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後日譚 鏡映し
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颯季さんと恋人同士になってから、俺の人生は劇的に変わった。
好転したという一言では到底言い表せない、それはほとんど生まれ変わったと言えるほどの変化だ。彼と出会う前の俺の底辺生活と比べたら、まさに雲泥の差、月とスッポン、地獄から天国である。
しかしながら――俺を苛む悩みの種が、ひとつだけあるのだった。
――まただ。また、見られている。
自分が勤める事務所の近くにある商店街。そこを抜けたところで、項あたりに刺さる視線を感じた。それも一対ではない、いくつもの瞳がこちらの一挙手一投足をじっとりと見つめている気配。先ほど古い店舗を改装したいい雰囲気のカフェを見つけ、今度颯季さんと来たいなと考えたときの、意気揚々とした気持ちがしゅんと萎んでいく。
最近、こういうことが増えた。颯季さんに紹介されたジムへ通うようになり、体幹もそこそこしっかりしてきたからか、背すじを伸ばして歩けるようになったのに、胡乱な気配のせいで背中が丸くなってしまう。無駄に目立つ無意味な上背が恨めしかった。
こちらへ粘着質の視線を送る厳つい男と目が合いそうになり、慌てて直前で目線を逸らす。俺の眼には霊がはっきり見えすぎてしまうため、じっと見ない限り相手が生者か死者かは判断できないが、見つめてくる存在が全員幽霊だとしたらかなりの数だ。こんなに急激に、俺の生活圏にばかり幽霊が増えるものだろうか。
向けられた気配を振り払うように、早く家に帰ろう、と歩を速めた。
事務所兼自宅に戻ると、そこには颯季さんが来ていた。俺を認めるとにぱっと破顔し、ソファから立ち上がる。
「お帰り、哲くん」
「ただいまです。えっと……何かあったんですか?」
問いかける声にやや困惑が混じってしまったのは、颯季さんの服装のせいだった。いつもチンピラ紛いの派手な格好をしている彼が、今は淡いオリーブ色のセットアップに照りのある黒シャツという、普段と比べれば格段に落ち着いた服を着ているのだ。
「実は明日、高校の同窓会があるから着ていく服を選んでたんだ。この服装、どうだろ?」
颯季さんがその場でくるりとターンすると、ジャケットの裾が持ち上がってひらめく。おどけた仕草が彼には妙に似合っていて、舞台俳優のように見えた。
「え、と。……格好いいです」
訊かれたことに正直に答えたつもり、だったのだが。
当の颯季さんが「えっ」と驚いて頬を赤くする。
「あー、服が変じゃないか訊いたつもりだったんだけど。格好いい、かあ。へへ……」
「その、なんか、すみません……」
「んーん。哲くんに言われると嬉しいよ。おかしくないならいいんだ」
互いに照れた顔を見合わせて、さらに照れが加速する。
「……えっと。少し早いけど、夕飯の支度する?」
「そ、そうですね。一緒に作りましょう」
二人ともぎこちない会話を交わして、そそくさとそれぞれの準備に取りかかる。颯季さんは着替えるためか、彼の住居に一度戻っていった。
一人きりになった部屋でふうと浅く息を吐く。同窓会、か。学生時代など暗黒の日々でしかなかった俺には、今さら顔を合わせたい人もいない。その点、明るくて社交的な颯季さんはきっと友達も多かっただろう。
俺が出会う前の、俺の知らない颯季さん。
ちくりと胸が痛む。無用な感傷だと分かってはいた。どうやったって時が逆戻りなんてしないのだから。
でも、同窓会を楽しみにしていそうな彼の笑顔を思い返すと、どうしても寂しさに取りつかれてしまうのだった。
明くる日。颯季さんは「帰りは遅くなると思うし、もしかしたら泊まりになるかもしれないから、哲くんは一人でゆっくりしてねえ」と言い置いて出かけていった。
俺たちは恋人と言っても、別に四六時中一緒にいるわけではない。一日中そばで過ごす日もあるにはあるが、基本的には一人でいる時間も互いに確保している。だから、半日くらい自分だけで過ごすなんて何てことはない。俺は何年も、孤独に浸って生活してきたのだし。
そう言い聞かせても心臓あたりにまとわりつく、この寒々しい焦燥感は何なのだろう。俺はいつの間にか、こんなにも独りに弱くなってしまったらしい。
