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婚約破棄で修道院送りのはずが、氷の公爵様に「妻にする」と告げられました〜昔、魔力体質のせいで倒れた時、誰より先に助けたのが私だったそうです〜
「リゼル・モンテレーゼ――私が君を妻にする」
張りつめた広間に、低く澄んだ声が落ちた。
いましがた婚約を破棄され、修道院送りまで言い渡された私は、あまりに場違いなその言葉に反射的に顔を上げ――そのまま固まった。
ざわめく人々の向こうに立っていたのは、「氷の公爵」と恐れられるオルヴェイン・グランツ公爵だった。
黒に近い焦げ茶の髪は、ゆるく癖を残したまま後ろへ流され、露わになった額の下では、アイスブルーの瞳だけが鋭く冴えている。
端正な顔立ちには、社交の場にふさわしい愛想がひとつもなかった。
「……どういうおつもりですか、オルヴェイン公」
つい先ほど、私に婚約破棄を言い渡した張本人――ルードリヒ第二王子殿下が、妙に落ち着いた声で尋ねる。
栗色の髪の下、翡翠の瞳には隠しきれない警戒が浮かんでいた。
「言葉どおりだ」
オルヴェインは、わずかに視線を向けただけだった。
「リゼル・モンテレーゼ嬢を、私の妻に迎える」
息を呑む音が、あちこちで重なる。
ルードリヒの隣で、すでに新しい婚約者のように振る舞っていたセレナ・ベルジュ伯爵令嬢も、目に見えて顔色を変えた。
広間じゅうの視線が、いっせいに私へ集まる。
オルヴェインの言葉が救いになるのかどうかもわからないまま、別の意味で逃げ場を失った気がした。
「ふざけたことを」
ルードリヒが吐き捨てるように言う。
「彼女の処遇は、すでに決まった。口を挟まれる筋合いは――」
「決まった?」
オルヴェインが遮る。
「まさか、侯爵令嬢を修道院へ送るような話まで、貴殿ひとりの一存で決められるとでも?」
ルードリヒの唇がわずかに歪む。
「一存もなにもあるまい。あれほど明白なことに、いまさらなにを確かめる必要がある。理由は先ほども申し上げたはずだが……それでもなお、修道院行きが不当だと?」
「ならば改めて聞こう」
オルヴェインは、間を置かずに続けた。
「彼女がなにをした」
ルードリヒが、ちらりと隣のセレナを見る。
「……セレナへの度重なる嫌がらせだ。自分が侯爵令嬢であるのをいいことに彼女を怯えさせ、何度も涙を流させた。そのような女を、このまま王族の婚約者として置いておけるはずがない。しばらく修道院に入り、頭を冷やしてもらう」
ルードリヒの理屈を聞いても、オルヴェインは表情ひとつ変えなかった。
「何度聞いてもおかしな話だ」
広間のざわめきが止む。
「涙ひとつで侯爵令嬢を断罪し、修道院へ送ろうとするとは。――その断罪を、私は認めない」
「……っ、好き勝手を言ってくれる」
肩を震わせるルードリヒに、オルヴェインはもう目もくれない。
その眼差しが、今度は私にまっすぐ向く。
「少なくとも、私にはそうは見えない」
どう受け止めればいいのか、言葉にできない。
さっきまで、誰ひとりとして口を挟めなかった沈黙のなかで、彼だけが静かに異を唱えた。
「……公爵様。私は――」
ようやく絞り出した声も、途中で掠れてしまう。
場が返事を待つように静まり返るなかで、オルヴェインは少しだけ表情を和らげた。
それでも、冷たい印象が消えることはない。
「いますぐ答えを求めるつもりはない。それでも――君を修道院へは行かせない」
彼は私の前へ歩み寄り、静かに立ち止まった。
手袋に包まれた手が差し出される。
「リゼル嬢。私と一緒に、来てほしい」
強いるような言いかたではなかった。
その声には、私をこの場から連れ出そうとする意志が、はっきりとにじんでいた。
