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 その日の夜、日付が変わろうとする頃に彼が寝室に戻ってきた。こんなにも遅くなったのは、父と兄が彼を離そうとせず、お酒でも一緒に飲んでいたのだろう。

「キト、キ、キ、グ……ムン……さま」
「キャロル、起きていたのか。待っていてくれたのかい? すぐ戻ると言ったのに、遅くなってごめんね」

 わたくしが、あまり動かない唇で彼を呼ぶ。すると、ほんの少しだけ強いお酒の香りを纏わせた彼が、頭を撫でた。わたくしの頭なんて、片手で持つことが出来るくらい大きなその手はとても優しい。うっとりして目を細める。

「キャロル、僕の名前が言いづらそうだね。好きなように呼んでいいよ」
「では、トーラ、さ……?」
「うん、いいよ。懐かしいな……。亡き両親も、僕の事をそう呼んでいたんだ。僕の名をそう呼ぶ人は、もう誰もいないから、キャロルがトーラと言ってくれたらとても嬉しい」

 トーラというのは、夢の中で見た迷子のわたくしに、黒髪の少年が抱っこしてくれた際に「トーラ」という名前を教えてくれたものだ。

「トーラ、おに……さま」

 近くで見つめる彼の青は、見れば見るほど、あの時の少年と同じ揺らめきと輝きを持つ色と同じ。10年以上前の、一瞬だけ関わったあの時の彼が、目の前の人のように思えてそう呼んでみた。すると、彼は目を細めて、とても懐かしそうにしたのである。

「トーラお兄さま、か。そう言えば、随分昔に一度だけそう呼んでくれた、カロルっていう男の子がいたなぁ。その子とは、それ以来会ってないけどね。今頃は、その子もキャロルと同じように立派に成長していると思う」

 やっぱり、あの時の少年は、彼で間違いなかったみたい。だけどまさか、男の子と間違われていただなんて。絶対に、わたくしがその子だと気づいてなさそうだ。

 あの頃のわたくしは、兄の服を借りて遊んでいる事が多かったんだった。髪の毛も、意地悪ヤーリに引っ張られてたし、わたくしも遊びで使っていた火の魔法で燃えて危険だからとベリーショートにしていた。だから男の子だと間違われても仕方がない事なのかもしれない。

 でも、これで、ずっと昔に出会っていた事を確信した。これこそ、運命の出会いというものではないかと、幸せな気分が胸いっぱいに広がる。

「トーラ、さ、ま」
「さま、もいらないよ。トーラ、だよ」
「トーラ……」
「良く出来ました。じゃあ、そろそろ寝ようか」

 照れながらそう言うと、トーラが、手慣れた様子でわたくしの横に滑り込ん出来た。あっという間に抱きしめられ、大きな体にすっぽり収まる。

「今日は色んな事が、一気にたくさんありすぎて疲れただろう? おやすみ、キャロル」
「お、おや、す……」

 彼にベッドで抱き着かれて、こんなにも焦って恥ずかしい思いをしているのは、わたくしだけのようだ。まるで、駄々をこねてずっと起きている子供を寝かしつけるみたいに、ポンポンお腹を叩かれる。

(なにか違う……。絶対に違う。そりゃ、わたくしは子供っぽい体型だし? 胸も絶壁だけど。だけど、一応、シュメージュとウールスタが、かわいくて、薄い生地の寝間着を着せてくれたのに……、全く効果がないなんて……)

「キャロル、もう寝たかい?」

 部屋の灯りが全て消されてから数十分。彼がわたくしが寝ているか伺ってきた。じっと見つめられている視線を頬に感じる。
 
 彼に抱かれているのに、眠れるわけがない。でも、子供扱いしかしてくれない彼がつれなさすぎて、悔しくて、少し拗ねて寝たふりをした。

 すると、彼が少しだけわたくしから離れたかと思うと、シュルシュル衣擦れの音がした。たぶん、頭巾を外したのだろう。

「はぁ、キャロル。かわいいな。こんなにも醜い僕と、側にいてくれてありがとう。それだけでも、本当に幸せなんだ。これ以上望むなんて、僕には不相応すぎる。だけど……」

 ギシリとベッドが軋む音がすると同時に、頬に、ぷにっと何かが当たった。目を閉じているけれど、気配で彼にキスされたと分かる。思わず口がにやけそうになり、きゅっと唇を結び寝たふりを続けた。

