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2 脱出計画
しおりを挟むジュヌヴィエーヴには五人の兄がいた。
次男のアルフォンスと三男のジャン=ジャックは結婚して家を出ていて、四男のアントワーヌは大学の傍に下宿しており、家に残っているのは跡取りで長男のジャン=ポールと末のエティエンヌだった。
ジャン=ジャックとは出会いからしてあまりいい関係ではなく、それ以降も仲良くなるような雰囲気が生まれるわけでもなかった為、食事のときに顔を合わせても会話などない状態だ。喧嘩に発展しないだけマシだろうか。
エティエンヌとジャン=ポールの子供のアンリ=シャルルとは仲良くなれた。彼等はジュヌヴィエーヴにとても友好的で、こちらに来た次の日からいろいろと話しかけてくれている。
そんな二人に加え、女主人であるジョゼフィーヌも、実の娘のように可愛がってくれているので、モンクレーヌ家でのジュヌヴィエーヴの滞在は快適ではあった。
ただ、呼び寄せている筈の母がなかなか来ないことに、苛立ちを募らせずにはいられない。
「本当に母さんを呼んでくれているんですか?」
あまり会いたくもなかったが、確認する為に仕方なく、ジュヌヴィエーヴは父の書斎を訪れた。
父は迷惑そうな顔をして娘を見遣った。
「呼んでいる」
端的に答える父に、ジュヌヴィエーヴは心底疑わしげな目を向ける。
「私がこちらに来てから、もう半月以上が過ぎていますけれど」
「あちらも忙しいのではないか? 今は収穫の時期だろう」
祖父の畑では、八月に少しの白葡萄を、九月に本命である黒葡萄を収穫し、ワインへと醸造する。今はもうその収穫期真っ盛りなのは確かな話だ。雇っている小作人や手伝ってくれる人はいるが、毎年祖父母も母も、幼いジュヌヴィエーヴも合わせて一家総出で収穫に当たっていた。
なるほど、とジュヌヴィエーヴは頷いた。尤もな話である。
「では、私も一度戻りたいのですけれど」
忙しいのだから人手は多い方がいい。毎年のことで手慣れているし、ジュヌヴィエーヴは立派な戦力だ。
ならん、と父は渋い顔をした。
「行ったり来たり、旅費も馬鹿にならんだろうが」
この回答にはジュヌヴィエーヴが顔を顰めた。勝手に連れて来ておいてそれか。
父は随分な吝嗇家のようだ。裏では高利貸のようなこともしているらしく、そのことを快く思っていないジョゼフィーヌが愚痴っていた。
「それより、家庭教師を頼んだから、お前は明日から礼儀作法を学べ」
「はあ?」
いきなり振られた話題にジュヌヴィエーヴは頓狂な声を上げる。その態度に父はまた嫌そうな顔をして舌打ちした。
「そういう態度だ。年頃の娘がそんなのでどうする」
確かにジュヌヴィエーヴは快活な方だが、野山を走り抜けることが好きだということを除けば、同年代の少女達とたいして変わらない。家のことも進んでするし、必要最低限の礼儀と教養は身についている筈だ。
確かに父達に対する態度は礼儀を欠いている部分があるが、それは彼等の態度が横柄で不愉快なものであった為、こんな輩に愛想よく礼を尽くす必要がないと判断したからだ。
「どうせジョゼフィーヌと喋っている以外やることもないだろう。作法を身に着けておいて損をすることはない」
お前の将来の為なのだからよく考えろ、と真っ当な父親らしいことを口にするので、思わず呆気に取られる。
確かにその通りなのだが、この父が言うとなにか含みがあるのではないかと思えて仕方がない。胡乱気な目つきでじっとりと睨みつけてみたが、その程度で父が化けの皮を剥がすことはなく、拒絶する理由も特に思い浮かばなかったので従うしかなかった。
パリに来てから約二ヶ月が過ぎた。
夏の暑さの残る時期はとうに過ぎ、街路樹の一部は色づき始めているくらいだ。
それなのに母はまだ来ない。それどころか、連絡のひとつさえもない。
悶々としながらも、父に問い詰めて「まだ忙しいのだろう。実家の家業のことくらいお前の方が詳しいのでは?」と言われればそうなのだが、それにしても遅い。一番忙しい収穫期はとうに終わっているのだからおかしなものだ。
しばらくは我慢していたのだが、元々あまり気が長い方ではない為、十月の半ばに入った頃には限界だった。
「ジョゼ、お願いがあります」
いつも一緒にしている手芸の時間に、ジュヌヴィエーヴは思い切って口を開いた。
「旅費を工面してください。家に帰ります」