差し出された手を見つめる。
まだなにもわからない。どうして私なのか。どうしてそこまでしてくれるのか。
けれど、この手を取らなければ……私は悪女として押し切られたまま、修道院へ送られる。
震えそうになる指先を、そっと伸ばす。
手袋越しに触れたオルヴェインの手は、驚くほど冷たい。
彼はなにも言わず、私の手を包み込むと、庇うように半歩だけ前へ出る。
背後でルードリヒが私の名を呼んだ。
けれど私は振り返らず、そのままオルヴェインとともに広間を後にした。
* * *
広間を離れてもしばらく、私はなにも言えなかった。
繋がれた手の冷たさだけが現実味を帯びていた。
背後のざわめきは遠ざかっていくのに、頭のなかだけがまだ追いつかない。
やがてオルヴェインは、人の気配がほとんどない回廊の奥で足を止めた。
大きな窓の向こう、夜の庭には月光が淡く落ちている。
その手が、ようやく離れた。
「……強引な真似をした」
振り向いた顔には、相変わらず愛想が見られなかった。
けれど、広間でルードリヒに向けていた時ほど鋭くはなかった。
オルヴェインはすぐには続けず、言葉を探すように口を閉ざした。
「すまない」
私は目を瞬かせた。
謝られるとは思っていなかった。
あれほど迷いなく私の手を取った人が、こんなふうに先に頭を下げるなんて。
「いえ、あの……」
うまく声が出ない。
なにから尋ねるべきか決められず、唇だけが震える。
「……どうして」
かろうじて絞り出した言葉に、オルヴェインがわずかに目を細める。
彼の瞳が思いのほか近く、つい息を呑んだ。
「そう問われると思っていた」
短く息を吐いてから、彼は続ける。
「戸惑うのは当然だ。……せめて理由だけは、話させてほしい」
「理由……?」
なにを話すのだろうと、息を詰めて待つ。
オルヴェインは視線を落とした。
「昔、地方の夜会で……倒れた男を見つけたことはないか」
地方の夜会――そのひと言で、ある光景が頭に蘇った。
あれは、私がまだ十二か十三の頃のことだ。
母の静養に付き添って、王都から遠く離れた療養地にしばらく滞在していた。
ある夜、滞在中の貴族たちを招いた小規模な夜会が開かれた。
体調の優れない母に代わって、私は母と親しい夫人に伴われ、挨拶だけのつもりで会場へ顔を出していた。
大人たちのあいだで所在をなくしていた私は、ふと――人目を避けるように席を外す、ひとりの年若い青年に気づいた。
その足取りが、ひどくおぼつかなかったからだ。
心配になってあとを追った先、人けのない回廊の奥で、彼は壁に手をついていた。
ただごとではない気配に、私はおそるおそる近づく。
その白い顔には、青黒いひびのような筋がいくつも走っていた。
まるで内側から何かがにじみ出してくるようで、異様でありながらも――ひどく痛ましかった。
不思議と悲鳴は出なかった。
怖いと思うより先に、「ああ、この人はいま、誰にも見られたくないのだ」とわかった。
私はとっさに肩のショールを外し、彼の顔へそっと掛けた。
「落ち着いて……大丈夫、大丈夫だから」
そう言うと、彼は苦しげな息の合間に、わずかに顔を上げた。
けれど、その顔立ちを確かめるより早く、彼がぐらりと傾く。
私は咄嗟にその身体を支え、壁にもたれさせるようにしてから、近くの控え扉を叩いて人を呼んだ。
扉を開けて出てきた侍従に彼を託したところで、ようやく張りつめていた力が抜けた。
名乗るひまもなかった。
そのあと夜会から戻ると、母の病状がにわかに悪化していた。
私はそのまま看病に追われ、数日後には療養地を離れて王都へ戻った。
彼のことを思い返す余裕もないまま、その夜の出来事は忙しさの中に埋もれていった。
