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9.知り合う作業
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泥だらけの伯爵令嬢を見たときの侍女たちの顔は、それはもうノラが想像した通りの失望に染まっていた。
それは、ノラ自身も同じだ。
エリック王子は結局、「令嬢を裸足で歩かせることなどできない」と服が汚れるのも構わず“リリア”を抱き上げで部屋まで送り届けたのだ。
何度も「お召し物が汚れます!」と下ろしてくれるよう頼んだが、エリック王子は「騒ぐと余計目立つぞ」と言うばかりだった。
大変恐縮して運ばれるノラは、ふとエリック王子の腕の中に既視感を覚えた。
だがそれも一瞬のことで、ノラは部屋に着くなりそれどころではなくなった。呆れかえった侍女たちに驚くべき手際でドレスを剥ぎ取られ泥を洗い流された。
さっぱりした後には王子様は部屋から出て行かれた後で、ノラはひたすらどうやってお礼申し上げればいいのだろうかと頭を抱えた。
髪のお手入れを、と呼ばれて動いたときにようやく、ノラは自分が足の裏を切っていることに気が付いた。土の中の小石か何かで切ったのかもしれない。小さな痛みに足の裏を確認する仕草さえ優秀な侍女たちは見逃さなかった。
すぐに医者が部屋まで駆けつけて、極めて大袈裟に、薬を塗り布まであてられてしまった。
これくらいの傷、大したことはないのに。
こんな傷一つで大騒ぎしていたら使用人は務まらない。
令嬢として扱われることにも、何より一向に王子様に「帰れ」と言っていただける気配がないことに気疲れしたノラは、夕食もとらずに横になり、そのまましばらく仮眠をとった。
どれくらい眠っただろうか。
真っ暗な室内で目覚めたノラはベッドの上で小さく伸びた。
まだ眠気は残っている。再び夢の世界へ旅立とうと寝返りをうったとき、背後で扉が開く気配がした。
ふと振り返ると、大柄な男の姿が月明りに照らされて見えた。
「悪い、起こしたか」
「恩人さん?」
ノラは慌てて起き上がる。素早くシーツを手繰り寄せてめくれ上がったナイトドレスから投げ出された素足を隠す。
「怪我は? 痛くないか?」
「怪我?」
「足を怪我したと聞いた。どこだ?」
恩人さんは随分と情報通らしい。気にかけてくれるのは嬉しいが、心配してもらうのも恥ずかしいくらい小さな切り傷だ。ノラは苦笑した。
「大丈夫です。怪我ってほどでもありませんし、痛みもないです」
「そうか……」
安心した、と伝わるような声音に、とくりと胸の奥が鳴る。
違う、恩人さんリリア様を心配してるのであって、自分じゃない。
言い聞かせるように頭の中で繰り返す。
「ジョシュの件は、ありがとう。おかげで大事にならずに済んだ」
「ジョシュ? あ、ジョシュア様ですか?」
「あ、ああ、そうだ、ジョシュア様だ。怪我も大したことないらしい。早速、助けに駆けつけたお前にもう一度会いたいとぬかし──言ってるそうだ」
ジョシュア様と恩人さんはよほど親しいのだろうか、愛称で呼んでいるあたりそんな雰囲気を感じる。
助けに駆けつけたと言えば聞こえはいいが、実際のところ一緒に泥だらけになっただけだ。それに王子様まで巻き込んで。
はぁ、と知らずため息をついたノラに、恩人さんが首を傾げる。
「どうした?」
「……私のせいで、王子様のお召し物を汚してしまって」
「気にするな。洗えば落ちるだろう」
「そんな、泥汚れがどれほどしつこいかご存じないから──」
言ってから、騎士様に対してなんて口を利いているのかと冷や汗が滲む。それに、どこぞの貧乏令嬢ならまだしもリリア様が洗濯についての詳細を知っているわけがないという失態に自分の軽率さが嫌になった。
申し訳ありませんと言いかけたノラに、男が笑う。
「珍しいな、お前は洗濯に詳しいのか」
「え? あ、まぁ、その……少し」
「面白いな。あとは何ができる? 馬にも乗れたりするのか?」
楽しげな男の声に、ノラの緊張も解れて笑みが浮かんだ。
「馬には乗れません」
「そうか。好きなことは何だ? 好んで食べるものはあるのか?」
「どうなさったんです?」
失礼にあたらない程度に笑いながら尋ねると、男はそっとノラの手に自分の手を重ねた。
「お前のことを知りたい」
大きな手が優しくノラの指を絡めとる。
昨夜はもっと熱情的に触れられたというのに、男に手を握られただけでノラの頬は赤く染まった。
「それも“だめ”か?」
「そんな、ことは……」
「あんまり可愛い顔をするな。我慢できなくなる」
素早く男はノラの唇を奪った。何度か啄むようにキスをする。
それだけで頭の芯が蕩けるようで、力が抜けそうになる。
下唇を軽く吸われてノラが小さく甘い吐息を漏らすと、男はその体をぎゅっと抱きしめて一緒にベッドに横になった。
腕の中にすっぱりとノラを閉じ込めたまま、男が言った。
「体だけだと思われたくない。話をしよう。お前のことを教えてくれ。好きな食べ物は何だ?」
そんなふうに思っていない。
でも、恩人さんは自分を見ようとしてくれている。
単に制御不能な欲求をぶつける相手ではなく、一人の人間として知り合おうとしてくれている。
