真説・岳飛伝

来里間 充

文字の大きさ
2 / 2

真説・岳飛伝(下)

しおりを挟む
「粗末なところで申し訳ありません」
 李孝娥は農家の家の中に張飛を案内する。既に陽は暮れていた。元はただの農民の家ではあったが、屋敷から持ってきた敷物と机のおかげで、それなりの体をなしていた。机の上には豪華な料理が並んでいる。
「お前ひとりなのか?」
「はい。私がお酌いたします」
 従者たちは準備ができ次第屋敷に帰るように命じていたので、ここには張飛と李孝娥しかいない。この国では男女の関係には厳しく、『男女七歳にして席を同じうせず』と言う。同じ部屋で二人きりになることが許されるのは、親族か、せいぜい許婚者の男女だけだった。
「ご懸念には及びません。私は遊女にございますから」
 李孝娥は口元を袖で隠しながら、できるだけ熱っぽい瞳で張飛をみつめる。儒学の教えから外れた存在である遊女だけは、その例外とされていた。
「ふむ」
 張飛は無表情のままうなずく。目の前の酒と料理に舌なめずりしているのか、それとも李孝娥の身体に関心を持ったのか、その表情からはわからなかった。

「ささ、どうぞご一献」
 張飛を主座に座らせると、その側にはべり李孝娥は酒を注ぐ。
「うん、いい酒だ」
「ありがとうございます」
 上機嫌で酒を飲む張飛。やはり無類の酒好きという伝承は、本当の様だった。
「鎧もお脱ぎになってはどうですか?」
「ふむ、そうだな」
 酒で顔が火照った張飛は、その場に鎧を脱ぎ捨てる。李孝娥は鎧を丁寧に集めると、矛と一緒に部屋の端に置く。
「ささ、もっと召し上がってください。ご武譚も聞きとうございます」
 李孝娥は大きめの盃を取り出すと、並々と酒を注いで張飛に勧める。張飛は自らの昔の武勇を語りながら、盃の酒を次々と平らげていく。瞬く間になくなっていく壺の酒。まさにザルとは、こういう男のことをいうのだろう。それでも人である以上、限界があるはずだった。
「……ふう、こんなに気持ちよく酔えたのは、久方ぶりだ」
 ついに顔を真っ赤にした張飛は、そのままゴロンと横になると、寝息をたて始めた。
 その姿を念入りに確認した李孝娥は、席を立って張飛の獲物である蛇矛を両手で握りしめた。
 まるで柱のように重い矛、とても振り回せるものではない。だが全身で突くだけなら、何とかなりそうだ。
 意を決した李孝娥が蛇矛を持ち上げると、鎧を脱いで無防備な張飛の身体に対して構えをとる。
 両腕両足が震え、全身に汗が噴き出す。殺人どころか、矛を人に向けることすら、初めてだった。寝ている張飛相手とは言え、まるで蛇ににらまれた蛙の様に、全身が硬直する。
「──ぐおおおおおっ……」
 張飛がひときわ大きな寝息を立てた音を聞いた瞬間、
(南無三!!)
 と心の中の掛け声とともに、張飛の心の臓めがけて蛇矛を繰りだした。
 〝ドン〟という確かな手ごたえと共に、矛先が止まる。
 だが驚くべきことに、蛇矛の刃先は張飛の心臓どころか、肉すら切ることなく手前で止まっていた。
「──女、見くびったな? 俺は酒は好きだが、弱くはない」
 蛇矛の刃先を右手で抑えながら、張飛が不敵な笑みを浮かべる。
「……張飛将軍の酒での失敗談は、偽りでしたか」
 彼は酒の上でも豪傑だった。おそらく義兄弟の末弟にあたる彼は、汚れ役を引き受けていたのだろう。それを後世の人々が面白おかしく着色したに違いなかった。
「手を離せ、女。お前では俺には勝てん。命は取らぬし、乱暴もせん」
「はっ、離しません」
 ──このまま死にたいか?──
 張飛の瞳が、李孝娥を見据える。目が合っただけで殺されそうな、底知れぬ光を秘めた瞳だった。
 暗い谷の底に突き落とされるような感覚。李孝娥は生まれて初めて真の恐怖というものを知った。これが一騎当千と謳われた、猛将張飛か。
「くっ……」
 散り去りそうな意識を振り絞って、李孝娥は巨獣のような張飛の目を見つめ返す。 
「これはあの男の差し金か? ならば畜生にも劣る外道の策。これから叩き斬りに行く」
 張飛の言葉が、李孝娥の意を決しさせた。
 膠着した体が再び動く。李孝娥は机の上の蝋燭を素早く奪い取ると、
 ──岳比様──
 と心内で彼の名前を呼びながら、床に向かってたたきつけるように、放り投げた。
 だが蝋燭は床に衝突する寸前のところで、張飛が繰り出した右手の掌によって阻まれる。肉が焼ける、嫌な音がした。
「──阿呆が、死にたいのか!?」 
 張飛が叱りつけてくる。右手を離したため、みれば蛇矛の先端が、張飛の胸の肉に食い込んでいた。強固な胸の肉によって、心の臓までは届いていないようだが、李孝娥の手には張飛の血が滴り落ちていた。初めて人間の肉を斬ったが、それはとても嫌な感覚だった。
「床から油と火薬のにおいがするので何を考えているかと思えば、まさか自分もろとも爆死する覚悟だったとはな」
