真説・岳飛伝

来里間 充

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真説・岳飛伝(上)

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 時は1126年の中原、宋朝の都開封を陥落させた金朝は、宋朝の皇族の娘と官女ら約一万人の女達を捕虜とした。
 いわゆる〝靖康の変〟である。
 超大国・宋の後宮で何不自由のない生活を送っていた彼女たちを待ち受けていたのは、死よりも過酷な運命だった。
 ──〝洗衣院〟──
 そう名付けられた金朝の〝公〟の売春施設で、彼女達は媚婦として、異民族の男たちに性的奉仕を強要されたのだ。彼女たちは年齢と容姿、そして身分に応じて値段を付けられ、まだその年齢に達していない少女たちは洗衣院内で養育され、一定の年齢に達するとわずかな対価と引き換えに、客を取らされたという。
 その苛烈な支配を行った金朝に対し、本邦作家の司馬遼太郎氏は「記録好きの中国人でさえも、歴史から抹消したいと思うほどの王朝」と述べている。
 彼女らを憂い、立ち上がった一人の英雄がいた。
 後に、三国志の関羽と並び軍神として祀られることになる男。
 その名は
 ──〝岳飛〟──



 ある日、屋敷に岳比がやってきたとの知らせを使用人から聞いた李孝娥は、大慌てで簡単な化粧をして、応接間へと向かった。
「すまないが、相談がある」
 応接間にいた岳比は李孝娥の姿をみるなり、そういって頭を下げた。有力な富農に生まれ、若きの頃よりその優れた武芸で軍でも活躍し、今年二十五歳になる岳比の体格は恵まれたものだった。彼の背には、烈女であると知られる母親によって〝尽忠報国〟の四文字の刺青が彫られているという。
 威圧感すらある身体。だが苦渋に満ちたその表情のせいか、今日は少し小さく感じた。見れば右腕には包帯を巻いていた。それを見た李孝娥は、心が締め付けられるような痛みをそっと堪えた。
「どういった内容でしょうか?」
 平静を装いながらも、李孝娥は茶を勧める。この男の事は幼い頃より知っている家公認の関係だったが、自分に頼みごとをするなど初めてだった。
「俺が義勇兵を集め、鍛錬しているのは知っているだろう?」
「はい。存じております」
 国と洗衣院で過酷な運命にある皇女達を憂い、岳比は私財を投じて義勇兵を集めていた。そして連日、けが人が出るほどの厳しい訓練に励んでいるという。
「だが金朝の軍は強く、先日、先遣隊と戦闘になったが、敗れてしまった」
「……それも、存じております」
 岳比が負傷したと聞いたときは、いてもたってもいられなかったものだ。
「このままでは勝てないと思った俺は、歴泉洞の内部に古の軍神関羽の祠が打ち捨てられているという噂を聞き、藁にも縋る気持ちで祠を見つけだして修復した。そして『力を授かりたい』と祈願した」
 黙って聞く李孝娥。この男が神頼みんなど、よほど追い詰められていたに違いない。
「するとその夜、枕元に美しい髭を生やした男が現れた。そして俺が名を尋ねると、関羽公であると名乗られた。そして『山の麓にいる義弟張飛を倒せば、望む力を授けよう』と、告げられた。俺は翌日指定された山の麓に行くと、そこには関羽公が告げた通り、蛇矛を持った虎髭の大男がいた」
「はい」
「張飛と名乗ったその大男に俺は戦いを挑んだ。だがまるで歯が立たず、返り討ちにあってしまった。あんな強い男は、今まで想像すらしたことがない。次に手勢を引き連れて挑んだが、『長坂橋で100万の曹操軍を退けた俺を、馬鹿にしているのか!?』と散々に蹴散らされてしまった」
「……はい」
(右腕の包帯は、その時ついた傷か)
 李孝娥は心の内で小さくため息をついた。
「そこで兵たちが『知恵者と名高い李孝娥様に策を授かってはどうでしょう?』と進言してきたので、こうして恥をしのんで参った」
「そういうことでございましたか」
 李孝娥は今日初めてまっすぐに岳比を見つめた。猛獣を人間にしたような、相変わらず猛々しい顔だ。この男が負けたのであれば、通常の方法では勝つことは難しいだろう。
「承知いたしました。相手が蜀の張飛将軍というのなら、私に策がございます、お任せください」
「──こんな与太話を、信じてくれるのか!?」
 あっさり快諾した李孝娥に対し、驚きの声を上げる岳比。
「もちろんです、私と岳比様の仲でございますから」
(……どんな仲だというのか)
 と内心で自問しながらも、李孝娥は驚く岳比の姿を脳裏に焼き付けるようにみつめながら、精一杯の微笑みを浮かべた。

 岳比を帰すと、李孝娥はすぐさま準備に取り掛かった。使用人に強い美酒を壺ごと買いに行かせ、料理人にはとびきりの馳走を準備させた。そして自身は化粧室の鏡の前に腰掛け、まとめられていた髪を解く。
 鏡の向こうには、見慣れた自分の顔が見える。透き通るようなきめの細かい白い肌。それは肌の弱い李孝娥に対し、父が日の光にやけぬよう、できるだけ屋敷の中にいるようにさせてくれたおかげであった。母譲りの絹のように艷やかで美しい黒髪も、幼き頃より母が櫛を入れ、長い時間をかけて毎日手入れしてくれた賜物であった。
(この肌も髪も、あの方は一度も褒めてくれなかった)
 そんなことを考えながらも李孝娥は丁寧に髪を結い直し、そして入念に化粧をし、最も華美な衣服に着替えた。
(ご先祖様、お父様、お母様、行ってまいります)
 すべての準備が整うと、屋敷内の祖廟に向かって深く頭を下げ、最後の挨拶を済ます。
 そして馬車と従者数名を連れ、山の麓へと向かった。途中にある農民の家を買い取り、そこに従者に祝宴の準備をさせると、李孝娥は一人で山の麓へと向かう。
 すでに陽は暮れかかっていた。世界が赤く染まると思えるほどの、濃く美しい夕日だった。
 麓にかかった小川の橋、その上に蛇のように曲がりくねった矛を持ち、馬にまたがった武人が鎮座していた。
 雄大な背丈は岳比と同じくらいか。しかし放出される殺気は、彼とは比べ物にならない。女である自分の姿を見ても、殺気にわずかな変化すらなかった。李孝娥は改めて、敵の強大さを知った。
「お前は何者だ?」
「近くの里に住む李孝娥と申します。張飛将軍でお間違いないでしょうか?」
「ああ」
「里長の命で、高名なる将軍を歓待するよう承りました。祝宴の準備をしております。どうか、お越しくださいませ」
 李孝娥は目を伏せ丁寧にお辞儀をする。張飛はわずかに考えた後、
「──おもしろい。行ってやろう」
 と答えた。
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