そろそろそんな話を持ち出されるだろうことを予見していたジョゼフィーヌは、静かに針を置き、真剣に見つめてくる少女の瞳を見つめ返した。
「そうね。帰った方がいいと思うわ」
ジョゼフィーヌも今の状況には違和感を抱いていた。
いくら忙しいとはいえ、こんなにも長い期間、一切の音沙汰がないのは明らかにおかしい。元から連絡を取っていなかったと考える方が正しいと思われる。
その意見にはジュヌヴィエーヴもまったくの同意だった。あの母が手紙の一枚すら寄越さないなんてことは絶対にあり得ない。
また父に騙されたのだ。
ほんの少しでも信用して、言うことを信じていたのが間抜け以外の何物でもない。あの男は初めから約束を守るつもりも、そもそも約束をするつもりもなかったのだ。
「お金はすぐに都合をつけます。あなたはいつでも出られるように、今夜中に荷物を纏めておきなさい」
「ありがとうございます」
礼を言って頷くが、すぐには行動に移らない。父やジャン=ポールに気づかれるのを防ぐ為だ。平気で人を騙すあの二人は、他人のちょっとした変化にも敏感だ。猜疑心が強いのだろう。
ジュヌヴィエーヴはいつものお喋りの振りをしながら、今後の行動についてジョゼフィーヌと話し合った。何年もの間、夫に対して強い不信感を抱いている彼女は、ジュヌヴィエーヴにとても同情的で協力的だった。
取り決めたことは、父の目を盗んで屋敷を出なければならない為、荷物は必要最小限に纏めておくことと、旅費は明日の朝、日課である朝の挨拶のときにこっそり渡すことにするということだ。
「明日は確かバルモン卿にお呼ばれしているから、昼から出かける筈よ。だから午前中はいつものように作法の授業を受けて、昼食を終えたら出て行きなさい」
「はい、わかりました」
「辻馬車は広場に出てから拾った方がいいと思うけれど、広場までの道はわかる?」
広場までは行ったことはないが、何度かジョゼフィーヌと一緒に買い物に出かけて通りかかったことはあるので、方向はなんとなくわかる。
「たぶん大丈夫です。歩くとどれくらいかかりますか?」
「そうね……あなたの足でも三十分はかからないと思うわ」
「思ったよりも距離があったんですね」
やはりこの屋敷は郊外にあったのだな、と思いつつ、不慣れな都会の道を上手く歩けるか、ほんの少し不安が過る。だが、それくらいで怯んでなどいられない。ジョゼフィーヌもあまり出歩かないので道には詳しくないらしいのだが、わかる範囲で説明してくれたので、それを必死に頭に叩き込む。
最後にもう一度段取りを確認し、今夜は早く休むことを誓って夫人の居間を辞した。
普段はこのままエティエンヌと本を読むか、アンリ=シャルルと庭を散歩することが多いのだが、今日は荷造りの為に部屋に籠もることにする。
少し体調が悪いので横になる、とメイドに伝え、夕食の時間まで一人にしておいて欲しい、と告げると、なんの疑問も持たずにその通りにしてくれたのは有難い。あまり物音を立てないように袋に着替えを詰め込み、ベッドの下に隠しておく。メイドに見つかって父や長兄に報告されたら厄介だ。
朝晩は冷え込むようになってきたので外套が必要かと思うのだが、故郷を出たのがまだ夏の盛りの頃だったので、生憎と持って来てはいなかった。なくても困りはしないが、埃除けにもなるし、便利だ。
少し考えてから、エティエンヌに借りに行くことにした。
一応具合が悪いことになっているので周囲を確認してから部屋を出て、エティエンヌが勉強部屋代わりに常駐している図書室へと向かう。彼はいつものようにそこにいた。
「やあ、ジジ」
普段より随分と遅い時間に現れた異母妹に、エティエンヌは笑みを向けた。今日はアンリ=シャルルと遊んでいるのだと思っていた。
「お願いがあるの、エティエンヌ。外套を一枚、私にくれない?」
のんびりしていて見つかると厄介だと思い、挨拶もなく本題を切り出す。
「外套? なににするの?」
「私が着るの」
「そりゃそうだろうけれど……」
ペンを置いて本を閉じ、広げていた勉強道具をざっと寄せて片付けると、立ち上がる。そのままジュヌヴィエーヴを連れて自分の部屋へと戻った。
「お前が着るには大きいと思うよ」
一番小さい寸法の外套を探し出し、ジュヌヴィエーヴの肩にかけてくれる。確かに大きかったが、引きずるほどではない。
「これでいいわ。少し裾を詰めれば丁度いいし」
「もっと可愛いのを仕立てればいいのに」
男物の外套を翻して笑う幼い妹の姿に、エティエンヌは少し呆れたような口調で溜め息を零した。