冷蔵庫にあった余り物で適当に夕飯を済ませ、颯季さんといつも観ているテレビ番組を何とはなしに眺めて、お風呂に入ってしまうともうやることがない。いっそ早めに寝てしまおうか、とすごすごとベッドに身を横たえるものの、眠気は一向にやってこない。それどころか、颯季さんは今何をしているんだろう、昔の話に花を咲かせたり、気の置けない友人に囲まれたり、そうして楽しく大勢で談笑しているのだろうか、ととりとめもない想像が脳裏をぐるぐると駆け巡って収拾がつかない。
かえって目が冴えてしまった俺はベッドから抜け出た。サイドチェストの抽斗から目的のものを取り出して、そっと自分の住居である事務所をあとにする。向かった先は、一階上にある颯季さんの家だった。
ガチャリと響いた開錠の音におののきながら、家主のいない部屋に忍びこむ。そこは当然ながら真っ暗で、俺の心臓の鼓動だけが反響しているんじゃないかと思うほど、室内はしんと静まりかえっていた。颯季さんからはいつでも出入りしていいよと合鍵を渡されているけれど、とても悪いことをしている気分だ。知らず知らず無意味に足音を消して歩いてしまう。
目指すは、颯季さんのベッドルームだった。
わずかに開いたドアの先には、恋人のベッドがうっすらと月明かりに照らされていた。同窓会へ出発する前に着ていたのであろう柄シャツが、そこに脱ぎ捨てられている。
ふらふらとベッドに近づき、シャツを手に取る。俺は何をしているんだ、という心の声に反して体が勝手に動き、手に持ったシャツを自らの鼻に押しつけていた。
くん、と匂いを嗅ぐと、颯季さんの肌と愛用の香水が混じった香りが鼻腔に雪崩れこんできた。もっともっとと貪るように、すううと深く息を吸いこめば、俺の思考を颯季さんの匂いが埋め尽くす。あまりに官能的な体験に、脳髄のあたりがくらりと痺れた。同時に、胸のあたりがきゅっと締めつけられ、体の芯にじわりと熱が点る。
こんなことをしてはいけない。家主のいない間に寝室に忍びこみ、恋人のシャツを嗅ぎながら、ここにいない人を想って体を熱くする。こんなのは変態以外の何者でもない。もしこの姿を見たら颯季さんはどう思うだろう。今度こそ俺への愛想を尽かすかもしれない。
やめるんだ。まだ取り返しがつく。今すぐシャツを元の場所に置いて、回れ右をして自分の寝床に帰るんだ。それが最善だと理解しているのに、一度生まれた種火はどんどん熱さと大きさを増していく。
俺は颯季さんのベッドに腰かける。パジャマの中からとっくに猛ったそれを取り出して、シャツを嗅ぎながら片手で扱く。
「颯季さん、颯季さん……」
シャツの中にくぐもる息は、自分でもびっくりするほど熱くなっていた。
片手で昂りを刺激するだけでは足りなくなって、ベッドに体を横たえる。顔をシャツに埋めるようにしながら、持ち込んだローションを後ろに垂らして、前も後ろも同時に弄くる。ぐちゅぐちゅといういやらしい音は、俺のさもしい精神の具現みたいに聞こえた。
「はあっ……颯季さ、んん……」
これじゃ足りない、と指を咥えた後ろが切なく訴えてくる。
賑々しく級友に囲まれているでろう颯季さんと、こうして独りで自らを慰めている自分。惨めで、だからこそ興奮した。きっと惨めな方が、俺にはお似合いなのだ。
こうしていると思い出すことがある。俺を初めて抱く前の、「守備範囲広いんだ、ぼく」という颯季さんの言葉。それはつまり、彼は男女関係なく抱けるという意味だろう。
俺に不満があったり、飽きが来ていたりしたら? 同窓会で久しぶりに会った女性と盛り上がり、「実は昔から好きだった」なんて言われて、誘われるままに二人だけの夜を――なんてことも起こりうるんじゃないか。
俺とは違う、起伏のある柔らかでなよやかな肢体を、そっと抱き寄せる颯季さんを想像する。きっと彼は、男性も女性も等しく優しく抱くのだろう。俺にするのと同じように。
颯季さんは素敵だから、俺以外が好きになるのも無理からぬことだ。ただ、俺には他人が持っていないアドバンテージをひとつだけ持っている。
彼の仕事に、役に立っているという点。それだけが今の俺の拠りどころだ。颯季さんが俺を仕事の相棒でいさせてくれる限り、この場所は譲れない。譲らない。
颯季さんへの思慕が急激に膨らむのと同時に、腹の奥から熱が湧き上がってくる。
「颯季さんっ……役に立つから、捨てないで……ッ」
「捨てないよお!」
……え?
