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世界の果てまでも見渡せそうな透き通った青の下、白い帆を張った大きな船が、今か今かと出航の時を待っている。冬だというのに、青い海は不思議なほど波が穏やかで、絶好の航海日よりと言えるだろう。
クゥー、クゥー
赤錆のような色の長い髪が、うみねこの鳴く港で冷たい風に踊らされている。太陽を模したような金の瞳が、獲物を狙い飛んでいる彼らを、旅客船の甲板で見ていた。
長い汽笛が、一回、二回と港に鳴り響く。
いよいよ出発だ。
赤錆色の髪の女性は、胸に光るロケットの中にある、枯れた花をそっと撫でた。寂しそうに微笑みながら、ロケットを閉じ、きゅっと唇を結ぶ。
足元に置いていたやや大きめの四角い旅行鞄を手に持ち、予約していた客室に向かおうと体の向きを変えた。
「フェル──ッ! フェルミ、どこだ? どこにいる?」
三回目の汽笛の大きな音の中に、ここにいるはずのない人物が自分の名前を叫んでいる声が聞こえる。
(ふふ、彼がこんなところにいるはずなんてないのに、声が聞こえるだなんて……)
人が名前を呼んだところで、汽笛にかき消されるだろう。この期に及んで、彼を思い出す自分が、愚かしくも楽しくもある。フェルミは、ふぅっと小さく息を吐き出し、一度止めた足を進めた。
港中に聞こえていた汽笛が鳴りやむ。船と陸をつなぐタラップは、すでに取り外されていた。船首が徐々に傾き、静かに船が移動する。恐らくは、とても速いだろうその動きは、なぜか時が止まったかのようにゆっくりに思えた。
まばらに立つ人の柱は、ほとんどが二本寄り添うように立っている。夫婦や恋人が多いようだ。ぽつぽつと、一本の柱を立てている中のひとりに、自分がいた。
(故郷を出る時も、私はひとりだった。今もひとり……)
まさか、故郷に帰る日がくるなど、悲しみにうちひしがれていたあの時には思ってもみなかった。行きも帰りもひとりなど、忌み嫌われていた自分には、なんてお似合いなのだろう。
船首が、完全に陸から一番遠い角度になった。徐々に早くなる船が、波をかき分けたくさんの泡を作る。船首でまっぷたつにひきさかれた波は、もう一度出会うことがあるのだろうか。
ほんの少し侘しさを感じていると、あわただしく人を探す声がした。それは、先ほど気のせいだと振り払った人の声に聞こえた。その声に捕らわれたかのように、ぴたりと足が止まる。
胸がどきどきして苦しい。あり得ないと何度もかぶりを振るが、希望にも似た期待が大きくなった。
信じられない気持ちと、来てくれたのかもしれないという喜びを抱きながら、恐る恐る振り返る。
「誰か、美しい紅樺色の髪の女性を知らないか? 腰まである艶やかな髪は、光を浴びると薔薇色に見えるんだ。明るい太陽の瞳をしていて……」
甲板で、出航を楽しんでいる人々が迷惑そうに眉をしかめるほど、彼は必死に大声をあげていた。そんな、なりふり構わないような彼の姿など見たことがない。
フェルミが知る彼は、どこもかしこも完璧で、歪なところなどひとつもない。いつだって余裕があって冷静そのものだった。時に自分をからかうおどけた彼も、怖いくらいに真剣な眼差しも、熱を帯びた瞳で、「フェルミ」と自分を優しく呼ぶ唇も今の彼にはない。ただ、そこにいるのは、普通の、どこにでもいる、まるで女に逃げられた無様な男そのもののようだった。
「う、そ……」
それは、吐息ほどの囁きだった。だというのに、汗だくの男はその声に顔を向ける。ばちっとふたりの視線が交差した。
「あ、ああ、フェルミ……。フェル……ッ!」
「カイン……どうして……」
ひと房たりとも乱れたことがない、ロウソクのように優しい光を放つ髪が四方八方に跳ねている。暖かい焚火のように揺らめく瞳は、喜びと焦燥を隠していなかった。
甲板を打つ彼の足音が、フェルミの前で止まる。はぁはぁと乱れた息をなんとか整えようとしているのか、何度も喉を上下させていた。
やや強引に、ぐいっと腕を引かれた。思いがけない彼の動きになすすべもなく、フェルミは彼の胸に体を預ける。炎を模した赤い騎士服の、大きな胸板が目前になった。
普段は、襟元までぴっしりと閉めているというのに、今は上腹部まではだけられている。薄く白いシャツは、汗で肌色の隆起が透けて見えた。
フェルミよりも大きな彼に、すっぽり包まれる。彼の汗の香りがなまめかしい。フェルミは恥ずかしさのあまり、どうしていいかわからなくなった。
「どうして、だって? それは俺のセリフだ。フェル、なぜ、グリーン国行きの船の上に、君がいるんだ。あんな、君を苦しめ続けた故郷など、放っておけばいいって何度も言っただろう?」
「……」
カインの問いかけに、フェルは小さく首を振った。彼女の心を表しているかのように、小さな肩が震えている。
自分の言う通りにしてくれない意思を曲げない彼女に、カインは会えた安堵と同じくらいの苛立ちに似た焦げ付きを感じた。どこにも行かせたくない。その思いを込めて、フェルミが息苦しくなるほど抱きしめたのであった。
