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六、
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翌朝、僕はバス通学初日を控えて、興奮の余り五時半に目が醒め、ランドセルの中を何度も確かめたり、昨日もらったバスの定期券をちらちら取り出したりしていたが、マユミちゃんはなかなか起きてこない。起こしに行くとジャージ姿で目の端に目やにをつけたまま、「たっちゃんに目覚まし時計とられちゃったから」と言った(携帯電話が目覚まし時計代わりになるほど普及していなかった時代の話である)。
「朝ごはん、何が食べたい?」
「目玉焼きと、パン」
そこで、マユミちゃんはサンダルをつっかけて台所へ下り(昔の家なので台所は玄関の隣、土間の中にあるのだ)、そこに似つかわしくない最新式の冷蔵庫から玉子を一つ取り出してフランパンで焼こうとしてくれたのだが、僕はすぐ、マユミちゃんに調理をさせたことを後悔した。
まず、台所から「べしゃ」という音がして「あ~」という声が聞こえてきた。何かと思って見てみると、フライパンの上で殻ごと割れた(割った、ではない)玉子がジュワジュワいっていた。しかも、黄身がもう丸い原型を留めていなくて、ぺたんこになって、白身と交わり合って不思議な模様を描いていた。マユミちゃんの指にも、黄身と白身がべったりこびり付いている。どうやら古い玉子だったようだ。
「何やってるの」とさすがに僕がイラついた声で聞くと、「玉子……」とマユミちゃんは気まずそうに言った。そう言えば、僕はそれまでマユミちゃんが料理をしているのを見たことがなかった。でもまさか、ここまで手先が不器用だとは。
仕方なく玉子は諦めた。パンは幸い、棚に賞味期限がまだ切れていない食パンがあった。ジャムやバターもほしかったが贅沢は求めないことにした。それからさらに、冷蔵庫にはスーパーで買ってきたカットフルーツも、まだ食べられそうな状態であった。苺とかキウイフルーツとか、自分で洗って切れそうなものばかりだったけど、マユミちゃんはそれができないのでカットしたものを買ってきて食べているのだった。
食べ終わると、バスが来る時間まであと十分しかなかった。バス停まではマユミちゃんが送ってくれた。振り返ると僕を連れて、化粧もしていないのに誇らしげなマユミちゃんの顔がそこにあった。
看板の表示より三分遅れてやって来たバスには、僕たちと違う顔立ちをした外国の人たちがたくさん乗っていた。中の二十才ぐらいの女の子二人が、マユミちゃんを見かけると中からハーイと声をかけた。どうやら彼女たちと顔見知りらしい。そのぐらいの歳頃から、四十過ぎぐらいの人まで、男と女が半々ぐらい、みんな僕の知らない言葉を話して、学校の二つ手前の、野菜工場があるところの停留所で下りていった。
僕は朝から知らない人たちに囲まれたせいか、急にお腹が痛くなった。だから、学校に着くといつものように校庭のドッジボールには加わらないで、一階の一年生のトイレに駆け込み、個室で誰かに見つからないかビクビクしながら用を足した。外を通り過ぎていく一年生の声は聞こえたけれど、幸い誰も来なかった。
その日の昼休み、僕は図書室へ行って、子供向けの料理の本を借りた。テレビに出ている、有名な料理家が書いた本。ツナの缶詰で作る「ツナじゃが」とか、「簡単おやき」とかの作り方を、昼休みが終わるまで夢中になって読み込んだ。僕はそれまで危ないからといって、揚げ物や炒め物などの強い火を使う料理を父から禁止されていたが、これからはそんなことを言っていたら食べたいものは食べられそうにない。それは僕にとっては大変ではあったが、反対に好きな物を自分で作って食べられるという自由の始まりでもあった。
昼休みが終わって掃除の時間になっても、僕は今夜のご飯のことを考えていた。今朝見てみたら、マユミちゃんの冷蔵庫の中にはあまり食べ物が入っていなかった。ということは、買い物もしなければならないということだ。お金は……あ、そうだ、これから、お金のことはどうしよう?
