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3 庭園と異邦人
しおりを挟むジュヌヴィエーヴが生涯の愛を誓うことになる男、ギャレット・スターウェルと出会ったのは、彼女が異母兄に騙されてパリに連れて来られてから、そろそろ二年のときが過ぎようかという頃のことだった。
もうすぐ十六歳になるという年齢の頃になると、父は何故かジュヌヴィエーヴをいろいろな場所へ連れ回すようになった。
もちろん監視つきであり、自由は一切ない。父が引き合せる人々に挨拶させられ、嫌々ながらもしばらく歓談するのだ。
そんなことがひと月も続けば嫌気が差してくる。うんざりしつつ、抜け出すタイミングを計るのが日課となっていた。
完全な逃亡は叶わないが、ほんの少しの間姿を隠すことくらいは出来るようになっていった頃、ジュヌヴィエーヴは今の状況になんとなく理解が及び始めていた。
これは所謂『社交界』なのだ。
南方の田舎で、土地持ちではあるが基本的には農民の子として育っていたジュヌヴィエーヴには、貴族の生活など一切与り知らないことでわけがわからなかったが、彼等はこうして交友関係を深め、家を繁栄させていくのだろう。馬鹿らしい。
その馬鹿らしいものの為に連日連れ回され、興味のない自慢話や噂話を延々聞かされる状況に、うんざりを通り越して疲弊していた。
この日もまたそうして連れ出され、物凄い香水臭い未亡人と、ジュヌヴィエーヴの倍以上の太さの胴回りの伯爵様に紹介され、同じ年頃の少年達とその親に引き合わされた。名前も顔も誰一人覚えていないが気にしない。
庭園の中を散策するという話になり、嫌々ながらそぞろ歩きに付き合い、少年達の意味不明な自慢話と悪口に辟易してきた頃、ジュヌヴィエーヴは「ちょっとお花摘みに」と微笑んで一行から離れた。これで十五分くらいは一息入れられる。
やれやれ、と思いながら歩いていると、懐かしいものが目についた。
「あら。茱萸の木だわ」
昔から大好物の、初夏の頃のおやつだ。
いそいそと木に近寄り、真っ赤に熟した実をぶつりと捥ぐ。故郷で食べたものより少し渋味があるように感じたが、まあまあの味だろう。
こんなものがあるなんて知らなかったな、としみじみしながら更に捥ぎ取り、ハンカチの中に包んで四隅を縛った。
何処かで落ち着いて食べたいな、と思い、ゆっくり出来そうな場所を探して彷徨い歩く。父達が捜しに来て怒りそうだが、この敷地内から出なければ酷い文句はないだろう。
しばらく歩いていると、楡の木が茂っている場所を見つけた。
葡萄を育てる際、楡の木を支柱にすることもあったので、ジュヌヴィエーヴにとって楡の木はとても馴染み深く、懐かしいものだった。
枝振りは悪くないな、と見上げ、警戒するようにあたりを見回し、誰もいないことを確認すると、その幹に手をかけた。そのまま慣れた身の熟しでするすると登って行き、程よい高さの枝で腰を落ち着ける。久しぶりの木登りは少し大変で、情けないことに息を弾ませることになってしまったが、とても気分がよかった。
乱れた呼吸を落ち着ける意味も兼ねて大きく深呼吸すると、想像していた以上に清々しい空気が肺の中に入って来て、息苦しい環境から解放された喜びで胸が満たされる。
「ああ……」
思わず満足気な溜め息が零れた。
どうせすぐにあの中に連れ戻されるのはわかっている。それでも、今のこのひとときだけは、ジュヌヴィエーヴは自由だった。
ハンカチに包んでおいた茱萸の実を取り出し、口の中に放り込む。今度のものは渋味はなく、とても甘かった。
幼い頃は、よくこうして友達と茱萸の実を食べたものだ。競うように木に登り、青々とした草原を眺めながら、ポケットいっぱいにして運んで来た木の実をおやつにする――そういう生活をしていたあの頃が、一番楽しかった。あの日々がとても懐かしい。
茱萸をほとんど食べてしまった頃、風が強くなってきたことに気がついた。
これくらいの風でバランスを崩して落ちるようなヘマはしないが、そろそろ父達が捜しに来る頃合いだろうし、降りた方がよさそうだ。
残念に思いながらも仕方なく、降りる為に体勢を入れ替えていると、下から吹き上げるように強めの風が吹き、ドレスの裾を大きく膨らませた。思わず小さく悲鳴を零し、捲くれ挙げるのを抑えるように幹に身体を圧しつけた。
だからこのドレスは嫌なのだ。下着のような薄物で、ひらひらとしている。いくら流行であるからとはいえ、まったくジュヌヴィエーヴの好みではない。