「ぁ……」
喉の奥から、かすかな声が漏れる。
「……あの時の」
私が目を見開くと、オルヴェインは頷いた。
「初めて公の夜会に出された日だった」
窓の外を見やりながら、淡々と続ける。
「私は、生まれつき不安定な魔力体質を持っていた。それで療養地に送られた。あの夜会に出されるまでの数年は、発作もなく落ち着いていた。だが、強い緊張や感情の揺れが引き金になることを……初めて出た社交の場で思い知らされた」
彼の肩が、強張ったような気がした。
「あの症状を……あのおぞましい姿を、誰にも見られたくなかった。家族ですら、怯えて隠したがった」
そこでオルヴェインは、私の目をじっと見た。
澄んだ青の奥で、なにかが揺れていた。
「だが君は逃げなかった。悲鳴も上げず、それどころか……『見られたくない』とすぐに察して、真っ先にショールで顔を隠してくれた。あれは――私にとって、忘れられるものではなかった」
頬がじわりと熱を持つ。
あの時の私は、目の前で具合を悪くしていた人を、ただ放っておけなかっただけだ。
それが、そんなふうに彼のなかへ深く残っていたなんて、思ってもみなかった。
「その後、兄が急逝し、次男の私が公爵を継ぐことになった。王都へ戻ってから、私はあの夜の少女を探した。だが、探し当てた時には……君はすでに、ルードリヒと婚約していた」
月明かりの差す回廊で、彼の横顔がいっそう冷たく見えた。
それでも、その声はなにかを押し殺しているようだった。
「王都で初めて顔を合わせた時、君は私を知らないようだった。それならば、わざわざ言う必要はないと思った。あの時のことを理由に、君の立場を乱したくはなかった」
「そんな……なんと申し上げれば……」
なにも知らず、なにも覚えていなかった自分が、ひどくいたたまれなく思えた。
氷の公爵はいつも遠い人で、それが当然だと思っていた。
オルヴェインはゆっくりと首を横に振った。
「私が勝手に、君を想っていただけだ。いっそ忘れてしまったほうが楽だと、何度も考えた。だが……できなかった」
ぽつりと落とされた声は、私が知っていた彼とはまるで別人のようだった。
声は変わらず平坦なのに、言葉はほのかな熱を持っていた。
「そして今日、君はルードリヒとの婚約を破棄された。それ以上に……証もなく悪女と決めつけられたことを、どうしても見過ごせなかった」
抑えられた声音が鋭くなっていく。
「君は見ず知らずの人のために……苦しんでいる人のために動ける人間だ。そんな君が貶められることなど、あってはならない。――絶対に」
強く言い切られ、肩がビクッと跳ねた。
私は、そんなふうに言われるほど……できた人間ではないのに。
それでも、なんとか応えないと、と口を開く。
「……公爵様が、私をそこまで買ってくださるなんて。それに――」
自然と目を伏せてしまう。
「一度は切り捨てられた私を、妻にするなんて……」
その言葉に、オルヴェインはしばらく黙っていた。
沈黙が、少しだけ怖い。哀れみで拾われただけなんじゃないかと、つい考えてしまう。
けれど次に返ってきた言葉は、その怯えを真っ向から否定した。
「関係ない」
反射的に顔を上げる。
途端に、アイスブルーの瞳に射抜かれた。
「誤解しないでほしい。婚約を解消されたことを理由に、君を選んだわけじゃない。……ただ」
言葉が途切れる。
「君の気持ちを確かめなかったのは、順を違えていた。それでも、後悔はしていない」
その揺るがなさに、唇をきゅっと結んでしまう。
「もう、身を引く必要はなくなった。もし君が、私を選んでくれるのなら――」
時間が、やけに長く感じられる。
「今度こそ、君を離さない」
息が浅くなる。言葉が出てこない。つい目を逸らしてしまう。
