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13 女性会談
しおりを挟むギャレットは用事があって英国に一時帰国してしまうし、ジュヌヴィエーヴは仕方なく次兄アルフォンスの家へと身を寄せた。
アルフォンスの妻であるジュリエットは明るく社交的であるが、出しゃばり過ぎず、きちんと夫を立てるところもあり、父が「妻の鑑」と呼んでお気に入りなのだ。
そんなジュリエットの許で花嫁修業と称した行儀見習いをすると言えば、あの父にしては珍しく、特に疑うこともなく「きちんと躾けてもらうように」と快諾したのだった。
行儀見習いは建て前ではあるが、暇であるし、ジュヌヴィエーヴはジュリエットから女主人としての振る舞いについての教えを請うことにする。もちろんジュヌヴィエーヴが嫁ぐつもりでいるギャレットは英国の貴族なので、役所勤めをしている市民の家とは勝手が違うだろうが、家事の采配などは知っておいて損はない。
通いで家事をしてくれているルノー夫人と夕飯の下拵えをしながら、ジュヌヴィエーヴとジュリエット、たまたま遊びに来ていたジャン=ジャックの妻シャロンはお喋りに花を咲かせていた。
「お義父さんには悪いけどね、ジジがいい人見つけてよかったーって思うわ、私」
皮剥きを終えた芋を笊に放り込み、ジュリエットは笑う。そうよ、とシャロンも真面目な顔で同意した。
「だってさ、お義父さんの持って来る縁談って、うわーって感じのものばかりだったじゃない? でも私達が口出し出来る筈もないし、アントワーヌくんから聞いて、うわーって思うだけだったのよね」
ごめんね、と言われるけれど、そんなことはジュヌヴィエーヴだってわかっている。あの父に反抗的な態度を取ったってなにが変わるわけでもないし、父が決めたことならば余程のことがなければ曲がることはないし、口を出すだけ無駄なことなのだ。
本当に呆れるくらい傲慢な男だ。何故あんな男と、心優しいジョゼフィーヌが結婚することになったのだろう。
「ああ、それ? 借金らしいわよ」
「借金? ジョゼが、あの男にお金を?」
「そんなわけないじゃない。ご両親がよ。ねえ、ルノーさん?」
ジュリエットは流しを磨いていたルノー夫人に話を振る。彼女はジョゼフィーヌと同年代くらいなので、当時のことを知っているのだろう。
「バローさんのお宅が借金の形代に、法外な証文を取られたらしいっていうのは、あの頃すごい噂だったんですよ」
ジョゼフィーヌの実家は陶器を扱っていた古くからの商家で、経営が傾いていたということもなく、借金とは無縁な家だった。
では何故、あの父に借金をしたのだろうか。
「ジョゼフィーヌさんのお父さんっていうのが、とてもいい方――まあ、要はお人好しな方で、お知り合いの保証人になってしまったっていうことらしくて」
ルノー夫人は三十年以上昔の記憶を掘り起こしながら、大きく溜め息を零した。
とてもお人好しだったジョゼフィーヌの父親は、知人がしたという借金の保証人になったらしいのだが、その知人は借金を一切返すことなく蒸発してしまったのだという。しかも恐ろしいことに、サインをしたときには五千フランだった借金は、二ヶ月後には十万フランになっていたのだということだ。
あまりにも法外な利子に驚いて抗議をしたらしいのだが、借り入れの契約書にはしっかりそう記載してある、と主張され、ジョゼフィーヌの家は知人の代わりに十万フランの借金を背負うことになってしまった。
商売は順調で、そこそこ裕福な家ではあったが、十万フランなどという大金をポンと払えるほどには余裕がない。
すっかり困り果てたジョゼフィーヌ一家に、悪徳なピエール・モンクレーヌは「お嬢さんを嫁に頂ければチャラにして差し上げよう」と持ちかけたのだった。
ジョゼフィーヌは絶世の美女というわけではなかったが愛らしい顔立ちで、明るく愛嬌もあって評判の町娘だったという。そこに目をつけていたのではないかと思われる。
「母さんのときと変わらないじゃない」
ジュヌヴィエーヴは嫌悪感も顕わに呟き、選り分けていたローリエの葉を乱暴に籠へと叩きつけた。
まだ稚い少女だった母が父に手籠めにされたのも、大嫌いな伯父が作った借金の所為だった。それ以来、母も祖父母も苦労の連続だ。腹立たしい伯父は未だに放蕩の限りを尽くしている。
「それがお義父さんのやり口なのよ」
ジュリエットが嘆かわしげな口調で呟く。
高利貸しのピエール・モンクレーヌは、昔からいい噂など一切聞かない。よくない話ばかりだ。そんな家から縁談の申し入れが来て、ジュリエットはおおいに困惑したものだが、実際に会ったアルフォンスがとても好青年だったことと、彼が既に独立していることを聞き、結婚することを決めたのだ。
