼうとした時だ。
「良い良い、我らで運ぶゆえ。
ここまでで結構」
二人きりの状況を、しかも急ぐように創ろうとしている。
やはり書を学ぶ以外に、何かありそうだ。
「さぁ邪魔するぞ!」
倫松自ら荷物を無造作に担ぎ、投げ捨てるように放り込んでいく。
「お手が汚れます、私が運びますゆえに……」
「良い良い、一刻も早く書を学びたいゆえな!」
本当に書を学びたいだけで、他意は無かったのだろう。
そう、少しだけ胸を撫で下ろすことが出来た。
しかし、ここから倫松は変化していく。
ぴっしゃっと戸を閉め、主たる三木乃助の許可を求めることも無く、屋敷の奥へと入った時だ。
隅々に無造作に積まれた軍学書や書物を見て言った。
「『太平記』や『平家物語』、おまけに『六韜』や『十八史略』まで筆写し読んでおるのか!」
こう言われ最初は『掃除なりをしておけば良かった……』と後悔しただけだった。
しかし、すぐにおかしなことにも気付く。
読み書きを学びに来た者が、あっさりと『太平記』や『平家物語』、更には『六韜』や『十八史略』と表面を見て読んだのだ。
この男、すでに書は修得している。
しかも、かなりの教養の持ち主だ。
もしかしたら、『太平記』や『平家物語』だけならば武将の嗜みとして見た可能性もあるだろうから、その文字の形だけで判断したと考えられる。
しかし『六韜』や『十八史略』は、そうもいかなかった。
それらは漢文構成で書かれており、未だ和訳はされていないからだ。
ということは、読み書きは修得済み、しかも漢文を読めるほどの教養は持ち合わせているということになった。
「倫松様、貴方様は一体……」
また不安が胸の中を渦巻いていくが、帰趨で終わった。
読み書きを習うとは別の頼みが、倫松にはあったからだ。
「いやいや、嘘を付いてすまなんだ。
だが……頼みがあるのは本当だ」
「それは一体……」
「これを其方に筆写願いたい」
倫松が胸元に隠した三冊の書を取り出した。
見ると、陣立を表した書、いわゆる戦さの手引き書である。
「これを三日以内に解読し、筆写して貰いたいのだ」
「これを⁉︎」
「これは武田家古来より伝わりしもの。
信玄公の全ての勝利は、これのおかげだ」
そう恐るべきことを言われ、改めて見てみる。
内心では、ただが三冊くらいの筆写なんど、なんぼのもんじゃ!と思いながら見てみたが、『解読』と言った意味が、よくわかってきた。
よくわからない挿絵や言い回しが、乱用されている。
おそらく武田家だけの独特の解釈が存在し、そういったのを加味しながら代々伝えられて来たものなのだろう。
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「しかし、それでは尹松様は……まさか勝頼から……」
「害し奪ったとかではないらしい。
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それを、あいつら古参供ががたがた言いやがったから……。
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「お家のために討死されたのであり……」
「あの時は、織田や徳川には柵があって多くの鉄砲まであったんだぞ!
お前ら見てただろ⁉︎
それを喜び勇んで馬鹿の一つ覚えで突撃したら、どうなるかなんてわかるよなー!
俺は止めたのに、無視しやがったから!」
「いや、それは何とも言いようが……」
「おい、これからどうしたら良いんだ⁉︎
だが俺は悪くないぞ、責任など無いぞ!」
「今、それを言っても線なきこと。
一刻も早く、これを解釈せねば」
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もう知らん、そんなもの見たくもない!」
「しかし……」
「捨てろ……早く捨てろ!
代々のものか何か知らん、そこの林にでも捨てろ!
見たくもない、そんな役立たず早く投げ捨てろ!」
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「よって、我が家の手にある訳なのだがな」
「しかし、これを解読し筆写して倫松様は何を致すおつもりか?」
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