恋というものは

須藤慎弥

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◆ 好きな人 ◆ ─潤─

第七十七話

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 寝間着からカッターシャツに着替えていると、絶句した豊からの視線をビシビシ感じた。

 天のそばに居た男が、絶対に近付いてはならないα性の潤だった。 彼の性別を知る豊にとっては相当に不満だったのだろう。

 潤はそのギョッとした形相を苦笑で見やり、シャツのボタンを留めていく。


「潤、まさか……まさかお前、吉武の……」


 これほど驚愕した兄を見るのは初めてだ。

 豊も、 "まさか" と思っていたに違いない。 靴も脱がずに、ただ、潤が語る名がそうでありませんようにと願っていたように見える。

 黙ってネクタイを結ぶ潤の前までやって来た形相からして、職場での上司が、一社員にこれほど干渉しているのは妙だ。

 美咲には口が裂けても言えないが、その反応だけでも天を必要以上に可愛がっている事が伺える。

 潤は訝しみながら、ふと左の袖口を捲った。


「噛んでないよ。 抑制剤打って抑えてたから、セックスはしてない」
「────ッッ!」
「抑制剤、天くんにじゃないからね。 僕が自分に打ってたの」


 決して体目当てで天の看病に行ったのではないと証明するべく、一から十まで説明してやらなければ気が済まなさそうな豊に、自らの二の腕を見せた。

 ちょうど、曲げると痕が見えなくなる関節部分に、見るからに痛々しい青アザのようなものが出来ている。

 それは朝と晩の二回、計七日に渡って天に隠れてこっそり打っていた潤の我意の証であった。

 正気の沙汰とは思えない。 驚愕の表情を崩さない豊の視線が、そう語っていた。


「…………こ、これ……」
「僕は天くんを傷付けたくなかった。 天くんは自分がΩ性なの認めたくないって言ってたし、僕みたいなαに支配されるのを嫌がっ……っ」
「あっ、おい、潤! 大丈夫か!?」


 豊からの強い眼差しを避けるように回れ右した矢先、大きくフラついた潤は壁にもたれ掛かった。

 目を開けていると目眩がして気分が悪い。 だからと目を閉じてみても、脳内がぐるぐると回っているかのように体の重心が床に持っていかれそうになる。

 豊が心配そうに見ている気配がした。

 ゆっくりと目を開けてみると、今の今まで愕然としていた豊は本当に眉尻を下げて潤に手を差し伸べていた。

 ……天はきっと、この豊の優しさに惚れてしまっているのだ。 年上の美丈夫から仕事内外で構われれば、誰だってそうなる。

 潤も、年の離れた兄の事は昔から自慢で大好きだった。

 通常ならあり得ない自身の性別が確定してしまったばかりに、家族から除け者にされたような寂しさを抱えている潤だ。

 贅沢な悩みである事くらい、潤にだって分かっている。 だが自身の性別を受け入れられない天の気持ちが痛いほどよく分かるのも、潤が彼と同じ種を持っていたからだ。

 寂しがりやのαなど、これまで一人として居やしないのではないだろうか。

 自分には不相応な性別。

 思いとは裏腹に、無意識に他を圧するオーラ。

 そんなつもりはなくとも、何でも苦無く出来てしまう遺伝子。

 α性は羨望されている。 妬みさえ生まないほど圧倒的な支配力によって、人間社会は自らで完全なるピラミッドを構築している。

 潤は、世の同性達のようにはなれない。

 好きな人に "好き" と言えない性別など、本当に要らない。 無くなっていい。


「……ごめん、大丈夫」
「潤、お前……緊急抑制剤を毎日打ってたっていうのか……?」
「そうだよ。 α性のホルモンを抑える漢方薬も飲んでた」
「なんだ、その漢方薬ってのは!」
「大声出さないで……頭に響く……」
「あ、あぁ、すまん……! しかしな、そんな一緒くたに摂取していいものじゃないだろ」
「そんなの分かってるよ」


 現に今、体は絶不調だ。

 天の身の回りの世話をしていると、少々の不調など気にならなかった。

 天の笑顔や照れた表情にドキドキしていて、そんな事を感じる間もなかった。

 理由はどうあれ……寂しくなかった。

 天のそばに居るためならば耐えられたのに、一人になるとこんなにも彼が恋しくて胸が痛い。

 ずっと、痛い。


「───潤、吉武の事が好きなのか?」
「………………」


 学校指定の焦げ茶色のコートを羽織った潤は、問うてきた豊を見詰めた。

 天に言うべきそれは豊には言えないとばかりに口を噤み、しばらく沈黙の時が流れる。

 豊の向こうへと視線を移すと、薄暗かった外が朝を知らせていた。

 本人からは必要無いと言われたけれど、寝坊助な天を起こしてやる役回りを買って出ている潤は、スマホを取り出して履歴を遡る。

 彼との通話履歴は一週間以上前だった。


「……僕、天くんに性別明かしてないから絶対言わないでね。 僕達が兄弟だって事も。 天くんに嫌われたら僕、……生きていけない」
「……ッ、潤! 話はまだ終わってないぞ! しかもお前そんなフラフラで……!」


 豊の脇を通り過ぎ、革靴を履きながら漏らす潤の顔色は殊更悪かった。

 けれど、天の声を聞けると思うとやはり気分はいい。

 何事も無く眠れたのか。 きちんと起きてすぐに支度が出来るのか。 「バイバイ」はしなかったから、今朝も普段通りの眠そうな「おはよう」が聞けるのか───。


「行ってきます」


 ゆっくりと瞬きをして豊をチラと見た潤は、色味のない顔色の上に薄っすらと笑みを浮かべて寒空の下に立った。

 豊に、天への気持ちを悟られてしまった。

 自ら白状したようなものだが、無闇に天を可愛がる彼を牽制する意味ではちょうど良かったのかもしれない。

 潤は天の番号の上をタップし、呼び出し音を聞いた。

 今日という日の天の第一声くらい、自分が貰ってもいいだろう。




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