完結(R18)赤い手の嫌われ子爵夫人は、隣国の騎士に甘すぎる果実を食べさせられる

にじくす まさしよ

文字の大きさ
3 / 84

しおりを挟む
 世界の果てまでも見渡せそうな透き通った青の下、白い帆を張った大きな船が、今か今かと出航の時を待っている。冬だというのに、青い海は不思議なほど波が穏やかで、絶好の航海日よりと言えるだろう。

 クゥー、クゥー

 赤錆のような色の長い髪が、うみねこの鳴く港で冷たい風に踊らされている。太陽を模したような金の瞳が、獲物を狙い飛んでいる彼らを、旅客船の甲板で見ていた。

 長い汽笛が、一回、二回と港に鳴り響く。

 いよいよ出発だ。

 赤錆色の髪の女性は、胸に光るロケットの中にある、枯れた花をそっと撫でた。寂しそうに微笑みながら、ロケットを閉じ、きゅっと唇を結ぶ。
 足元に置いていたやや大きめの四角い旅行鞄を手に持ち、予約していた客室に向かおうと体の向きを変えた。

「フェル──ッ! フェルミ、どこだ? どこにいる?」

 三回目の汽笛の大きな音の中に、ここにいるはずのない人物が自分の名前を叫んでいる声が聞こえる。

(ふふ、彼がこんなところにいるはずなんてないのに、声が聞こえるだなんて……)

 人が名前を呼んだところで、汽笛にかき消されるだろう。この期に及んで、彼を思い出す自分が、愚かしくも楽しくもある。フェルミは、ふぅっと小さく息を吐き出し、一度止めた足を進めた。

 港中に聞こえていた汽笛が鳴りやむ。船と陸をつなぐタラップは、すでに取り外されていた。船首が徐々に傾き、静かに船が移動する。恐らくは、とても速いだろうその動きは、なぜか時が止まったかのようにゆっくりに思えた。

 まばらに立つ人の柱は、ほとんどが二本寄り添うように立っている。夫婦や恋人が多いようだ。ぽつぽつと、一本の柱を立てている中のひとりに、自分がいた。

(故郷を出る時も、私はひとりだった。今もひとり……)

 まさか、故郷に帰る日がくるなど、悲しみにうちひしがれていたあの時には思ってもみなかった。行きも帰りもひとりなど、忌み嫌われていた自分には、なんてお似合いなのだろう。

 船首が、完全に陸から一番遠い角度になった。徐々に早くなる船が、波をかき分けたくさんの泡を作る。船首でまっぷたつにひきさかれた波は、もう一度出会うことがあるのだろうか。

 ほんの少し侘しさを感じていると、あわただしく人を探す声がした。それは、先ほど気のせいだと振り払った人の声に聞こえた。その声に捕らわれたかのように、ぴたりと足が止まる。

 胸がどきどきして苦しい。あり得ないと何度もかぶりを振るが、希望にも似た期待が大きくなった。

 信じられない気持ちと、来てくれたのかもしれないという喜びを抱きながら、恐る恐る振り返る。

「誰か、美しい紅樺色の髪の女性を知らないか? 腰まである艶やかな髪は、光を浴びると薔薇色に見えるんだ。明るい太陽の瞳をしていて……」

 甲板で、出航を楽しんでいる人々が迷惑そうに眉をしかめるほど、彼は必死に大声をあげていた。そんな、なりふり構わないような彼の姿など見たことがない。
 フェルミが知る彼は、どこもかしこも完璧で、歪なところなどひとつもない。いつだって余裕があって冷静そのものだった。時に自分をからかうおどけた彼も、怖いくらいに真剣な眼差しも、熱を帯びた瞳で、「フェルミ」と自分を優しく呼ぶ唇も今の彼にはない。ただ、そこにいるのは、普通の、どこにでもいる、まるで女に逃げられた無様な男そのもののようだった。

「う、そ……」

 それは、吐息ほどの囁きだった。だというのに、汗だくの男はその声に顔を向ける。ばちっとふたりの視線が交差した。

「あ、ああ、フェルミ……。フェル……ッ!」
「カイン……どうして……」

 ひと房たりとも乱れたことがない、ロウソクのように優しい光を放つ髪が四方八方に跳ねている。暖かい焚火のように揺らめく瞳は、喜びと焦燥を隠していなかった。

 甲板を打つ彼の足音が、フェルミの前で止まる。はぁはぁと乱れた息をなんとか整えようとしているのか、何度も喉を上下させていた。

 やや強引に、ぐいっと腕を引かれた。思いがけない彼の動きになすすべもなく、フェルミは彼の胸に体を預ける。炎を模した赤い騎士服の、大きな胸板が目前になった。
 普段は、襟元までぴっしりと閉めているというのに、今は上腹部まではだけられている。薄く白いシャツは、汗で肌色の隆起が透けて見えた。

 フェルミよりも大きな彼に、すっぽり包まれる。彼の汗の香りがなまめかしい。フェルミは恥ずかしさのあまり、どうしていいかわからなくなった。

「どうして、だって? それは俺のセリフだ。フェル、なぜ、グリーン国行きの船の上に、君がいるんだ。あんな、君を苦しめ続けた故郷など、放っておけばいいって何度も言っただろう?」
「……」

 カインの問いかけに、フェルは小さく首を振った。彼女の心を表しているかのように、小さな肩が震えている。

 自分の言う通りにしてくれない意思を曲げない彼女に、カインは会えた安堵と同じくらいの苛立ちに似た焦げ付きを感じた。どこにも行かせたくない。その思いを込めて、フェルミが息苦しくなるほど抱きしめたのであった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

黒の神官と夜のお世話役

苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

処理中です...