「ジョゼフィーヌさんも、マルティネスさんとの結婚が決まったところだったっていうのにねぇ……」
休憩の為にお茶の支度を始めながら、ルノー夫人は呟いた。
彼女が呟いた名前に、ジュヌヴィエーヴはハッと小さく息を飲む。
「あら。お義母さんにロマンスが?」
「そんなお話があったのね」
知らなかったらしい兄嫁達は、意外そうな顔をした。彼女達が知るジョゼフィーヌという女性は、物静かで、夫が愛人を何人も囲っていようとも、ただ黙って従っているような印象の人だった。きっと恋も知らずに、親同士の決めた結婚で嫁いで来たのだろうと思っていたのだが、どうやら違ったらしいということに、二人はほんのりと笑みを浮かべる。
ジュヌヴィエーヴは、ジョゼフィーヌの遺品の中から見つけた指輪のことを思い出していた。
(母さんも、ジョゼも、あの男に人生を歪められたんだわ)
好きになった相手との結婚が決まっていたジョゼフィーヌも、これから恋をするのであっただろう母も、父が欲しいと思った為に、本来得るべきだった未来を奪われた。改めて知ってみると、なんと酷いことか。
(そして、私も……)
父にとって女というものは、己の気持ちひとつで蹂躙していいもの、という認識なのだ。だから妻には貞淑で従順であることを求めるし、同じことを娘であるジュヌヴィエーヴにも求めている。
妻も娘も、男の所有物ではない。それなのに、まるで意思など存在しないモノのように扱う。本当に気分が悪い。
ジュヌヴィエーヴの表情が険しくなっていることに気づいたシャロンは、慌てて別の話題に変えようとするが、なにもいいものが思い浮かばず、ジュリエットの腕を小突いて注意を促す。すぐにその仕種の意味を解したジュリエットは、ぱんと手を打って立ち上がった。
「そ、うだった! 忘れていたわ、ジジ」
「はい?」
「あのね、お隣の奥さんから、梨を頂いていたのよ。今朝。好きでしょう?」
確かに梨は好きだが、なにをそんなにぎこちない口調で言うのだろうか、と人の言動の変化に敏感なジュヌヴィエーヴは思わず首を傾げる。
「夕飯の下拵えも終わったし、休憩にしましょ」
そう言って、はい、と梨とペティナイフを差し出す。この家に居候するようになってから、果物を剥くのは何故かジュヌヴィエーヴの仕事と決まっているのだ。
元々料理をするのは嫌いではないので、快く皮剥きを引き受ける。
「そういえば、ちょっと訊きたかったんだけど」
人数分のカップをテーブルに並べながら、シャロンがジュヌヴィエーヴを振り返る。
「ジジのいい人って、随分年上なんでしょう? 何処がよかったの?」
ジュリエットもシャロンも、自分の夫達やアントワーヌから話を聞いた程度で、ギャレット本人には会ったことがない。知っていることなど、父ぐらいの年齢の異国人で、ジュヌヴィエーヴが相当ご執心ということくらいだ。
ジュヌヴィエーヴは切り分けた梨を皿に盛りつけながら、あら、と笑みを見せる。
「お義姉さん達からそんな話を振られるとは思わなかったわ」
「そう? 女はいくつになっても、他人の色恋の話には飛びつくものよ。ねえ、ジュリエット?」
「そうよねぇ。若い子の恋のお話を聞くのは、楽しいわよね」
頷きながらルノー夫人を振り返ると、彼女も同意を示して頷いている。
あまりそういうことに興味のないジュヌヴィエーヴは、少し不思議な気分になりながらも、まあいいか、と頷いた。
「ギャレット様の大好きなところなんて、たくさんあるわ。まず、あの大きな手よ。お肉が厚いっていうのかしら。がっしりとしているのに柔らかくて、優しくて、温かくて、触れてもらうととてもホッとするの」
ジュヌヴィエーヴが一番初めにギャレットと出会ったとき、まずその手に目が行った。池に落ちてしまった大切な帽子を、丁寧に拾ってくれた何気ない仕種で、この人はとても優しい人だ、と認識した。
濃い栗色の少し太めの眉毛の下で、穏やかに細められる榛色の瞳も好きだ。見つめられると、胸の奥がキュンッと締めつけられてドキドキして、頬が火照る。
「それから声が素敵。お腹の奥に響くような低い声なんだけれど、優しく温かみがあって、フランス語の発音も綺麗なの」
しばらく聞いていないギャレットの声音を思い出しながら説明する。彼はいつも他人行儀に「お嬢さん」と呼ぶ。ちょっと困惑を含んだその声の優しい響きも好きだが、もっと好きなのは、ベッドの中で囁くように呼ばれるあの声だ。