裾に気を取られた一瞬の隙に、悪戯な風は注意が疎かになった頭上から、ジュヌヴィエーヴのお気に入りの帽子を奪っていく。顎の下でリボンを結んで留めていたのだが、いつの間にか解けていたようだ。
それは、大好きな祖母が作ってくれた帽子だった。
この二年ほどの間に、父から「みすぼらしい」と言われて何度も捨てられそうになったのを、必死に死守してきた大切な帽子だ。
その帽子が、風に乗って飛んで行ってしまう。
ジュヌヴィエーヴは慌てて木を降り、帽子を追い駆けた。
幸か不幸か、帽子は何処かに引っかかって破けたりはしなかった。止まりもしなかったのだが。
茂みの向こうへ落ちて行くのを確認して回り込み、破けていないことを祈りながら落下予測点へ走った。
足に絡みつくドレスの裾が邪魔だし、ストールも邪魔で苛ついた。こんな格好をしていなければ、ジュヌヴィエーヴはもっと早く走れる。だから貴族なんて嫌いなのだ。
苛々しながら走って行くと、池の畔に一人の男が屈んでいるのが見えた。彼の手にはジュヌヴィエーヴの大切な帽子がある。
男は自分の服が濡れるのも厭わずに帽子を拾い上げると、飛んで来た方向を見遣って首を傾げ、自分の手許にもう一度視線を戻していた。
「あの!」
絡みつく裾を大きく持ち上げて速度を上げながら、ジュヌヴィエーヴは声を張り上げた。
その声に気づいた男は振り返り、少し驚いたように双眸を瞠る。
「ありがとう、ムッシュウ。それ、私の帽子です」
男に駆け寄って礼を言う。淑女らしくきちんと裾を直すのも忘れてはいないが、膝上まで露わにしながら走っていた姿はしっかりと目撃されているので、彼は双眸を大きく瞠ってジュヌヴィエーヴを見つめ返していた。
「とても大切な帽子なの」
さすがに気恥ずかしさを感じて照れ笑いながら、帽子を受け取る為に手を差し出す。彼は少し戸惑ったような表情を見せたが、そっと手渡してくれた。
「それはよかった。濡れてしまったけれど」
立派な口髭の下から零された声は、お腹の奥に響くようなどっしりとした深みのある声で、ジュヌヴィエーヴはドキリと心臓が跳ねるのを感じた。
「大丈夫よ。洗って乾かすわ。でも、あなたの袖も濡れてしまったみたい。よかったら、これを使って……」
ジュヌヴィエーヴは慌ててハンカチを取り出すが、それには茱萸の実の残りが包まれている。赤い実が足許にぽろぽろと零れ落ち、それに気づいて淡く頬を染めた。
「茱萸?」
零れ落ちた実へと視線を向け、男はぽつりと呟く。その様子にジュヌヴィエーヴはますます頬を赤くした。
「あ、あの、汚れてはいない筈よ。だから、嫌でなければ……」
ジュヌヴィエーヴが言い終わる前に、男はハンカチを受け取ってくれた。そして、嫌がる素振りも見せずに手を拭き、濡れた袖口にトントンと叩き当てた。その様子にジュヌヴィエーヴはホッとする。
「本当にありがとう、ムッシュウ」
「偶々通りがかっただけだ、気にすることはない。それより、ハンカチを汚してしまったな」
「気になさらないで。ハンカチくらい……ああ、そうだわ。きちんとお礼をしなくちゃ」
ジュヌヴィエーヴはハッと顔を上げて男の顔を見つめる。
「お礼、させてくださいな」
その言葉に、男は困惑気な目を返した。
「ハンカチを借りただけで十分だし、そう言うのなら、わたしがハンカチの礼をしなければならないのではないか?」
「それはいいの。――ああ、でも、そうね。それならお礼の交換をしましょう」
「交換?」
見知らぬ少女の提案に、男は怪訝そうにした。
「そう。私は帽子を拾ってもらったお礼で、あなたはハンカチを借りたお礼。いいでしょう?」
いいのか悪いのか、男にはよくわからない。更に困惑気な視線を投げかけられるが、ジュヌヴィエーヴには名案だと思えた。
「明日、今と同じ時間、ご都合悪いかしら?」
「明日は仕事がある」
「お忙しいのね。では、いつならご都合がよろしいの?」
ジュヌヴィエーヴは男に詰め寄り、矢継ぎ早に提案を投げかける。その様子に男は面食らったようで、多少たじろぎながらも「明々後日の金曜日なら」と答えてくれた。
「金曜日ね。わかったわ。午後の三時にここで会いましょう?」
「いや、それは……」
「駄目なの? じゃあ、四時? それとも二時がいい?」
「……三時でいい」
「決まりね!」
ジュヌヴィエーヴは微笑んで手を打つ。