「……チャツィーネという女は、僕の呪いを解く事が出来ると言っていた。だが、彼女が言った方法は、あまりにも荒唐無稽だ。万が一、あれが本当で、僕の呪いが解除されたとしても……。僕とあの女が関係を持つなんて、有り得ない」

(今、チャツィーネと関係を持てば呪いが解けるって仰ったの?)

 彼からのキスで目を白黒させつつ、彼の話を一文字も聞き逃さないようにしていると、聞き捨てならない事が耳に入った。

 マシユムールの報告書は、チャツィーネのありとあらゆる証言が載せられていた。生憎、今日は遅いからと、ウールスタに取り上げられ半分も読めていない。恐らく、その事についても詳細が書かれているのだろう。

(……って事は。彼女は彼の呪いが解けるって事? でも、さっきの話からすると、彼と彼女が関係を持つって事よね。そんなの、絶対にイヤ。いくら、転生者であっても、断固拒否よ! 反対!)

「あの女とのその方法しか、呪いが解除されないというのなら、一生この姿のままでいい。もともと、そのつもりで生きていこうと思っていたし……。僕は、キャロル、君としか……」

 もう一度、今度は唇の端に、ぷにっと弾力のある何かが触れた。抱きしめられた腕が、もそりと移動して、わたくしのささやかな胸に触れるか触れないかの位置で止まる。

「キャロル、本当は君にもっと触れたい。でも、いくらキャロルが、僕の事を受け入れてくれていても、これ以上は嫌だろう?」

(トーラ……。わたくしは、ちっとも嫌じゃないのに……)

 もどかしいくらい、彼の欲を含んだ気持ちが伝わって来る。わたくしだって、彼の妻となったからには、そういう事だって覚悟していたし、触れて欲しいし触れたいと思う。

 わたくしは、そっと目を開けて彼を見上げた。部屋は小さな灯りすら消されている。真っ暗闇だから、彼の姿がほとんど見えず、輪郭くらいしかわからない。

「トーラ……」
「キャロル、起きていたのかい……? い、いつから……」

 わたくしが起きているのを知った彼が、慌てて手を離して体を起こした。ぴったりついていた彼の温もりが消えて、瞬く間もなく肌も心も寂しくなる。

「…………ご、ごめん! 僕なんかが勝手に触れて、本当にごめん。不愉快な思いをさせただろう? 部屋を出て行くから……」

 ベッドがギシっと大きく音を立てた。マットレスのスプリングが揺れて、体が傾く。あっという間にベッドから降りた彼の足音が、すたすたと遠のいていった。

 わたくしは、慌ててなんとか引き留めようと、今までで一番懸命に声を張り上げた。なのに、咽が焦れば焦るほど上手く動かない。こうしている間にもどんどん離れていく彼の様子を感じて、もどかしくて悲しくなる。

「ま、まって、まって。いかな……、ここ、来、とーら、とーら……」
「キャロル?」
「いかな、で……」
「でも、僕は、こんな姿で。なのに、君の了承を得ずにあんな事を……」
「かんけ、な……。すき……。だから、……ここ、いて」

 わたくしが、恥ずかしさを堪えて、片言でありったけの気持ちを込めた言葉を伝えた瞬間、彼が大股で近づいてきた。

「キャロル。さっき言った事は……本当、なのかい?」

 わたくしの本心を推し量るかのように覗き込まれたかと思うと、ぎゅっと抱きしめられる。そして、わたくしがこくりと頷くと、唇に強く柔らかな物を押し付けられたのであった。
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