あの夜のことを思い出し、ほう、と思わず溜め息が零れる。知らずうちに身体の奥にじんわりと熱が灯っていることが恥ずかしくて、ナイフを片付ける態で兄嫁達に背を向ける。
「一目惚れだったのね」
切り分けられた梨を口に運びながら、シャロンが重ねて尋ねる。
そうよ、とジュヌヴィエーヴは笑顔を向けた。
「私だってどうしてあんな年上の人に惹かれたのかわからないわ。でもね、あの人の声を聞いたとき、あの瞳に見つめられたとき、何故だか『この人と離れたくない』と思ったの。だからすぐに再会の約束を取りつけたわ」
あの瞬間にはまだ『好き』だという感情はなかったが、彼との繋がりを終えたいとは思わなかった。呆れられても構わないから、即座に名前を訊き、とにかくなにかしらの形で縁を繋ぎたかったのはよく覚えている。
「誰かを愛するって感情は、実はまだよくわからないわ。でも、彼に感じているこの気持ちは確かに愛だと思うし、私の中が彼で満たされたとき、ああ、こうなる為に、私はこの人と出会ったのだな――とはっきりと感じたの」
涙が溢れてしまうくらいに幸せで堪らなかった一夜を思い起こし、両目が潤む。あんなにも幸福を感じられた瞬間は、今まで一度としてなかった。
「え!? ちょ、ちょっと、待って!?」
義妹の惚気話をにこにこと聞いていたシャロンだったが、引っかかる言葉を耳にして、思わず声を上げる。
止められたジュヌヴィエーヴは、不思議そうに瞬いた。
「か、彼で満たされ――って、え? なに? まさか……!?」
シャロンの戸惑いを大きく含んだ声に、ジュリエットとルノー夫人もハッとした表情になり、まさか、と口許を押さえた。
兄嫁がいったいなにに驚いているのかわかったジュヌヴィエーヴは、呆れたように「なにをそんなに驚くのよ」と唇を尖らせる。
「だって、ジジ……あなた、まだ十六じゃない……」
「いいじゃない。あのアントワネット王妃だって、嫁がれたのは十四のときよ」
「それとこれとは違うわよ! あなたはまだ嫁入り前でしょ!」
顔を赤くして声を上げるジュリエットに、ジュヌヴィエーヴは頬を膨らませた。
「いいのよ。これくらいしないと、私のことお嫁にもらってくれないんだもの、あの人」
ギャレットは優しい。付き纏っていたジュヌヴィエーヴを迷惑に思っていても邪険にしない様子からも、その性格が窺い知れる。
「自分からぐいぐい行かないと、駄目な場合もあるのよ」
そう言ってジュヌヴィエーヴは拳を握り締める。
本音をいうと、まだ少し不安なところがある。押して押して押し切ったので、抱いてくれたようなものだ。ギャレットが結婚してくれるかどうかというと、少し迷っている部分が見受けられる。国籍や年齢差のこともあるのだろう。
そういった諸々の話の根回しもしてくると言って、所用もあり、ひと月程前に帰国した。あと数日で戻って来るとは思うのだが、しばらく会えていないのでなんとなく不安を感じている。自分らしくないと感じる弱気だが、相手があの押しに弱いギャレットなので、こんな気分になっても仕方がない。
早く戻って来ないかしら、と思いながら、淹れてもらったお茶を啜る。
そんな義妹の様子を呆気に取られながら見ていた兄嫁達は、どちらからともなく苦笑した。
「……まあ、あなたが幸せならそれでいいわ」
ジュリエットの言葉にシャロンも頷く。
「そうよね。後腐れなくモンクレーヌのお家を逃げ出す為には、恥とか外聞とか構ってられないわよね」
躊躇しても、ちょっとした弱味を見せても、あのピエール・モンクレーヌはそこを攻めて来るに決まっている。そういう狡猾な男だということは、二人もよく知っていた。
そうよ、とジュヌヴィエーヴは頷く。
「私はギャレット様と一緒になりたいの。既成事実まで作ったんだから、そう簡単に連れ戻されたりはしないわよ」
ジュヌヴィエーヴの決意は固い。
もちろんあの父がそう簡単に見逃してくれるとは思っていない。
だからこそ、今のなにもして来ない状況が、なにか裏があるような気がして、少々不安を感じるものであるのは否めなかった。
応援ありがとうございます!
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お久しぶりです^^
ずーっとお待ちしていますがこの続きはないのでしょうか???
すっごく前から気になっているのですが????。
出来れば続きを読みたいです^^
申し訳ないですm(__)m
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もうちょっと落ち着いたらまた更新しますので、年明けあたり目処にお待ち頂けますと幸いです。