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しおりを挟む鬱蒼とした森の中に佇む病院へは、由宇が眠くなり始める前に到着して、ここもきっとお留守番なのだろうと思ったのだが橘は「お前も一緒に来い」と言ってくれた。
訳が分からないまま、紙袋を持った橘が婚約者と由宇を連れて院内へと入って行く。
すでに半年も前から面会に来ているとだけあって、この時間でもほぼ顔パスだった。
精神病患者が多くいる此処は、小さな叫び声や独り言を話す声、走り回る足音などがどこからともなく聞こえて異様な雰囲気だ。
綺麗な婚約者と由宇は、とあるこじんまりとした部屋の前で橘に倣って一旦歩を止めた。
「こっから中の声聞こえるから、黙って聞いてろ。 歌音(かのん)、外周三方向に仲間いっから逃げても無駄だからな」
「……はい……」
橘はそれだけ言うと中に入って行った。
小さな窓枠をそっと開けてみると、中はそんなに窺えないが声はハッキリと聞こえる。
(状況的に仕方ないのかもしれないけど、俺と婚約者さんを二人きりにするなよ~!)
気まずいったらない。
無理やり愛する人と引き裂かれた悲劇のヒロインのような面で隣にしょんぼり居られては、由宇の気もそぞろである。
怜のために何かしてあげたい、由宇がそう橘に言ったからここへは連れて来てくれたのかもしれないが、気まずいものは気まずい。
「ども」と話し掛けられる雰囲気ではないし、さっきのいけしゃあしゃあな会話を聞いてしまった身としては、話もしたくないというのが正直な気持ちだ。
この人が橘の婚約者かぁ、と納得するほどの美人にも関わらず、敵と見なしているので情すら湧かない。
「……あら、橘くん。 いつも悪いわね」
「こんにちは。 園田さんの好きな桃ゼリー。 これ期間限定なのかと思ってたら違った」
「ふふ、美味しいのよね、これ。 ありがとう、頂くね」
ガサガサと紙袋の音がしての会話に、あれは母親への見舞いの品だったらしい事が分かる。
耳を澄まして婚約者と立ち聞きしていると、思ったより普通に会話をしている事に驚きながらも、親しそうな二人がどんな関係なのかとまた疑問が生まれてしまった。
(橘くん、くんって言ったよな?)
そもそもこんな事態を招いたのが婚約者だからと、橘が躍起になっている理由もまだ知らない。
お見舞いに来るような関係性、という事なのだろうか。
「……それでな、本題なんだけど。 園田さんは復縁望んでるか?」
「……もちろん」
「それは息子を思って? それとも女としての園田さんの気持ち?」
「……分かるでしょう。 私達を裏切るような…こんな事になってしまったあの女と早く別れさせたいからよ」
「分かった。 ……それが園田さんの気持ちな」
「怜は元気にしているの? ちっとも顔見せに来てくれないから心配だわ」
「元気だよ、体はな。 園田さんに会いに来れねぇのも心の問題じゃねーの。 ……俺は説得じみた事はしねーからな。 ただあんたの力になりたいだけで」
「そう……怜も苦しんでいるわよね……当然よ。 あの女のせいだもの。 何もかも。 私から夫を奪って、息子とも離れ離れになった私の気持ち、……どうしてくれるの!!」
興奮した母親が勢いよく立ち上がったのか、椅子の倒れる音と女性看護師の落ち着きを促す声がした。
「園田さん、落ち着いてっ」
ド直球な質問をした橘にヒヤヒヤしていたが、心穏やかではいられない母親の動揺ぶりを聞く限り、どうしようもない怒りを自身ではまだ制御出来ないようだ。
当たり前だった。
ここは精神を病む者が入院する病棟で、やすやすと心の傷を抉る事は相当にハイリスクだ。
先程とは違う人物かのように、母親は怒りを顕にしていた。
荒い息遣いが聞こえる。
椅子を引く音がして橘が立ち上がったのだと分かると、由宇はその存在をすっかり忘れていた隣の美人をソッと伺った。
橘と対面しているのが、現在不倫中の妻にあたる人物だと察しているようで、呆然と床を見詰めている。
「園田さん、また来っから。 しっかり食ってしっかり寝ろ。 眠れねーならまた眠剤増やしてもらえ」
「……はぁ、はぁ、……分かったわ」
ほんの数分前は「ありがとう」と上機嫌だった母親は、今は荒く息を吐いてその影もない。
とても危険な問いにそうなってしまった心情を察する事は出来るが、一瞬であんなにも変貌してしまうのは紛れもなく心が不安定な証拠だった。
出て来た橘は視線だけで「行くぞ」と語り、由宇と婚約者はそれぞれ違う思いのままその背中に付いていった。
婚約者は拓也の車へ、由宇は橘の車へ乗り込むと、また窓を開けてタバコを吸い始めた。
橘は決して口数が多い方ではない。
だが今は色々と説明してほしい事が多過ぎて、だからといって由宇自身も何から聞けば良いのか分からなかった。
(付いてきたいって言ったのは俺だけどさ……もう少し話してくれないかな……)
先程と同じく、連続二本目のタバコを吸い始めた橘には何となく話し掛けにくく、味がしなくなったガムをどうしよう、というどうでもいい極小の悩みにすり替えて窓の外に視線をやった。
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