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2.夏合宿の始まり

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 その日の朝、俺は嫌な夢を見た。

 でも起き抜けに『やめろ!』と声を上げた以外には何も覚えていなくて、夢の内容を思い出そうとすると頭痛がして……こういうことは初めてではない。何か、俺の記憶を、思い出そうとすることを脳が拒否しているらしい。ただ不意に、先日俺の勧誘で俺の所属する映研の『専属女優契約』に応じてくれた、黒髪美女の響ちゃんのことを何となく思い出す。そうか、今日が撮影合宿初日。スマホを開いて時計を見ると、時刻は午前六時で港での集合時間の一時間前だった。

「はぁ……あっぶね」

 俺のアパートから、部長の家のクルーズが泊めてある港まで、バスで三十分はかかる。昨日の夜に五日分の泊りの荷物は纏めてあるけれど、今日の支度はまだまだこれからで、とにかく取りあえず、脂汗をかいてしまった顔を洗ってシャワーを浴びようと洗面所に向かった俺である。

***

「皆、集合! 部員は揃ってるわね? 役者組も、ヨーシ!!」

 シャワーを浴びてサッパリした俺が、今度は満員バスに揺られてまたうっすら汗をかいてしまいつつ赴いた港には、それは豪勢な個人所有とは思えないクルーズが泊まっている。主演女優の響ちゃんと、それに付いてきて俳優契約をしたイケメンの宇都木は今日も仲良く二人同伴で現場まで来て、部長に『何よ、二人はデキてるの?』と、そう聞かれては『『それは違います』』とまた断固として否定をしていた。部長が皆を見渡した後、一人一人の点呼を副監督の安来先輩が取って、それでもって全員が遅れることなく集合したことを確認しては、総勢十名の映研部員プラス役者は部長のクルーズに乗り込んだ。

「市原、こういうクルーズは初めて?」

 部長の家の別荘がある孤島まで、船で一時間。その道のりの半分も来たところでデッキに出て項垂れている俺に、才女でお嬢様(おまけにこちらも結構な美女)な部長が声をかけてきた。部員たちは皆、船内でUNOをして盛り上がっているから、さっと抜け出した俺に部長は目敏く気が付いたらしい。船酔いで吐きそうになっている所を俺は弱弱しいB級面で振り返って、弱弱しく笑って見せる。

「ええ……まあ。あの、超大型ってやつでは旅をしたことはあるんですが」
「そう。そういえば市原のおじいさまおばあさまは、結構な富豪だって話だったわね」
「そうなんです。すねかじりっていうか、子供の特権で、彼らの船旅に付いていったことがあって」
「どこの国のクルーズ?」
「ちょっと、覚えてないです。セントラルなんとか号とかいう名前だったような」
「アンタって本当にいい加減ねぇ」

 くすくす笑った部長が俺の隣、肘をついて柵に背を付ける。波しぶきの音と風の音、海鳥の声に交じって皆のたのし気な声がする中、それでも部長は皆の所に帰る様子が無いから、

「部長、良いんですか? きっと皆、あなたを待っていますよ」
「どうだかね。煩いお嬢様が居なくなって伸び伸びしてるんじゃないかしら?」
「自覚あったんですか」
「ちょっと、少しはフォローしなさいよ」
「いや、本当にその通りなので仕方ないですよ」

 俺の憎まれ口と言うか正直さにも部長はにんまり口を笑ませて嬉しそうにして、俺の頭をこつんと小突いてくすぐったそうに笑う。

「アンタのそういうズケズケした所には、まあ私も助けられてるわ」
「助けられて?」
「あんたと居るとね、自然で居られるっていうか。ううん、それよりも映画の、制作意欲がぐんぐん沸いてくるの」
「はあ、そうですか?」
「この意味、あんた本当に解ってる?」
「この意味って……」

 俺が言いかけた所、船内からあの野郎、響ちゃんの連れで主演俳優の宇都木が繰り出してきて部長と俺を呼んだ。

「部長、市原! 部長は次の出番だから、みんながお待ちですよ、」
「いま行くわ」

 俺の疑問に答えず上機嫌なままの部長は船内に戻っていって、それでもまだ吐き気と戦っている俺の元に、今度は宇都木が並んで立つ。

「なんだ市原、船酔いか?」
「悪いかよ……」
「悪くはないさ。ただ、響がお前のことを心配してるから」
「響ちゃんが?」

 一週間前確かに彼女の勧誘に成功はしたけれど、それからといって良いものの、俺は響ちゃんと会話らしい会話をしていない。あの日の俺への気のあるそぶり、と思った素振りも、きっとやっぱり俺の勘違いだったんだな。と、そう思っていたのに、ちょっと席を外したくらいで俺を心配するだなんて。なんだか胸がじくじくして、眉を上げて考え込むと宇都木がボソッと、

「本当に、覚えてないんだな」

 そう言ったから、

「えっ?」

 隣の宇都木を見ると、いつも愛想の良い宇都木が怒ったような顔になっていて、そのままぷいっと船内に帰って行ってしまった。
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