男は完全に彼女に押されていた。約束を取りつけられてしまったことに眉を寄せているが、諦めたのか、少し疲れたような溜め息を零して頷いた。
「お名前を伺ってもよろしい? 私はジュヌヴィエーヴというの。ジュヌヴィエーヴ・ブイエ……じゃなくて、モンクレーヌ」
濡れているから被ることは出来ないな、と帽子を眺めてから、もう一度男を振り返る。名前を訊いていなかったことを思い出したのだ。
「……ギャレット・スターウェル」
少し躊躇いがちに零された名前の響きに、あら、とジュヌヴィエーヴは目を見開く。
「他所のお国の方だったのね。とても綺麗なフランス語だったから、気づかなかったわ」
「それはどうも」
男――ギャレットは僅かに表情を暗くした。
「失礼でなければ、どちらのお国の方か伺っても?」
異国の人間をまったく見たことがなかったわけでもないのだが、直接言葉を交わしたことはほとんどない。ほぼ初めての経験だった為、好奇心がとても刺激された。
ギャレットはジュヌヴィエーヴを見つめ返す。彼女の無邪気な表情からは悪意は感じられず、純粋な興味からの質問であるとわかった。
それでも、本国のことは口に出しにくい。この国とはほんの数年前まで戦争をしていたからだ。
ワーテルローで皇帝であったナポレオンを退けたギャレットの故国を、この国では未だに嫌っている者が多くあるのを知っている。
ギャレットは言いにくい気持ちを抱きながらも、これで嫌がり、再会の約束を反故にしてくれるのならば、それはそれでいい、と考えて「イングランドだ」と答えた。
「まあ。それじゃあ、海を越えていらしたのね。お仕事で?」
「あ、ああ……外交官をしている」
「外交官? では、他の国にも行ったことがあるのかしら?」
「そうだな。ロシアとか」
「まあ! それはとても素敵ね」
ジュヌヴィエーヴは満面の笑みを浮かべて手を打った。
「そういうお話をもっと聞きたいわ。金曜日にお会いするときに、少し聞かせてくださる?」
駄目かしら、と伺うように小首を傾げ、背の高いギャレットを上目遣いに見つめてくる。ギャレットはますます面食らった。
「いや、駄目ということはないが……」
「本当? 約束よ」
ジュヌヴィエーヴは心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべ、ギャレットの手を握り締めた。その行動にギャレットは更に困惑を深める。
更になにか言おうとしたジュヌヴィエーヴだったが、口を開きかけたところで顔を顰め、大きく溜め息をついて肩を落とした。
「もう行かなければならないみたい。残念だわ」
その様子に、連れの人間が捜しに来たのだろう、とギャレットは察する。
「……ご機嫌よう、ムッシュウ・スターウェル。また金曜日に」
悲しげな笑顔を浮かべて優雅な仕種でお辞儀をすると、ジュヌヴィエーヴは踵を返した。
「なんだったんだ、いったい……」
突然現れて勝手に約束事を取りつけ、なんとも強引でいて、それが嫌味には感じない不思議な少女だった。
残されたギャレットは、手の中に残る借りたハンカチを見つめ、こちらも溜め息を零した。
赴任してからひと月ほどが過ぎたところだったが、あまり出歩かないギャレットを不審がった同僚が、息抜きになるだろう、と散策に勧めてくれたのでこの庭園を訪れたのだが――まさかこのような事態になるとは露とも思っていなかった。
綺麗なレースのハンカチには、淡い水色の糸で刺繍がされていた。複雑な飾り書体だが、どうやらGという文字のようだ。彼女の頭文字だ。
「ジュヌヴィエーヴ、か……」
奇しくもその名前は、ギャレットの亡き妻と同じ名前だった。
三歳下の妻グィネヴィアとは家同士の決めた結婚だったが、とびきりの美人ではないが黒髪がよく似合う彼女を、ギャレットはそれなりに愛していた。
しかし、その妻との結婚生活は、彼女が年若い浮気相手と旅行中に事故で亡くなったことで、呆気なくも幕を閉じた。それ以来約二十年、仕事関係を除けば、親戚に対してすらも、ギャレットは酷く厭世的に生きてきた。
仕事以外のプライベートな関係で新しい知人が出来るのは、いったいいつ以来のことだろうか。少なくとも十年は昔のことのように思う。
唐突に取りつけられた再会の約束で困惑はしたが、ギャレットはこの出逢いを少し面白く感じ、何年か振りに心が弾むのを感じていた。
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