だって彼は、あの氷の公爵様で……
(……いえ、違う。彼はもう、あの夜私が助けた青年……ただのオルヴェインなのだから)
それでも、彼の顔を見ることができないまま。
「返事は……少し、お時間をいただけますか」
ようやくそれだけを、喉からしぼり出した。
オルヴェインは落ち着いた声で応えた。
「構わない。待つ」
短い言葉に、肩の力が抜ける。
待つと言ってくれた。
その安心感に、いまはただ身を委ねることしかできなかった。
* * *
それから三ヶ月後。
私――リゼル・モンテレーゼ侯爵令嬢と、オルヴェイン・グランツ公爵との婚約は、正式に整った。
私を修道院送りにしようとしたルードリヒは、証拠もなく私を悪女と決めつけた軽率さを、多くの者の前に晒すことになった。
彼に寄り添っていたセレナもまた、涙ひとつで人を陥れる令嬢として見られるようになり、ふたりは以前ほど、華やかな場で歓迎されることはなくなった。
あの日、オルヴェインから向けられた想いは、少しずつ現実になっていった。
王宮でも、夜会でも、彼は驚くほど自然に私を隣へ置いた。
その距離に最初は戸惑ってばかりいた私も、気づけば、あの青い眼差しを探すことが増えていた。
婚約披露の日の帰り際。
馬車の前まで見送ってくれたオルヴェインは、いつもと同じ無表情のまま、ふいに私の手を取り……指先にそっと口づけた。
「この先、君を離すことはない」
低い声は変わらず穏やかなのに、その言葉がいつまでも胸に残った。
私は頬の火照りを隠し切れないまま、それでも今度は目を逸らさず、小さく微笑み返した。
【完】
張りつめた広間に、低く澄んだ声が落ちた。
いましがた婚約を破棄され、修道院送りまで言い渡された私は、あまりに場違いなその言葉に反射的に顔を上げ――そのまま固まった。
ざわめく人々の向こうに立っていたのは、「氷の公爵」と恐れられるオルヴェイン・グランツ公爵だった。
黒に近い焦げ茶の髪は、ゆるく癖を残したまま後ろへ流され、露わになった額の下では、アイスブルーの瞳だけが鋭く冴えている。
端正な顔立ちには、社交の場にふさわしい愛想がひとつもなかった。
「……どういうおつもりですか、オルヴェイン公」
つい先ほど、私に婚約破棄を言い渡した張本人――ルードリヒ第二王子殿下が、妙に落ち着いた声で尋ねる。
栗色の髪の下、翡翠の瞳には隠しきれない警戒が浮かんでいた。
「言葉どおりだ」
オルヴェインは、わずかに視線を向けただけだった。
「リゼル・モンテレーゼ嬢を、私の妻に迎える」
息を呑む音が、あちこちで重なる。
ルードリヒの隣で、すでに新しい婚約者のように振る舞っていたセレナ・ベルジュ伯爵令嬢も、目に見えて顔色を変えた。
広間じゅうの視線が、いっせいに私へ集まる。
オルヴェインの言葉が救いになるのかどうかもわからないまま、別の意味で逃げ場を失った気がした。
「ふざけたことを」
ルードリヒが吐き捨てるように言う。
「彼女の処遇は、すでに決まった。口を挟まれる筋合いは――」
「決まった?」
オルヴェインが遮る。
「まさか、侯爵令嬢を修道院へ送るような話まで、貴殿ひとりの一存で決められるとでも?」
ルードリヒの唇がわずかに歪む。
「一存もなにもあるまい。あれほど明白なことに、いまさらなにを確かめる必要がある。理由は先ほども申し上げたはずだが……それでもなお、修道院行きが不当だと?」
「ならば改めて聞こう」
オルヴェインは、間を置かずに続けた。
「彼女がなにをした」
ルードリヒが、ちらりと隣のセレナを見る。
「……セレナへの度重なる嫌がらせだ。自分が侯爵令嬢であるのをいいことに彼女を怯えさせ、何度も涙を流させた。そのような女を、このまま王族の婚約者として置いておけるはずがない。しばらく修道院に入り、頭を冷やしてもらう」