「時間がないもの。ありがとう」
礼の言葉もそこそこに部屋を出て行こうとする妹に、
「あまり無茶はするんじゃないよ」
とエティエンヌは苦笑をむけた。そんな兄の言葉に、ジュヌヴィエーヴは笑顔で「はぁい」と答えて手を振った。
繕い物は得意だ。木の枝などに裾をよく引っかけていたので、それを上手く補修する為に慣れてしまった。それ故に、外套の裾上げくらいどうということはない。
帰郷の為の準備は順調に整い、翌日も計画通りに朝食を終えたあとに夫人の部屋へと向かい、朝の挨拶をしながらジョゼフィーヌから路銀をこっそり受け取り、昼食までは作法の家庭教師の授業を受ける――すべてが順調だった。
昨日に引き続き、少し身体が怠いから、とメイド達に告げて部屋に籠もり、父が出かけて行くのを窓から確認していた。午後一時頃に馬車が出て行くのを見届けると、ベッドの下から纏めておいた荷物を引っ張り出し、手直ししたエティエンヌの外套を羽織った。
異変に気づいたのは、部屋を出ようとしたまさにそのときだった。
ドアが開かないのだ。
「おかしいわね……」
ブツブツと文句を零しながら何度もドアノブを捻るが、ガチャガチャと音を立てるだけで開かず、部屋を出ることが出来ない。
鍵をかけられたのか物を置かれているのかはわからないが、閉じ込められたことに気づき、家出の計画を父に感づかれていたことに思い至る。
あれだけこっそりと行動していたというのに、何処からばれたのだろうか。
声を上げてメイドを呼び、出してもらうことは簡単だ。だが、それでは屋敷を出て帰郷することは叶わない。
斯くなる上は――と窓へと目を向ける。
戻って窓を開けると、幸いにも目の前に大きな木があるのはわかっている。改めて確認してみると、枝振りも太くしっかりしているように見受けられ、申し分はない。
少し距離があることが不安要素ではあるが、なんとかなるだろう、と腹を決めた。
荷物と外套を一括りにして放り投げて下に落とし、身軽になってから窓枠に足をかける。上手く飛び移れるかは賭けだが、丁度いい位置に、見た目からしてしっかりとした枝があった。そこへ狙いを定める。
あまりここで躊躇して時間を食うわけにはいかない。深呼吸をして恐怖心と不安を身体の外へ追いやり、気合いを込めた「やっ!」という掛け声と共に窓枠を蹴った。
狙い通りの枝に飛びつくことに成功し、ジュヌヴィエーヴは自分の運動神経のよさを感嘆と共に称えたくなる。木登りは得意だが、飛び移るなんて初めてのことだったし、成功してよかった。
このまま下に飛び降りるにはまだ少し高さがあったので、姿勢を整える。
「ジュヌヴィエーヴ!」
幹の方へ移動して降りようとしていると、ジャン=ポールの声が響いた。ギョッとして下を見ると、怒りに顔を真っ赤にした長兄が戦慄きながら睨みつけてきていた。
「そんなところでなにをしているんだ!」
「あなたこそなにをしているのよ。スカートの中を覗くなんて、最低!」
「だったら降りろ!」
「嫌よ!」
「降りろ!」
「嫌と言っているでしょう!」
お互いに怒鳴り声でそんなやり取りをしていたものだから、屋敷のあちこちから使用人達が顔を覗かせた。エティエンヌも図書室から顔を出し、うわっ、と顔を顰めた。
ジョゼフィーヌの部屋からも侍女が顔を出し、すぐに女主人を呼び寄せ、揃って驚愕の表情で木の上と下で睨み合い怒鳴り合っている兄妹を眺めた。
その様子で、ジョゼフィーヌは計画が失敗に終わったことに気づく。しかし、それを顔に出すわけにはいかず、兄妹の姿にただ驚いている姿を装った。
ジュヌヴィエーヴの第一の脱走劇はこうして失敗に終わった。
この日は罰として夕食を抜かれることになったが、それは別に耐えられないことではなかった。
耐えられなかったのは、その処分を言い渡し、食堂を出て行くように告げたときの、勝ち誇った父の表情だ。腹立たしくて堪らなかったし、あの男に負けたことが屈辱以外の何物でもなかった。
二年後にジュヌヴィエーヴが結婚して家を出るまでの間に、彼女の脱走行動は二十回以上にも及んだが、狡猾で猜疑心の強い父と長兄の前に悉く失敗に終わっていった。
彼女が二十三回目にして成功させた脱走は、生涯を捧げる愛する男性の許へと向かわせたのだが、そのことを語る為に、ここから一年と少しあとの話をしよう――
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