ふと箒の先が何かにぶつかる感触があって、すぐ隣で「いて」という声がした。振り向くと三組にいる佑樹だった。
「うわー、危うく足払い食らわされるところだった~」
調子のいい佑樹は僕の使っていた箒の先をぴょんと飛び越えた。僕はどうやら考え事をしていて、うっかり佑樹の足に箒をぶつけてしまったらしい。
「ねー、辰起、あの家でマユミちゃんと一緒に暮らし始めたってホント?」
ああ、親戚同士って情報も筒抜けなんだ、うっとうしい。僕は床から顔を上げないまま「うん」と言った。同じ小学生でも、佑樹はこれから家に帰ったらご飯を作ってくれるカスミおばちゃんがいるのだと思うと、僕は少し不公平感を感じたけれど、逆に自分が先に大人になったのだと言い聞かせてちょっとした優越感に浸った。
「ねー、そのうち遊びに行ってもいい?」
「ああ、いいよ、ミニ四駆も持っていってるし。」
「えーほんとー」と佑樹は目を輝かせたが、「あ、でも、猫連れて行ってないんでしょ、ならつまんないな」と僕を凹ませる台詞を吐いた。
僕たちは一時期、マロのいる前でミニ四駆を走らせるのにはまっていた。マロは果敢な猫で、ミニ四駆が走ると追いかけたりひっくり返したり、時々壊されることもあったけれど、それでも僕たちはそれが面白くてたまらなかった。
僕は黙って、佑樹の顔を見返した。「ならつまんないな」という言葉は、けっこう胸の奥に刺さった。その時、「ゆうきー」と三組のクラスメートたちの呼ぶ声がして、佑樹は「おーう」と雑巾を振ってそっちへ歩いていった。佑樹は人気者であるらしい。
「朝ごはん、何が食べたい?」
「目玉焼きと、パン」
そこで、マユミちゃんはサンダルをつっかけて台所へ下り(昔の家なので台所は玄関の隣、土間の中にあるのだ)、そこに似つかわしくない最新式の冷蔵庫から玉子を一つ取り出してフランパンで焼こうとしてくれたのだが、僕はすぐ、マユミちゃんに調理をさせたことを後悔した。
まず、台所から「べしゃ」という音がして「あ~」という声が聞こえてきた。何かと思って見てみると、フライパンの上で殻ごと割れた(割った、ではない)玉子がジュワジュワいっていた。しかも、黄身がもう丸い原型を留めていなくて、ぺたんこになって、白身と交わり合って不思議な模様を描いていた。マユミちゃんの指にも、黄身と白身がべったりこびり付いている。どうやら古い玉子だったようだ。
「何やってるの」とさすがに僕がイラついた声で聞くと、「玉子……」とマユミちゃんは気まずそうに言った。そう言えば、僕はそれまでマユミちゃんが料理をしているのを見たことがなかった。でもまさか、ここまで手先が不器用だとは。
仕方なく玉子は諦めた。パンは幸い、棚に賞味期限がまだ切れていない食パンがあった。ジャムやバターもほしかったが贅沢は求めないことにした。それからさらに、冷蔵庫にはスーパーで買ってきたカットフルーツも、まだ食べられそうな状態であった。苺とかキウイフルーツとか、自分で洗って切れそうなものばかりだったけど、マユミちゃんはそれができないのでカットしたものを買ってきて食べているのだった。
食べ終わると、バスが来る時間まであと十分しかなかった。バス停まではマユミちゃんが送ってくれた。振り返ると僕を連れて、化粧もしていないのに誇らしげなマユミちゃんの顔がそこにあった。
看板の表示より三分遅れてやって来たバスには、僕たちと違う顔立ちをした外国の人たちがたくさん乗っていた。中の二十才ぐらいの女の子二人が、マユミちゃんを見かけると中からハーイと声をかけた。どうやら彼女たちと顔見知りらしい。そのぐらいの歳頃から、四十過ぎぐらいの人まで、男と女が半々ぐらい、みんな僕の知らない言葉を話して、学校の二つ手前の、野菜工場があるところの停留所で下りていった。
僕は朝から知らない人たちに囲まれたせいか、急にお腹が痛くなった。だから、学校に着くといつものように校庭のドッジボールには加わらないで、一階の一年生のトイレに駆け込み、個室で誰かに見つからないかビクビクしながら用を足した。外を通り過ぎていく一年生の声は聞こえたけれど、幸い誰も来なかった。
その日の昼休み、僕は図書室へ行って、子供向けの料理の本を借りた。テレビに出ている、有名な料理家が書いた本。ツナの缶詰で作る「ツナじゃが」とか、「簡単おやき」とかの作り方を、昼休みが終わるまで夢中になって読み込んだ。僕はそれまで危ないからといって、揚げ物や炒め物などの強い火を使う料理を父から禁止されていたが、これからはそんなことを言っていたら食べたいものは食べられそうにない。それは僕にとっては大変ではあったが、反対に好きな物を自分で作って食べられるという自由の始まりでもあった。
昼休みが終わって掃除の時間になっても、僕は今夜のご飯のことを考えていた。今朝見てみたら、マユミちゃんの冷蔵庫の中にはあまり食べ物が入っていなかった。ということは、買い物もしなければならないということだ。お金は……あ、そうだ、これから、お金のことはどうしよう?
ふと箒の先が何かにぶつかる感触があって、すぐ隣で「いて」という声がした。振り向くと三組にいる佑樹だった。
「うわー、危うく足払い食らわされるところだった~」
調子のいい佑樹は僕の使っていた箒の先をぴょんと飛び越えた。僕はどうやら考え事をしていて、うっかり佑樹の足に箒をぶつけてしまったらしい。
「ねー、辰起、あの家でマユミちゃんと一緒に暮らし始めたってホント?」
ああ、親戚同士って情報も筒抜けなんだ、うっとうしい。僕は床から顔を上げないまま「うん」と言った。同じ小学生でも、佑樹はこれから家に帰ったらご飯を作ってくれるカスミおばちゃんがいるのだと思うと、僕は少し不公平感を感じたけれど、逆に自分が先に大人になったのだと言い聞かせてちょっとした優越感に浸った。
「ねー、そのうち遊びに行ってもいい?」
「ああ、いいよ、ミニ四駆も持っていってるし。」
「えーほんとー」と佑樹は目を輝かせたが、「あ、でも、猫連れて行ってないんでしょ、ならつまんないな」と僕を凹ませる台詞を吐いた。
僕たちは一時期、マロのいる前でミニ四駆を走らせるのにはまっていた。マロは果敢な猫で、ミニ四駆が走ると追いかけたりひっくり返したり、時々壊されることもあったけれど、それでも僕たちはそれが面白くてたまらなかった。
僕は黙って、佑樹の顔を見返した。「ならつまんないな」という言葉は、けっこう胸の奥に刺さった。その時、「ゆうきー」と三組のクラスメートたちの呼ぶ声がして、佑樹は「おーう」と雑巾を振ってそっちへ歩いていった。佑樹は人気者であるらしい。
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