なんだろう。おかしいな、今、幻聴が聞こえたような……。
「哲くん、ごめん。見る気はなかったんだけど……」
いや。これは幻聴なんかじゃない。恐るおそる顔をドアの方へ向けると、廊下の照明を背に、影となった颯季さんの姿があった。
現実から何秒も遅れて、俺は混乱の渦に突き落とされる。どうして、いま、彼がそこに。
「えっ……は、ぅあ……? さつき、さん……?」
「本当にごめんね。立ち聞きをするつもりはなくて、でも哲くんがぼくを呼んでたみたいだから、それでつい……」
颯季さんが寝室に入ってくる。喉がひゅうひゅうと喘鳴を上げていた。ああ、終わった。人間として最も卑しい行為を見られてしまった。恋人の表情を見る気概がない俺は顔を俯ける。そこでようやく、自分の全身がかたかたと小刻みに震えているのに気づいた。
「あのっ、その、俺……すみません。こんな、最低なことして……」
舌がうまく回らない。あんなに火照っていた体も今や冷えきっている。颯季さんの腕が伸びてきて、肩がびくりと跳ねた。
「哲くん、こっち見てよ」
優しい声とともに、頭をそっと撫でられて。
そろそろと面を上げると、月光にぼんやり照らされた颯季さんの顔には、怒りの色は微塵もなかった。慈しむような、切ないような、それでいて切羽詰まったような、こちらの胸が締めつけられそうな表情が浮かんでいる。
「そんな顔しないで。ぼく、怒ったりしてないから」
「……本当に?」
「もちろん。家中真っ暗なのに声が聞こえてきたから、最初泥棒かと思っちゃったけどね」
「う……すみません……」
好転したという一言では到底言い表せない、それはほとんど生まれ変わったと言えるほどの変化だ。彼と出会う前の俺の底辺生活と比べたら、まさに雲泥の差、月とスッポン、地獄から天国である。
しかしながら――俺を苛む悩みの種が、ひとつだけあるのだった。
――まただ。また、見られている。
自分が勤める事務所の近くにある商店街。そこを抜けたところで、項あたりに刺さる視線を感じた。それも一対ではない、いくつもの瞳がこちらの一挙手一投足をじっとりと見つめている気配。先ほど古い店舗を改装したいい雰囲気のカフェを見つけ、今度颯季さんと来たいなと考えたときの、意気揚々とした気持ちがしゅんと萎んでいく。
最近、こういうことが増えた。颯季さんに紹介されたジムへ通うようになり、体幹もそこそこしっかりしてきたからか、背すじを伸ばして歩けるようになったのに、胡乱な気配のせいで背中が丸くなってしまう。無駄に目立つ無意味な上背が恨めしかった。
こちらへ粘着質の視線を送る厳つい男と目が合いそうになり、慌てて直前で目線を逸らす。俺の眼には霊がはっきり見えすぎてしまうため、じっと見ない限り相手が生者か死者かは判断できないが、見つめてくる存在が全員幽霊だとしたらかなりの数だ。こんなに急激に、俺の生活圏にばかり幽霊が増えるものだろうか。
向けられた気配を振り払うように、早く家に帰ろう、と歩を速めた。
事務所兼自宅に戻ると、そこには颯季さんが来ていた。俺を認めるとにぱっと破顔し、ソファから立ち上がる。
「お帰り、哲くん」
「ただいまです。えっと……何かあったんですか?」
問いかける声にやや困惑が混じってしまったのは、颯季さんの服装のせいだった。いつもチンピラ紛いの派手な格好をしている彼が、今は淡いオリーブ色のセットアップに照りのある黒シャツという、普段と比べれば格段に落ち着いた服を着ているのだ。
「実は明日、高校の同窓会があるから着ていく服を選んでたんだ。この服装、どうだろ?」
颯季さんがその場でくるりとターンすると、ジャケットの裾が持ち上がってひらめく。おどけた仕草が彼には妙に似合っていて、舞台俳優のように見えた。
「え、と。……格好いいです」
訊かれたことに正直に答えたつもり、だったのだが。
