恋というものは

須藤慎弥

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◆ 天の性別 ◆ ─潤─

第五十七話

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 本宅の玄関を開けてすぐ、兄夫婦が行き来するための扉の向こうから何やらモゴモゴと会話をする声が聞こえた。

 低いその声の主は兄に違いなく、玄関先で何をしているのだろうと潤は眉を顰めてキッチンへ歩む。 両親は揃って床に就いたようで、リビングは暗かった。

 それにしても、この年の瀬に夫婦喧嘩など穏やかではない。

 内容までは聞こえなかったが、こちら側に漏れ聞こえるほどの口喧嘩をするとは、いよいよ両親に不仲を勘付かれてしまう。

 潤は、相変わらず毎朝愚痴を溢してくる美咲には再三に渡って助言しているのだ。

 そんなに毎日寝不足になるほど悩むなら、いい加減に行動を起こせ、と。

 まずはスマホを見てしまえといくら言っても聞かない。

 浮気の事実を知りたくない美咲の近頃の口癖は、「胃が痛い」「ハゲそう」だ。


「そろそろ僕が出しゃばるべきかなぁ……」


 両親の前では以前と変わらぬ様子を繕っている二人を見ていると、 "仮面夫婦" という単語が頭によぎって潤も落ち着かない。

 実直な兄しか知らないので未だあまり真実味がないけれど……と、潤は皿を洗いながら「あっ」と何かを思い立ち、さらに顔を歪ませた。

 扉の向こうからは兄の声しか聞こえなかった。 夫婦喧嘩ならば、甲高い美咲の声も聞こえてこなくてはおかしいはず。


「もしかして……」


 嫌な予感がした。

 まさに今、兄は美咲の目を盗んで浮気相手に連絡でもしているのではないかと、潤は玄関先に急いだ。


『……マジで? 大丈夫だったのか? ……今どこにいる? ……あぁ、……そんなの危ねえだろ、心配だな。 ……俺が迎えに行けりゃあな……』


 ───潤の勘は当たった。

 相手は不明だが、それは夫婦喧嘩などではなく間違いなく兄は親密そうに誰かと通話をしている。


「…………っ」


 いても立っても居られず、突入してやれと扉に手を掛けようとした潤のポケットが、見計らったように着信を知らせ振動し始める。

 こんな時に……と苦い顔でスマホを取り出すと、画面には『美咲さん』と表示されていた。

 玄関先から今度はバスルームへと移動し、何となく予想のつく第一声を聞いた。


『潤っ、今! 今、豊がスマホ持って下に降りてったの!』
「………………」


 電話口の美咲はひどく動揺していた。 小声ではあるが、明らかに興奮している。

 年末年始の休みに入った兄が、間もなく二十二時となろう時間帯にわざわざ階下に降りて仕事関係の電話をするとは考えにくい。

 潤も僅かながら、兄の通話の内容に違和感を覚えていた。


「……僕も聞いた」
『えっ!? 潤、いま本宅に居るのっ?』
「うん。 兄さん、そっちの玄関で電話してるよね」
『そ、そうなの! 私、私……、どうしたらいいっ?』
「美咲さんはそこに居て。 僕が兄さんと話してみる」
『話してみるって、潤が追及しちゃうって事? それは……っ』
「何気なく聞き出すだけだよ。 いきなりはさすがに聞けない」
『本当っ!? じゃ、じゃあ、お願い、しようかな……』
「分かった。 任せて」


 手短に返事をした潤は、スマホをポケットにしまいながら玄関へと戻る。

 意図せず実際に耳にしてしまったため、潤もこのままにしておくわけにはいかなかった。

 離れ家に残した天も、今や潤にとっては恋敵となった彼の憧れの上司と通話をしていて戻るに戻れないので、言い方は悪いがちょうどいい。

 扉の向こうに耳を澄ましていると、「何かあったらすぐに連絡しろ」と言ったきり声がしなくなった。 兄の通話終了を待って、潤はすぐさまノックをし、向こう見ずに突入した。


「……っ、ビビったー。 潤か。 どうした?」


 開かれた扉の向こうで、突然現れた潤に驚いた豊はさり気ない動作でスマホを後ろ手に隠した。

 後ろめたい証拠である。


「……兄さん、こんな時間に誰かと電話してた?」
「あ、あぁ、そうなんだ。 そっちまで聞こえてたか?」
「筒抜けってわけじゃないけど、聞こえてたよ」
「そうか。 悪かったな」


 悪くはないが、夫婦仲が最悪な時に何をしているのだ、とは思った。

 同じ敷地内に居る美咲から連絡が入ったのも初めてならば、こうして疚しい現場に立ち会うのも初めてだ。

 今でさえ散々疑われているというのに、豊の行動には疑問しか抱けない。


「……兄さん、まだ美咲さんと仲直りしてないの? これだけ長引いてたら、母さん達にバレるのも時間の問題だよ?」
「いやまぁ、そうなんだがな。 美咲が俺の話を聞こうとしないんだ」
「どうして?」
「……俺の浮気、疑ってるから」
「こうやってコソコソ電話したりするからじゃないの? 疑われても仕方ないんじゃない?」
「いや……今の相手も部下だから、美咲の前で通話しても良かったんだ。 けどな、疑われてる最中で……」
「兄さんが本当に浮気してないなら、堂々としてなきゃダメじゃん。 コソコソするから美咲さんも不安になっちゃうんだよ」
「……美咲、お前に何か言ってんのか?」


 豊は潤にも、相手が部下である事を強調してきた。

 しかし健全な電話ならば美咲の前でも出来たはずだ。 どうにも腑に落ちない。

 二人の事だからと首を突っ込む気など無かった潤は、毎朝恒例となった美咲の愚痴を明かす事でさらなる関係悪化を危惧し、自らの咄嗟の判断に身を委ねた。


「ううん、そういうわけじゃない。 見てれば分かるよ。 二人がギクシャクし始めて、もう一ヶ月近く経つよね」
「そうか……。 うん、悪かった。 潤にも余計な気を回させてしまったな。 美咲と話してみるよ」
「そうして。 ていうか、やましい事がないならスマホ見せてあげて」
「……分かった」
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」


 追及はしないと美咲にも言ってしまった手前、今日はこのくらいで勘弁してやった。

 本宅の方から玄関を出た潤は、凍てつく寒さに両手を擦り合わせながらふと思う。

 兄は本当に浮気をしているのだろうか。

 信じたくない気持ちは美咲と同じで、だがしかし今しがたの漏れ聞こえてきた通話を聞くと、疑惑は濃くなってしまった。

 何だか兄の声が、殊更に優しいような気がしたからだ。



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