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第8章・バラの花
#1
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壁がある。
それはたぶん、ずっと前から気づいていた。
自分とこの男との間にある、目には見えない壁だった。
ガラスの様に透明な壁で、その向こうにいる相手に触れようとすると、直前までは手が届くのに、指先寸前でいつも遮断された。
時が経つ毎にその壁は低くなっていったが、ふと気づけばいつのまにか、壁は以前よりも高くそびえ立っていた。
しかも、今の壁には透明度はなく、まるですりガラス越しに覗くようにしか相手の姿を見ることが出来ない。
一体いつから、こんなに高く険しい壁になってしまったんだろう――
ホテルを移動してからというもの、江戸川とはあまり口を利かなくなった。
以前なら、退屈だからどこかへ行こうと気軽に催促できたのに、今は何も言えない。
自分達が、何か良からぬことに巻き込まれているのではないか――という事も、漠然とだが感じていた。
でもその詳しい経緯を、江戸川に問う事が出来なかった。
話しかけるのが怖い……
なぜ、そう思うのだろう。
善人面した悪人なんて、この世には大勢いる――と江戸川が言った時、なぜ自分はあんなことを言ったのか。
『じゃあお前もその1人か?』
あの時の江戸川の顔は、今でも忘れられない。
思いがけない事を言われ、いつになく驚いていた。ギョッとしたように目を剥いて――次の瞬間には平然としていたけれど……
でもあの時の江戸川の暗い眼差しを思い出すと、唯人はなぜか胸が痛んだ。
部屋の書き物机で、何か調べ物をしている江戸川を、唯人はベッドに横になったままジッと見ていた。
その視線に気づいた江戸川が、顔を上げてこっちを見た。
(あれは暗闇の穴だ……)
その目を始めて見た時から、唯人はそう思っていた。
どういう経緯か知らないが、父に連れられてうちに来た時、江戸川はまだ年若い青年だったが、感情のない暗い目をした男だと思った。
暗い、洞窟の奥を見るような目。あの黒い双眸に、でも唯人は恐れより、むしろ深い悲しみを感じたのだ。
あなたはどうして、いつもそんなに悲しい目をするの――?
「どうしました?」
ふいに江戸川がそう聞くので、唯人は「なにが?」と首を傾げた。
「じーっと見て……私の顔に何かついてますか?」
唯人は少し間を置いてから、小さく頷いて言った。
「うん。ついてる」
「?」
「目がついてる」
「目?」
「鼻もついてる。口も」
「――」
江戸川は戸惑った顔をした。それを見て唯人は小さく笑うと、「冗談だよ」と言った。
「ちょっとからかってみたくなっただけ」
唯人はそう言うと、「おやすみ」と言って背を向けた。
布団を被りきつく目を閉じる。
江戸川は、何か言いたげにその様子を眺めていたが、やがて小さなため息を漏らすと、手元の明かりだけ残して、他の明かりを全て落とした。
それはたぶん、ずっと前から気づいていた。
自分とこの男との間にある、目には見えない壁だった。
ガラスの様に透明な壁で、その向こうにいる相手に触れようとすると、直前までは手が届くのに、指先寸前でいつも遮断された。
時が経つ毎にその壁は低くなっていったが、ふと気づけばいつのまにか、壁は以前よりも高くそびえ立っていた。
しかも、今の壁には透明度はなく、まるですりガラス越しに覗くようにしか相手の姿を見ることが出来ない。
一体いつから、こんなに高く険しい壁になってしまったんだろう――
ホテルを移動してからというもの、江戸川とはあまり口を利かなくなった。
以前なら、退屈だからどこかへ行こうと気軽に催促できたのに、今は何も言えない。
自分達が、何か良からぬことに巻き込まれているのではないか――という事も、漠然とだが感じていた。
でもその詳しい経緯を、江戸川に問う事が出来なかった。
話しかけるのが怖い……
なぜ、そう思うのだろう。
善人面した悪人なんて、この世には大勢いる――と江戸川が言った時、なぜ自分はあんなことを言ったのか。
『じゃあお前もその1人か?』
あの時の江戸川の顔は、今でも忘れられない。
思いがけない事を言われ、いつになく驚いていた。ギョッとしたように目を剥いて――次の瞬間には平然としていたけれど……
でもあの時の江戸川の暗い眼差しを思い出すと、唯人はなぜか胸が痛んだ。
部屋の書き物机で、何か調べ物をしている江戸川を、唯人はベッドに横になったままジッと見ていた。
その視線に気づいた江戸川が、顔を上げてこっちを見た。
(あれは暗闇の穴だ……)
その目を始めて見た時から、唯人はそう思っていた。
どういう経緯か知らないが、父に連れられてうちに来た時、江戸川はまだ年若い青年だったが、感情のない暗い目をした男だと思った。
暗い、洞窟の奥を見るような目。あの黒い双眸に、でも唯人は恐れより、むしろ深い悲しみを感じたのだ。
あなたはどうして、いつもそんなに悲しい目をするの――?
「どうしました?」
ふいに江戸川がそう聞くので、唯人は「なにが?」と首を傾げた。
「じーっと見て……私の顔に何かついてますか?」
唯人は少し間を置いてから、小さく頷いて言った。
「うん。ついてる」
「?」
「目がついてる」
「目?」
「鼻もついてる。口も」
「――」
江戸川は戸惑った顔をした。それを見て唯人は小さく笑うと、「冗談だよ」と言った。
「ちょっとからかってみたくなっただけ」
唯人はそう言うと、「おやすみ」と言って背を向けた。
布団を被りきつく目を閉じる。
江戸川は、何か言いたげにその様子を眺めていたが、やがて小さなため息を漏らすと、手元の明かりだけ残して、他の明かりを全て落とした。
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