 再び体が動かなくなった李孝娥の姿を横目に、張飛はゆっくりと蛇矛と蝋燭を机の上に置いた。胸と掌に傷を負っているはずだが、この程度の傷は、怪我の内にも入らないらしい。
「命を失う覚悟で、俺を殺しに来たか。お前の覚悟も立ち振舞いも、厳しくしつけられた高貴な家の女のものだ。遊女というのは、嘘だな?」
 鋭い瞳で李孝娥を覗き込む張飛。
「お前はあの男の、何だ?」
 張飛の質問は、最も核心を突くものだった。そのため李孝娥は再び言葉を失う。自分は岳比の、いったい何なのだろう。
「あの男の瞳は、慕う女のために命を懸ける男のものだ。その対象は、誰だ?」
 らちが明かぬと考えたのか、問いを変える張飛。だがその質問もまた、核心をつくものだった。
「答えろ! でなければ今度こそあの男を叩き切る」
 虚言は許さぬという張飛の射るような瞳に、李孝娥はついに観念した。
「……岳比様は昔、開封にて宦官の姦計により処刑されそうになったことがございました。その折に、皇女様に命を助けていただいたことがあります。それ以来、そのお心は常に、皇女様のもとにあります」
 そして皇女は今も洗衣院にて、過酷な日々を過ごしているはずだった。
「そうか。だがお前もまた、慕う者のために命を懸ける瞳をしている。どういうことだ?」
「……私はあの方の、許婚(いいなずけ)でございます」
「ふむ」
「……しかし所詮は家同士が決めた間柄。岳比様の心は皇女様の元にあり……私はニセの、偽りの妻にすぎません」
 改めて事実を言葉にすると、どうしようもなく熱く切ない感情がこみ上げてきた。
「それで命をもって、あの男のために殉じようと思ったか」
 既に殺気はなく、呆れるようにつぶやく張飛。胸からこみ上げてきた熱いものによって、張飛の姿が歪む。
 そうだ、叶わぬ思いなら、自分はここで岳比のために殉じたかった。その事実を改めて認めると、熱いものはいつしか大粒の涙となって零れ落ちていた。
「これで涙を拭け。せっかく美しく化粧をしたのに、台無しではないか」
 張飛が懐から布を取り出す。それはこの武人が持つには不釣り合いな上質で綺麗な布だった。
 李孝娥は言われるがままに、顔をぬぐい、涙をふく。
「──いいか、よく聞け李孝娥」
 張飛は両手で力強く李孝娥の肩を叩きながら、雷鳴のような声で怒鳴りつけてきた。
「我らは義兄弟。だが実の兄弟よりも強い絆で結ばれている。お前も偽の妻と恥じるな! 義の妻であると誇れ! さすれば、いつかその絆は真の妻すら超えよう。所詮偽りだと非難する輩は、俺が夢枕にたち、その首をねじ切ってやる!」
 熱く激しい言葉が、稲妻のように李孝娥の全身を駆け巡った。
「……まこと、張飛将軍は義の〝侠〟にございますね」
 李孝娥は涙すら忘れ、そんな言葉を絞りしていた。唇だけが、わずかに緩んだ。
 義に厚く、婦女子を守る。張飛は李孝娥が想像していた通りの義侠であった。
 張飛はバツが悪そうに「ふん」と目をそらす。見れは頬は少し赤い。猛獣のようにみえたこの男が、顔だけは少年のように照れているのだ。
「むう、兄者も女には甘いな」
 いずこから現れたのであろうか。目の前には勇壮な駿馬がいた。驚くべきことに、その身体も鬣(タテガミ)も、炎のように真っ赤だった。
「まさか、伝説の赤兎馬でございますか?」
「俺からは、これをやろう」
 張飛は蛇矛を差し出す。
「兄者の加護はやれんが、代わりに俺の加護を授けよう。あいつには俺の一字を与え、〝岳比〟ではなく〝岳飛〟と名乗らせろ」
「──張飛将軍の加護を!?」
「そのうえで、赤兎と蛇矛を自在に使いこなせるまで、徹底して鍛錬を積むように伝えよ。あいつならきっと、俺達くらいには強くなれる」
「ありがとうございます。このご恩は、生涯わすれません」
 深々と頭を下げる李孝娥。
「……お前にも特別に、餞別をやろう」
 張飛は懐から巻物を取り出した。
「昔、軍師殿が俺宛に作ってくれた兵法の虎の巻だ。これを得てからは、俺の軍は連戦連勝だった」
 張飛が懐から取り出した巻物に、李孝娥は思わず目を見開く。
「劉備軍の軍師!? それはつまり──」
 李孝娥が驚き顔を上げた時には、既に張飛の姿はなく、その場には赤兎馬と蛇矛、そして巻物だけが残されていた。

 伝承によれば、岳飛はとある山で大蛇を撃ち、武具を授かったとされる。そして後に諸葛孔明の兵法を授かったと言われている。
 数年後、金朝への北伐のため挙兵した岳飛。赤き駿馬にまたがり蛇鉾を操る彼の隣には、男装し甲冑を身に着けた李孝娥の姿もあった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

熟女教師に何度も迫られて…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
二度と味わえない体験をした実話中心のショート・ショート集です

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...