恋というものは

須藤慎弥

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◆ 好きな人 ◆ ─潤─

第七十六話

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 毎日の緊急抑制剤半量と漢方薬の併用は極めて危険である事くらい、素人でも分かる。

 しかしこれを体内に入れておかなければ、天のフェロモンで刺激された本能が理性を粉々にしてしまう。

 可愛い人の乱れた姿や嬌声を目の当たりにすると、もちろん興奮して勃ちもするし、貫きたいという素直な欲望が湧いてしまうのは止められない。 だがこの過剰な抑制剤併用のおかげで、ギリギリのところではあるが理性を保っていられた。

 しかし当然、複数の副作用はあった。 天の前では一切そんな様子を見せずに隠していたが、全身の倦怠感と、食欲減退、熱っぽさの症状は初日から少しずつ表れ始めていた。

 天のそばに居たいあまり、勝手な判断で併用して丸一週間。

 α性の特異ホルモンを無理矢理抑圧していた潤の体が、悲鳴を上げつつあった。


「潤、どうした? 具合でも悪いのか?」


 朝食にはほとんど手を付けず、母親にごめんと詫びて本宅を出ようとした潤の背中に、兄の声が掛かる。

 潤の体調不良に目敏い母の代わりに来てくれたのだろうが、今は豊の顔を見たくない。

 潤は、この豊にいつも負けている。

 かつて憧れていた女性も、片時も離れたくないと縋りついていたかったΩ性のあの子も、ことごとく潤を一番にしてくれない。

 しかも今回ばかりは……譲っていい相手ではなかった。


「ううん、大丈夫」


 振り返らぬまま、扉に手を掛ける。

 抑制剤も漢方薬も今朝から飲んでいないというのに、昨晩眠れなかったからか頭がボーッとして何のやる気も起こらない。

 天を抱き枕にしていた両腕が寂しかった。

 ふわふわと淡く漂う心地良いフェロモンと、温かな体温と、規則正しい天の寝息が恋しくてたまらず、泣いてしまいそうだった。


「潤っ、待てよ。 ちょっといいか。 お前の部屋で、……話がある」
「……支度しなきゃ」
「少しだから」
「………………」


 返事をせずに離れ家に戻った潤の後を、豊も追ってくる。

 寒いな、と溢しながら、ほんの十メートルの距離でも会話を繋ごうとする豊は、幼い頃から面倒見が良くて優しかった。

 憎みたくはないけれど、どうしたってそれに似た気持ちを抱く潤はつくづく自身の幼稚さが嫌だと思った。


「潤、お前恋人でも出来たのか?」


 畏まって会話をするつもりなど無かった潤は、前髪をまとめてゴムで縛ると起床から二度目の歯磨きをし、顔を洗った。

 わざわざここまでやって来て問い詰めたかった豊の意図を、潤が悟らぬはずもない。


「……出来てないよ?」
「年始からずっと家を空けていたじゃないか。 友達のところに居ましたって言い訳は結構キツいと思うぞ」
「そうだね。 でもほんとだよ。 ……恋人じゃない」


 改めて口にすると、思い出したように胸がジクジクと痛む。 告白もしていないうちから、未来への期待もさせてもらえなかった事実に悲しくなってくる。

 性別の壁がある以上、恋人なんて高望みはしていなかった。 潤は唯一の理解者となり、その少し手前で満足だったけれど結局天の心は掴めなかった。

 たった一週間。

 恋人の真似事をしただけだ。

 洗面台に映る自身の生気のない顔を見ないようにしながら、潤は髪を梳かした。

 入り口に佇んだままの豊には目もくれず、制服に着替え始める。


「名前、聞いてもいいか」
「誰の?」
「泊まりに行ってた "友達" の」
「……聞いてどうするの? 兄さんには関係ないでしょ」


 ベルトを閉めて顔を上げ、今日初めて豊の顔をまともに見た。 彼は潤とはややテイストの違う、精悍な顔付きの男前である。

 天が憧れていると言った豊と、その弟である潤は一見兄弟とは思えないほど印象も異なる。

 β性でありながら頭脳明晰で社交的で、学生の頃から世渡り上手だった豊は大会社に就職が決まっても臆する事なく、着々とキャリアと人望を積んで出世街道まっしぐらだ。

 幼い頃から疑問でしかなかった。

 なぜ兄ではなく自分がα性なのだろう。

 突然変異でα性が産まれるのなら、潤ではなく豊の方が適当だと思うのに。

 ───僕がβ性だったら、もっと天くんの近くに居られたかもしれないのに。


「いや……その、実は心当たりがあるんだ」
「それって、もう目星はついてるよね。 聞くまでもないんじゃない?」
「…………吉武か」
「……吉武? 天くんの名字って吉武っていうの?」
「天くんって! やっぱりそうなのか……。 吉武の看病をしてる男ってのが電話口に出たんだ。 それが潤の声に似てないかって話になってな」
「美咲さんも知ってるんだ?」


 やはり豊は、これを確かめたかったのだろう。

 潤は天の名字を知らなかった。

 彼宅の表札には何も書かれておらず、天の母親も名字は名乗らなかったからだ。

 ヒートを起こした際の病院でも、ただの友人である潤は重要書類に目を通させてもらえなかった。

 吉武、天。 名字を加えると不思議と他人のように聞こえてしまう。


「あぁ、……いや、そんな事より! αの潤が吉武の家に居たっていうのか!? だってアイツ今……ッ!」
「発情期だったよ」
「お前まさか……!」




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