クゥー、クゥー
赤錆のような色の長い髪が、うみねこの鳴く港で冷たい風に踊らされている。太陽を模したような金の瞳が、獲物を狙い飛んでいる彼らを、旅客船の甲板で見ていた。
長い汽笛が、一回、二回と港に鳴り響く。
いよいよ出発だ。
赤錆色の髪の女性は、胸に光るロケットの中にある、枯れた花をそっと撫でた。寂しそうに微笑みながら、ロケットを閉じ、きゅっと唇を結ぶ。
足元に置いていたやや大きめの四角い旅行鞄を手に持ち、予約していた客室に向かおうと体の向きを変えた。
「フェル──ッ! フェルミ、どこだ? どこにいる?」
三回目の汽笛の大きな音の中に、ここにいるはずのない人物が自分の名前を叫んでいる声が聞こえる。
(ふふ、彼がこんなところにいるはずなんてないのに、声が聞こえるだなんて……)
人が名前を呼んだところで、汽笛にかき消されるだろう。この期に及んで、彼を思い出す自分が、愚かしくも楽しくもある。フェルミは、ふぅっと小さく息を吐き出し、一度止めた足を進めた。
港中に聞こえていた汽笛が鳴りやむ。船と陸をつなぐタラップは、すでに取り外されていた。船首が徐々に傾き、静かに船が移動する。恐らくは、とても速いだろうその動きは、なぜか時が止まったかのようにゆっくりに思えた。
まばらに立つ人の柱は、ほとんどが二本寄り添うように立っている。夫婦や恋人が多いようだ。ぽつぽつと、一本の柱を立てている中のひとりに、自分がいた。
(故郷を出る時も、私はひとりだった。今もひとり……)
まさか、故郷に帰る日がくるなど、悲しみにうちひしがれていたあの時には思ってもみなかった。行きも帰りもひとりなど、忌み嫌われていた自分には、なんてお似合いなのだろう。
船首が、完全に陸から一番遠い角度になった。徐々に早くなる船が、波をかき分けたくさんの泡を作る。船首でまっぷたつにひきさかれた波は、もう一度出会うことがあるのだろうか。
ほんの少し侘しさを感じていると、あわただしく人を探す声がした。それは、先ほど気のせいだと振り払った人の声に聞こえた。その声に捕らわれたかのように、ぴたりと足が止まる。
胸がどきどきして苦しい。あり得ないと何度もかぶりを振るが、希望にも似た期待が大きくなった。
信じられない気持ちと、来てくれたのかもしれないという喜びを抱きながら、恐る恐る振り返る。
「誰か、美しい紅樺色の髪の女性を知らないか? 腰まである艶やかな髪は、光を浴びると薔薇色に見えるんだ。明るい太陽の瞳をしていて……」
甲板で、出航を楽しんでいる人々が迷惑そうに眉をしかめるほど、彼は必死に大声をあげていた。そんな、なりふり構わないような彼の姿など見たことがない。
フェルミが知る彼は、どこもかしこも完璧で、歪なところなどひとつもない。いつだって余裕があって冷静そのものだった。時に自分をからかうおどけた彼も、怖いくらいに真剣な眼差しも、熱を帯びた瞳で、「フェルミ」と自分を優しく呼ぶ唇も今の彼にはない。ただ、そこにいるのは、普通の、どこにでもいる、まるで女に逃げられた無様な男そのもののようだった。
「う、そ……」
それは、吐息ほどの囁きだった。だというのに、汗だくの男はその声に顔を向ける。ばちっとふたりの視線が交差した。
「あ、ああ、フェルミ……。フェル……ッ!」
「カイン……どうして……」
ひと房たりとも乱れたことがない、ロウソクのように優しい光を放つ髪が四方八方に跳ねている。暖かい焚火のように揺らめく瞳は、喜びと焦燥を隠していなかった。
甲板を打つ彼の足音が、フェルミの前で止まる。はぁはぁと乱れた息をなんとか整えようとしているのか、何度も喉を上下させていた。
やや強引に、ぐいっと腕を引かれた。思いがけない彼の動きになすすべもなく、フェルミは彼の胸に体を預ける。炎を模した赤い騎士服の、大きな胸板が目前になった。
普段は、襟元までぴっしりと閉めているというのに、今は上腹部まではだけられている。薄く白いシャツは、汗で肌色の隆起が透けて見えた。
フェルミよりも大きな彼に、すっぽり包まれる。彼の汗の香りがなまめかしい。フェルミは恥ずかしさのあまり、どうしていいかわからなくなった。
「どうして、だって? それは俺のセリフだ。フェル、なぜ、グリーン国行きの船の上に、君がいるんだ。あんな、君を苦しめ続けた故郷など、放っておけばいいって何度も言っただろう?」
「……」
カインの問いかけに、フェルは小さく首を振った。彼女の心を表しているかのように、小さな肩が震えている。
自分の言う通りにしてくれない意思を曲げない彼女に、カインは会えた安堵と同じくらいの苛立ちに似た焦げ付きを感じた。どこにも行かせたくない。その思いを込めて、フェルミが息苦しくなるほど抱きしめたのであった。
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