当の颯季さんが「えっ」と驚いて頬を赤くする。
「あー、服が変じゃないか訊いたつもりだったんだけど。格好いい、かあ。へへ……」
「その、なんか、すみません……」
「んーん。哲くんに言われると嬉しいよ。おかしくないならいいんだ」
互いに照れた顔を見合わせて、さらに照れが加速する。
「……えっと。少し早いけど、夕飯の支度する?」
「そ、そうですね。一緒に作りましょう」
二人ともぎこちない会話を交わして、そそくさとそれぞれの準備に取りかかる。颯季さんは着替えるためか、彼の住居に一度戻っていった。
一人きりになった部屋でふうと浅く息を吐く。同窓会、か。学生時代など暗黒の日々でしかなかった俺には、今さら顔を合わせたい人もいない。その点、明るくて社交的な颯季さんはきっと友達も多かっただろう。
俺が出会う前の、俺の知らない颯季さん。
ちくりと胸が痛む。無用な感傷だと分かってはいた。どうやったって時が逆戻りなんてしないのだから。
でも、同窓会を楽しみにしていそうな彼の笑顔を思い返すと、どうしても寂しさに取りつかれてしまうのだった。
明くる日。颯季さんは「帰りは遅くなると思うし、もしかしたら泊まりになるかもしれないから、哲くんは一人でゆっくりしてねえ」と言い置いて出かけていった。
俺たちは恋人と言っても、別に四六時中一緒にいるわけではない。一日中そばで過ごす日もあるにはあるが、基本的には一人でいる時間も互いに確保している。だから、半日くらい自分だけで過ごすなんて何てことはない。俺は何年も、孤独に浸って生活してきたのだし。
そう言い聞かせても心臓あたりにまとわりつく、この寒々しい焦燥感は何なのだろう。俺はいつの間にか、こんなにも独りに弱くなってしまったらしい。
冷蔵庫にあった余り物で適当に夕飯を済ませ、颯季さんといつも観ているテレビ番組を何とはなしに眺めて、お風呂に入ってしまうともうやることがない。いっそ早めに寝てしまおうか、とすごすごとベッドに身を横たえるものの、眠気は一向にやってこない。それどころか、颯季さんは今何をしているんだろう、昔の話に花を咲かせたり、気の置けない友人に囲まれたり、そうして楽しく大勢で談笑しているのだろうか、ととりとめもない想像が脳裏をぐるぐると駆け巡って収拾がつかない。
かえって目が冴えてしまった俺はベッドから抜け出た。サイドチェストの抽斗から目的のものを取り出して、そっと自分の住居である事務所をあとにする。向かった先は、一階上にある颯季さんの家だった。
ガチャリと響いた開錠の音におののきながら、家主のいない部屋に忍びこむ。そこは当然ながら真っ暗で、俺の心臓の鼓動だけが反響しているんじゃないかと思うほど、室内はしんと静まりかえっていた。颯季さんからはいつでも出入りしていいよと合鍵を渡されているけれど、とても悪いことをしている気分だ。知らず知らず無意味に足音を消して歩いてしまう。
目指すは、颯季さんのベッドルームだった。
わずかに開いたドアの先には、恋人のベッドがうっすらと月明かりに照らされていた。同窓会へ出発する前に着ていたのであろう柄シャツが、そこに脱ぎ捨てられている。
ふらふらとベッドに近づき、シャツを手に取る。俺は何をしているんだ、という心の声に反して体が勝手に動き、手に持ったシャツを自らの鼻に押しつけていた。
くん、と匂いを嗅ぐと、颯季さんの肌と愛用の香水が混じった香りが鼻腔に雪崩れこんできた。もっともっとと貪るように、すううと深く息を吸いこめば、俺の思考を颯季さんの匂いが埋め尽くす。あまりに官能的な体験に、脳髄のあたりがくらりと痺れた。同時に、胸のあたりがきゅっと締めつけられ、体の芯にじわりと熱が点る。
こんなことをしてはいけない。家主のいない間に寝室に忍びこみ、恋人のシャツを嗅ぎながら、ここにいない人を想って体を熱くする。こんなのは変態以外の何者でもない。もしこの姿を見たら颯季さんはどう思うだろう。今度こそ俺への愛想を尽かすかもしれない。