その気持ちは、何だか嬉しい。
男の温かな腕の中で、ノラはほっと息をついた。
それは、ノラ自身も同じだ。
エリック王子は結局、「令嬢を裸足で歩かせることなどできない」と服が汚れるのも構わず“リリア”を抱き上げで部屋まで送り届けたのだ。
何度も「お召し物が汚れます!」と下ろしてくれるよう頼んだが、エリック王子は「騒ぐと余計目立つぞ」と言うばかりだった。
大変恐縮して運ばれるノラは、ふとエリック王子の腕の中に既視感を覚えた。
だがそれも一瞬のことで、ノラは部屋に着くなりそれどころではなくなった。呆れかえった侍女たちに驚くべき手際でドレスを剥ぎ取られ泥を洗い流された。
さっぱりした後には王子様は部屋から出て行かれた後で、ノラはひたすらどうやってお礼申し上げればいいのだろうかと頭を抱えた。
髪のお手入れを、と呼ばれて動いたときにようやく、ノラは自分が足の裏を切っていることに気が付いた。土の中の小石か何かで切ったのかもしれない。小さな痛みに足の裏を確認する仕草さえ優秀な侍女たちは見逃さなかった。
すぐに医者が部屋まで駆けつけて、極めて大袈裟に、薬を塗り布まであてられてしまった。
これくらいの傷、大したことはないのに。
こんな傷一つで大騒ぎしていたら使用人は務まらない。
令嬢として扱われることにも、何より一向に王子様に「帰れ」と言っていただける気配がないことに気疲れしたノラは、夕食もとらずに横になり、そのまましばらく仮眠をとった。
どれくらい眠っただろうか。
真っ暗な室内で目覚めたノラはベッドの上で小さく伸びた。
まだ眠気は残っている。再び夢の世界へ旅立とうと寝返りをうったとき、背後で扉が開く気配がした。
ふと振り返ると、大柄な男の姿が月明りに照らされて見えた。
「悪い、起こしたか」
「恩人さん?」
ノラは慌てて起き上がる。素早くシーツを手繰り寄せてめくれ上がったナイトドレスから投げ出された素足を隠す。
「怪我は? 痛くないか?」
「怪我?」
「足を怪我したと聞いた。どこだ?」
恩人さんは随分と情報通らしい。気にかけてくれるのは嬉しいが、心配してもらうのも恥ずかしいくらい小さな切り傷だ。ノラは苦笑した。
「大丈夫です。怪我ってほどでもありませんし、痛みもないです」
「そうか……」
安心した、と伝わるような声音に、とくりと胸の奥が鳴る。
違う、恩人さんリリア様を心配してるのであって、自分じゃない。
言い聞かせるように頭の中で繰り返す。
「ジョシュの件は、ありがとう。おかげで大事にならずに済んだ」
「ジョシュ? あ、ジョシュア様ですか?」
「あ、ああ、そうだ、ジョシュア様だ。怪我も大したことないらしい。早速、助けに駆けつけたお前にもう一度会いたいとぬかし──言ってるそうだ」
ジョシュア様と恩人さんはよほど親しいのだろうか、愛称で呼んでいるあたりそんな雰囲気を感じる。
助けに駆けつけたと言えば聞こえはいいが、実際のところ一緒に泥だらけになっただけだ。それに王子様まで巻き込んで。
はぁ、と知らずため息をついたノラに、恩人さんが首を傾げる。
「どうした?」
「……私のせいで、王子様のお召し物を汚してしまって」
「気にするな。洗えば落ちるだろう」
「そんな、泥汚れがどれほどしつこいかご存じないから──」
言ってから、騎士様に対してなんて口を利いているのかと冷や汗が滲む。それに、どこぞの貧乏令嬢ならまだしもリリア様が洗濯についての詳細を知っているわけがないという失態に自分の軽率さが嫌になった。
申し訳ありませんと言いかけたノラに、男が笑う。
「珍しいな、お前は洗濯に詳しいのか」
「え? あ、まぁ、その……少し」
「面白いな。あとは何ができる? 馬にも乗れたりするのか?」
楽しげな男の声に、ノラの緊張も解れて笑みが浮かんだ。
「馬には乗れません」
「そうか。好きなことは何だ? 好んで食べるものはあるのか?」
「どうなさったんです?」
失礼にあたらない程度に笑いながら尋ねると、男はそっとノラの手に自分の手を重ねた。
「お前のことを知りたい」
大きな手が優しくノラの指を絡めとる。
昨夜はもっと熱情的に触れられたというのに、男に手を握られただけでノラの頬は赤く染まった。
「それも“だめ”か?」
「そんな、ことは……」
「あんまり可愛い顔をするな。我慢できなくなる」
素早く男はノラの唇を奪った。何度か啄むようにキスをする。
それだけで頭の芯が蕩けるようで、力が抜けそうになる。
下唇を軽く吸われてノラが小さく甘い吐息を漏らすと、男はその体をぎゅっと抱きしめて一緒にベッドに横になった。
腕の中にすっぱりとノラを閉じ込めたまま、男が言った。
「体だけだと思われたくない。話をしよう。お前のことを教えてくれ。好きな食べ物は何だ?」
そんなふうに思っていない。
でも、恩人さんは自分を見ようとしてくれている。
単に制御不能な欲求をぶつける相手ではなく、一人の人間として知り合おうとしてくれている。
その気持ちは、何だか嬉しい。
男の温かな腕の中で、ノラはほっと息をついた。
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