ルードリヒの理屈を聞いても、オルヴェインは表情ひとつ変えなかった。
「何度聞いてもおかしな話だ」
広間のざわめきが止む。
「涙ひとつで侯爵令嬢を断罪し、修道院へ送ろうとするとは。――その断罪を、私は認めない」
「……っ、好き勝手を言ってくれる」
肩を震わせるルードリヒに、オルヴェインはもう目もくれない。
その眼差しが、今度は私にまっすぐ向く。
「少なくとも、私にはそうは見えない」
どう受け止めればいいのか、言葉にできない。
さっきまで、誰ひとりとして口を挟めなかった沈黙のなかで、彼だけが静かに異を唱えた。
「……公爵様。私は――」
ようやく絞り出した声も、途中で掠れてしまう。
場が返事を待つように静まり返るなかで、オルヴェインは少しだけ表情を和らげた。
それでも、冷たい印象が消えることはない。
「いますぐ答えを求めるつもりはない。それでも――君を修道院へは行かせない」
彼は私の前へ歩み寄り、静かに立ち止まった。
手袋に包まれた手が差し出される。
「リゼル嬢。私と一緒に、来てほしい」
強いるような言いかたではなかった。
その声には、私をこの場から連れ出そうとする意志が、はっきりとにじんでいた。
差し出された手を見つめる。
まだなにもわからない。どうして私なのか。どうしてそこまでしてくれるのか。
けれど、この手を取らなければ……私は悪女として押し切られたまま、修道院へ送られる。
震えそうになる指先を、そっと伸ばす。
手袋越しに触れたオルヴェインの手は、驚くほど冷たい。
彼はなにも言わず、私の手を包み込むと、庇うように半歩だけ前へ出る。
背後でルードリヒが私の名を呼んだ。
けれど私は振り返らず、そのままオルヴェインとともに広間を後にした。
* * *
広間を離れてもしばらく、私はなにも言えなかった。
繋がれた手の冷たさだけが現実味を帯びていた。
背後のざわめきは遠ざかっていくのに、頭のなかだけがまだ追いつかない。
やがてオルヴェインは、人の気配がほとんどない回廊の奥で足を止めた。
大きな窓の向こう、夜の庭には月光が淡く落ちている。
その手が、ようやく離れた。
「……強引な真似をした」
振り向いた顔には、相変わらず愛想が見られなかった。
けれど、広間でルードリヒに向けていた時ほど鋭くはなかった。
オルヴェインはすぐには続けず、言葉を探すように口を閉ざした。
「すまない」
私は目を瞬かせた。
謝られるとは思っていなかった。
あれほど迷いなく私の手を取った人が、こんなふうに先に頭を下げるなんて。
「いえ、あの……」
うまく声が出ない。
なにから尋ねるべきか決められず、唇だけが震える。
「……どうして」
かろうじて絞り出した言葉に、オルヴェインがわずかに目を細める。
彼の瞳が思いのほか近く、つい息を呑んだ。
「そう問われると思っていた」
短く息を吐いてから、彼は続ける。
「戸惑うのは当然だ。……せめて理由だけは、話させてほしい」
「理由……?」
なにを話すのだろうと、息を詰めて待つ。
オルヴェインは視線を落とした。
「昔、地方の夜会で……倒れた男を見つけたことはないか」
地方の夜会――そのひと言で、ある光景が頭に蘇った。
あれは、私がまだ十二か十三の頃のことだ。
母の静養に付き添って、王都から遠く離れた療養地にしばらく滞在していた。
ある夜、滞在中の貴族たちを招いた小規模な夜会が開かれた。
体調の優れない母に代わって、私は母と親しい夫人に伴われ、挨拶だけのつもりで会場へ顔を出していた。
大人たちのあいだで所在をなくしていた私は、ふと――人目を避けるように席を外す、ひとりの年若い青年に気づいた。
