婚約破棄の、その後は

冬野月子

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7.兄

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暖かな木漏れ日と、心地の良い鳥の声。
テラスに出したテーブルの上には素朴だけれど美味しい焼き菓子と香りの良いお茶。
そして隣に座り、優しい笑顔で自分を見つめる見目麗しい青年。

(眼福だなあ)
ナッツの香りが香ばしいお菓子をむぐむくと咀嚼しながらルーチェは思った。

「付いているよ」
くすりと笑って、青年は手を伸ばすと指先でルーチェの唇のすぐ横に触れる。
付いた菓子の屑を取ると、ルーチェを見つめたままそれを赤い舌でぺろりと舐めた。

(くっ…見た目だけじゃなくて行動まで甘いなんて…!)
絶対に恋に落ちてもおかしくないシチュエーションなのに。
どうして…この人は自分と血を分けた、兄弟なんだろう。



今から三ヶ月ほど前。
目覚めたルーチェは全身の倦怠感と熱さを感じていた。
見えるのは見知らぬ天井。
白いシンプルな部屋で、かすかに薬の匂いがする。

(病院…?)

トラックがこちらに向かってきていた記憶がある。
あのままはねられて…助かったのだろうか。

けれど、その後分かった事は〝ひかり〟の全く想像だに出来ない事だった。

自分をお嬢様と呼ぶ、知らない人達。
鏡に映る顔は自分とは全く違う———知らない筈なのに、どこかで見たような気がする、とても綺麗な白人女性で。
〝ルーチェ〟というのが自分の名前のようだった。

どうやら長瀬ひかりという人間は死んで、このルーチェという、貴族の女性に生まれ変わったようだった。
前世とは違いすぎる言葉や文明の発展具合から、よくネット小説で読んでいた異世界転生というものをやったらしいと推測した。

ここは療養所で、自分は高熱を出して三日間も眠り続けていたらしい。
けれど熱を出す前の記憶は全く思い出せなかった。

(だけどこの顔…ルーチェって名前…何か覚えがあるのよね)

それが分かったのは、目覚めて一ヶ月ほど経った頃だった。
ルーチェの双子の兄だという青年ルキーノが現れた。
彼の顔を見、その名前を聞いて———ここが前世で遊んだ乙女ゲームの世界で、自分は悪役令嬢だと気づいたのだ。


だが今は、全て終わった後だった。
ゲームのハッピーエンド通りにルーチェは婚約破棄され、難聴や目眩など色々な症状があり身体も心もボロボロに傷ついたため隣国のこの療養所に連れてこられたのだが、そこで高熱を出して記憶を無くしたのだという。
医者の話では、今までの心労と移動の疲れが溜まったせいで熱が出て、さらに自身を守るために辛い過去を忘れようと記憶を失ったかもしれないとの事だった。

(ルーチェって…そんなにデリケートなキャラだったっけ)
ゲームでのルーチェはプライドが高く、決して諦めることをしない、自信に満ちた女性だった。
それがストレスで身体を壊すとは。
確かにゲームでのルーチェも病んで領地の片隅に押し込められてしまったが、あれは嫉妬による怒りが激しすぎて心が壊れてしまったせいだ。
今のルーチェの状況とは違う。

侍女やルキーノからルーチェの話を聞く限り、彼女の性格はゲームのルーチェではなく〝ひかり〟に近く、どうやら自分は生まれた時からルーチェとして生きていたらしい。
それがルーチェとしての記憶を失い、前世のひかりの記憶だけが残っているようだった。


それも衝撃だったのだが、ルキーノから聞いた〝その後〟の話も驚きだった。
婚約破棄後、まるで憑き物が落ちたかのようにヒロインを取り巻いていた王子達は彼女への興味を失ったという。
そしてルーチェへ婚約破棄を言い渡した王子エルネストはそれを深く悔い、今でもルーチェの事を想い続けているという。

(エルネスト王子…)
ゲームで見た、美しい青年のイラストを思い出す。
———ルーチェが身体を壊し、記憶を無くしてしまうほど好きだったという彼は、実際はどんな人だったのだろう。

ヒロインが現れるまで、王子とルーチェは相思相愛だったという。
それがヒロインが現れた事で呆気なくその関係は壊れてしまったのだと。

ヒロインであるアンジェリカの言葉を聞く限り、彼女もまたこの世界へ転生した者なのだろう。
そしてゲーム通りに王子を攻略したものの、何故かその後失敗したようだ。

(いわゆるゲームの強制力というやつ?そしてゲームが終わった途端にそれが消えたとか…?)
考えてみてもこの療養所に来る前の記憶がないルーチェには分からなかった。



「ルーチェ?大丈夫?気分が悪い?」
ぼんやりと考え事をしていたルーチェの顔を、ルキーノが覗き込んだ。

「あ…いえ、大丈夫よ」
「顔が暗いけど、何か困ってる?」
「いいえ…」
真近で顔を覗き込まれて、思わず離れようとするとルキーノは悲しげな顔になった。

「俺の事、まだ慣れない?」
「え…そういう訳では…」
前世のひかりは男性経験があまりない。
だから兄とはいえ、男性がすぐ側にいると緊張してしまうのだ。

「今は記憶がないから他人行儀になるのは仕方ないけど…早く俺に慣れてね」
そう言うと、ルキーノはルーチェの肩に手を回して抱き寄せ、頭にキスを落とした。

(———いや、慣れるって…兄妹でこんな事はしないでしょ?!)
パニックになって再び離れようとするルーチェをルキーノは強く抱きしめる。
「ルーチェ…記憶がなくても。君は俺の大事な妹だから」
甘い声が左耳で囁く。

ルキーノはとにかくルーチェに優しい。
優しいの度を越して、まるで恋人に接するようにやたら甘くなる事も多々ある。
ゲームの中でのルキーノはお色気担当キャラで、甘々なセリフやシーンが多かったけれど。
———あれはヒロインにするべきであって、双子の妹への態度ではないはずだ。

(そもそもゲームのルキーノはルーチェとは仲が悪かったはずだけど…)
ルーチェの性格が変わってしまったために、ルキーノとの関係も変わってしまったのだろうか。
それとも体調を悪くし、記憶をなくしたルーチェが心配でこういう態度になったのかと思ったが、侍女のサラに聞くと昔からこうだったらしい。
何でももう一人いる兄と、二人して妹のルーチェを溺愛しておりそれは社交界でも有名だったとか。
そして今ルーチェを独り占めできるのが嬉しいのでしょう、と。

(だからってこんな美形に密着されて…慣れる訳ないじゃない)

抱きしめたルーチェを手放そうとせず、嬉しそうに頭に頬をすり寄せるルキーノにルーチェは心の中でそっとため息をついた。
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