官能小説家の執筆旅行

市樺チカ

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幸運

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結局、家を出立出来たのは昼頃になってからだった。
駅前で簡単に飯を済ませ、切符売場の前で立ち止まる。

「どこに向かわれるんですか?」
「本当だったら、海沿いに南下してこのあたりに行きたかったんだ。でも今からだと着くのが夜になってしまうね」

壁に貼り付けられた路線図を指しながら、顎に手を当てる。
すると熊井の太い腕が伸びてきて、現在地と目的地の丁度真ん中辺りを指差した。

「この辺りに小さな温泉街があると聞いた事があります。ここからだと汽車で三時間程でしょうから、丁度良い頃合いかと」
「成る程、ではそうしようか。熊井君は物知りだね」

にこりと笑うと、熊井は照れ臭そうに頬を掻いた。
厳つい外見とは裏腹に、実に純情な男だ。

「では切符を買ってくるよ。重たいだろうから、そこで腰掛けて待って居てね」

二人分の荷物を抱えた熊井を長椅子に押しやり、財布を持って切符売り場へ向かった。



真っ黒の革が貼られたふかふかの椅子に腰掛け、壁にある上着掛けに服をかける。

「凄いね、熊井君。まさか特級席に乗れるなんて思いも寄らなかったよ」

嬉しそうに笑いながら、真田は先程のやり取りを思い出していた。


切符売り場で行き先を伝えると、駅員が困った顔をした。
本来は満席だが、あと十五分で出発する、という今になって払い戻しがあったらしい。
それが何と、特級席だと言うのだ。
普通席の五倍も値の張る席である。
流石に引き下がろうとすると、駅員が顔を寄せて小声で囁いた。

「本来は駄目なのですが…。三等席のお代を頂ければ、特別にご案内しますよ」

驚いた事に、普通席に少し色を付けた値で良いと言うのだ。
真田はにっこりと笑って財布を開いた。


「まさか個室で、布団まで付いているなんてね。三時間では勿体ないよ」
「確かにそうですね。それから、奥に特級席用の休憩所がある様です。コーヒーや軽食なんかを振る舞っているとか」
「あぁ、素敵だね。荷物を置いたら早速行ってみよう」

トランクを開けて煙草を取り出し、ポケットへしまう。
念のため小さなノートとペンも反対のポケットに詰め込んで、席を後にした。
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