やめるんだ。まだ取り返しがつく。今すぐシャツを元の場所に置いて、回れ右をして自分の寝床に帰るんだ。それが最善だと理解しているのに、一度生まれた種火はどんどん熱さと大きさを増していく。
俺は颯季さんのベッドに腰かける。パジャマの中からとっくに猛ったそれを取り出して、シャツを嗅ぎながら片手で扱く。
「颯季さん、颯季さん……」
シャツの中にくぐもる息は、自分でもびっくりするほど熱くなっていた。
片手で昂りを刺激するだけでは足りなくなって、ベッドに体を横たえる。顔をシャツに埋めるようにしながら、持ち込んだローションを後ろに垂らして、前も後ろも同時に弄くる。ぐちゅぐちゅといういやらしい音は、俺のさもしい精神の具現みたいに聞こえた。
「はあっ……颯季さ、んん……」
これじゃ足りない、と指を咥えた後ろが切なく訴えてくる。
賑々しく級友に囲まれているでろう颯季さんと、こうして独りで自らを慰めている自分。惨めで、だからこそ興奮した。きっと惨めな方が、俺にはお似合いなのだ。
こうしていると思い出すことがある。俺を初めて抱く前の、「守備範囲広いんだ、ぼく」という颯季さんの言葉。それはつまり、彼は男女関係なく抱けるという意味だろう。
俺に不満があったり、飽きが来ていたりしたら? 同窓会で久しぶりに会った女性と盛り上がり、「実は昔から好きだった」なんて言われて、誘われるままに二人だけの夜を――なんてことも起こりうるんじゃないか。
俺とは違う、起伏のある柔らかでなよやかな肢体を、そっと抱き寄せる颯季さんを想像する。きっと彼は、男性も女性も等しく優しく抱くのだろう。俺にするのと同じように。
颯季さんは素敵だから、俺以外が好きになるのも無理からぬことだ。ただ、俺には他人が持っていないアドバンテージをひとつだけ持っている。
彼の仕事に、役に立っているという点。それだけが今の俺の拠りどころだ。颯季さんが俺を仕事の相棒でいさせてくれる限り、この場所は譲れない。譲らない。
颯季さんへの思慕が急激に膨らむのと同時に、腹の奥から熱が湧き上がってくる。
「颯季さんっ……役に立つから、捨てないで……ッ」
「捨てないよお!」
……え?
なんだろう。おかしいな、今、幻聴が聞こえたような……。
「哲くん、ごめん。見る気はなかったんだけど……」
いや。これは幻聴なんかじゃない。恐るおそる顔をドアの方へ向けると、廊下の照明を背に、影となった颯季さんの姿があった。
現実から何秒も遅れて、俺は混乱の渦に突き落とされる。どうして、いま、彼がそこに。
「えっ……は、ぅあ……? さつき、さん……?」
「本当にごめんね。立ち聞きをするつもりはなくて、でも哲くんがぼくを呼んでたみたいだから、それでつい……」
颯季さんが寝室に入ってくる。喉がひゅうひゅうと喘鳴を上げていた。ああ、終わった。人間として最も卑しい行為を見られてしまった。恋人の表情を見る気概がない俺は顔を俯ける。そこでようやく、自分の全身がかたかたと小刻みに震えているのに気づいた。
「あのっ、その、俺……すみません。こんな、最低なことして……」
舌がうまく回らない。あんなに火照っていた体も今や冷えきっている。颯季さんの腕が伸びてきて、肩がびくりと跳ねた。
「哲くん、こっち見てよ」
優しい声とともに、頭をそっと撫でられて。
そろそろと面を上げると、月光にぼんやり照らされた颯季さんの顔には、怒りの色は微塵もなかった。慈しむような、切ないような、それでいて切羽詰まったような、こちらの胸が締めつけられそうな表情が浮かんでいる。
「そんな顔しないで。ぼく、怒ったりしてないから」
「……本当に?」
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