その足取りが、ひどくおぼつかなかったからだ。
心配になってあとを追った先、人けのない回廊の奥で、彼は壁に手をついていた。
ただごとではない気配に、私はおそるおそる近づく。
その白い顔には、青黒いひびのような筋がいくつも走っていた。
まるで内側から何かがにじみ出してくるようで、異様でありながらも――ひどく痛ましかった。
不思議と悲鳴は出なかった。
怖いと思うより先に、「ああ、この人はいま、誰にも見られたくないのだ」とわかった。
私はとっさに肩のショールを外し、彼の顔へそっと掛けた。
「落ち着いて……大丈夫、大丈夫だから」
そう言うと、彼は苦しげな息の合間に、わずかに顔を上げた。
けれど、その顔立ちを確かめるより早く、彼がぐらりと傾く。
私は咄嗟にその身体を支え、壁にもたれさせるようにしてから、近くの控え扉を叩いて人を呼んだ。
扉を開けて出てきた侍従に彼を託したところで、ようやく張りつめていた力が抜けた。
名乗るひまもなかった。
そのあと夜会から戻ると、母の病状がにわかに悪化していた。
私はそのまま看病に追われ、数日後には療養地を離れて王都へ戻った。
彼のことを思い返す余裕もないまま、その夜の出来事は忙しさの中に埋もれていった。
「ぁ……」
喉の奥から、かすかな声が漏れる。
「……あの時の」
私が目を見開くと、オルヴェインは頷いた。
「初めて公の夜会に出された日だった」
窓の外を見やりながら、淡々と続ける。
「私は、生まれつき不安定な魔力体質を持っていた。それで療養地に送られた。あの夜会に出されるまでの数年は、発作もなく落ち着いていた。だが、強い緊張や感情の揺れが引き金になることを……初めて出た社交の場で思い知らされた」
彼の肩が、強張ったような気がした。
「あの症状を……あのおぞましい姿を、誰にも見られたくなかった。家族ですら、怯えて隠したがった」
そこでオルヴェインは、私の目をじっと見た。
澄んだ青の奥で、なにかが揺れていた。
「だが君は逃げなかった。悲鳴も上げず、それどころか……『見られたくない』とすぐに察して、真っ先にショールで顔を隠してくれた。あれは――私にとって、忘れられるものではなかった」
頬がじわりと熱を持つ。
あの時の私は、目の前で具合を悪くしていた人を、ただ放っておけなかっただけだ。
それが、そんなふうに彼のなかへ深く残っていたなんて、思ってもみなかった。
「その後、兄が急逝し、次男の私が公爵を継ぐことになった。王都へ戻ってから、私はあの夜の少女を探した。だが、探し当てた時には……君はすでに、ルードリヒと婚約していた」
月明かりの差す回廊で、彼の横顔がいっそう冷たく見えた。
それでも、その声はなにかを押し殺しているようだった。
「王都で初めて顔を合わせた時、君は私を知らないようだった。それならば、わざわざ言う必要はないと思った。あの時のことを理由に、君の立場を乱したくはなかった」
「そんな……なんと申し上げれば……」
なにも知らず、なにも覚えていなかった自分が、ひどくいたたまれなく思えた。
氷の公爵はいつも遠い人で、それが当然だと思っていた。
オルヴェインはゆっくりと首を横に振った。
「私が勝手に、君を想っていただけだ。いっそ忘れてしまったほうが楽だと、何度も考えた。だが……できなかった」
ぽつりと落とされた声は、私が知っていた彼とはまるで別人のようだった。
声は変わらず平坦なのに、言葉はほのかな熱を持っていた。
「そして今日、君はルードリヒとの婚約を破棄された。それ以上に……証もなく悪女と決めつけられたことを、どうしても見過ごせなかった」
抑えられた声音が鋭くなっていく。
「君は見ず知らずの人のために……苦しんでいる人のために動ける人間だ。そんな君が貶められることなど、あってはならない。――絶対に」
強く言い切られ、肩がビクッと跳ねた。
私は、そんなふうに言われるほど……できた人間ではないのに。
それでも、なんとか応えないと、と口を開く。
「……公爵様が、私をそこまで買ってくださるなんて。それに――」
自然と目を伏せてしまう。
「一度は切り捨てられた私を、妻にするなんて……」
その言葉に、オルヴェインはしばらく黙っていた。
沈黙が、少しだけ怖い。哀れみで拾われただけなんじゃないかと、つい考えてしまう。
けれど次に返ってきた言葉は、その怯えを真っ向から否定した。
「関係ない」
反射的に顔を上げる。
途端に、アイスブルーの瞳に射抜かれた。
「誤解しないでほしい。婚約を解消されたことを理由に、君を選んだわけじゃない。……ただ」
言葉が途切れる。
「君の気持ちを確かめなかったのは、順を違えていた。それでも、後悔はしていない」
その揺るがなさに、唇をきゅっと結んでしまう。
「もう、身を引く必要はなくなった。もし君が、私を選んでくれるのなら――」
時間が、やけに長く感じられる。
「今度こそ、君を離さない」
息が浅くなる。言葉が出てこない。つい目を逸らしてしまう。
だって彼は、あの氷の公爵様で……
(……いえ、違う。彼はもう、あの夜私が助けた青年……ただのオルヴェインなのだから)
それでも、彼の顔を見ることができないまま。
「返事は……少し、お時間をいただけますか」
ようやくそれだけを、喉からしぼり出した。
オルヴェインは落ち着いた声で応えた。
「構わない。待つ」
短い言葉に、肩の力が抜ける。
待つと言ってくれた。
その安心感に、いまはただ身を委ねることしかできなかった。
* * *
それから三ヶ月後。
私――リゼル・モンテレーゼ侯爵令嬢と、オルヴェイン・グランツ公爵との婚約は、正式に整った。
私を修道院送りにしようとしたルードリヒは、証拠もなく私を悪女と決めつけた軽率さを、多くの者の前に晒すことになった。
彼に寄り添っていたセレナもまた、涙ひとつで人を陥れる令嬢として見られるようになり、ふたりは以前ほど、華やかな場で歓迎されることはなくなった。
あの日、オルヴェインから向けられた想いは、少しずつ現実になっていった。
王宮でも、夜会でも、彼は驚くほど自然に私を隣へ置いた。
その距離に最初は戸惑ってばかりいた私も、気づけば、あの青い眼差しを探すことが増えていた。
婚約披露の日の帰り際。
馬車の前まで見送ってくれたオルヴェインは、いつもと同じ無表情のまま、ふいに私の手を取り……指先にそっと口づけた。
「この先、君を離すことはない」
低い声は変わらず穏やかなのに、その言葉がいつまでも胸に残った。
私は頬の火照りを隠し切れないまま、それでも今度は目を逸らさず、小さく微笑み返した。
【完】
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『余計な真似をして……傷物の女などただの穀潰しでは無いか!』
通り魔から子供を庇い刺された女性漫画家は自分が美しい貴族令嬢になってることに気付く。彼女の名前はエリーズ・セルネで今度コミカライズを担当する筈だった人気小説のヒロインだった。婚約者の王子と聖女を庇い背中に傷を負ったエリーズは傷物として婚約破棄されてしまう。そして父である公爵に何年も傷物女と罵倒されその間に聖女と第二王子は婚約する。そして心を病んだエリーズはその後隣国の王太子に救い出され幸せになるのだ。しかし王太子が来るまで待ちきれないエリーズは自らの死を偽装し家を出ることを決意する。
氷の公爵様の氷が溶けた(*´Д`)