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七、

七、

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 その日僕は、バスを待っている間に料理の本のあちこちを見た。学校の近くのバス停から五分ほど歩くと、昨日まで暮らしていた家がある。僕はそちらの方向をちらりと見やって、すぐに考えるのをやめ、代わりに、ツナじゃがのページを何度も見て、今夜必要な材料をもう一度確認した。そしてやって来たバスに乗り、降りるとマユミちゃんの家とは反対方向へ歩いていった。何度もお菓子を買ってもらった「スズヤ」の方向だ。普段小学校ではランドセルを背負ったままどこかへ行ってはいけないと言われていたが、ここは学校の近所じゃないから、知っている友達の目はないし、父が持たせてくれた定期入れの中には、千円札が一枚入っていたから、これで買えるはずだ。
 店より大きい駐車場を横切り、広い売り場でじゃがいもと玉ねぎとツナ缶を探す。学校で授業を受けた後だから、ちょっと疲れて、慣れているはずのその店が広く感じられた。レジで千円札を渡すと、お釣りが定期入れの中でジャラジャラいった。僕はそれを慌ててランドセルにしまい込み、大股でマユミちゃんの待つ家へ歩いていった。
 マユミちゃんは、ちゃぶ台に向かって履歴書を書いていた。そして、僕が帰ってきたのを認めると「スズヤにご飯を買いに行かなきゃ」と言った。
「大丈夫、」僕は買ってきたじゃがいもと玉ねぎの大袋、それにツナ缶の四つセットをマユミちゃんの前に並べた。「今夜は僕が作るから」。マユミちゃんは座ったまま、僕の顔をぼんやりと見上げていた。
 一時間後、ツナじゃがは初めてにしては上手にできた。だが、想定外のことも多かった。みりんと料理酒の賞味期限が一昨年になっていて、すでに味が変わってしまっていたし、ご飯を炊かなければならないのにお米に虫が湧いていたので、マユミちゃんは再度いろいろ買い出しに行かなければならなかった。それから、僕の買ってきたじゃがいもがメイクイーンじゃなくて男爵だったので、すっかり煮溶けてしまったし、玉ねぎも少し硬かった。けれどマユミちゃんは「美味しいよ」と子供のような笑顔を浮かべて、サトウのパックご飯をプラスチックパックのままつついた。お茶碗は、と聞いたら、「割った」という返事が返ってきた。
 ご飯が終わると、僕は食卓で学校の宿題をした。しかし、算数の問題で僕は父の残る家に定規を忘れてしまったことを思い出した。マユミちゃんにそのことを言うと、自分の使っていたのを貸してくれた。
「たっちゃん、使い終わったら返してよ。あたしも使うから。」
 マユミちゃんの前には、履歴書と鉛筆とボールペンが置かれている。僕が返すと、マユミちゃんは猫背になり、履歴書にまた文字を書き込み始めた。文字が曲がらないよう、定規に沿って履歴書の欄に文字を埋めていく。
 マユミちゃんは字を書くのも下手だった。字の列をまっすぐ書くこともできなかった。まだパソコンどころか、ワープロで履歴書を書くことも普及していない時代だったから、マユミちゃんは中指と人差し指を強張らせ、手全体をプルプル震わせながら履歴書を書いていた。こんな不器用さと要領の悪さで何度仕事を首になっても、マユミちゃんは何度も履歴書を書いて、新しい仕事を探し続けていた。
 僕はその晩、父に電話をかけた。七回か八回呼び出し音が鳴って、父はようやく出た。酒を飲んでいたのかもしれない、少し酔ったような、ろれつの回らない口調だった。
 僕は今日、自分が晩ご飯にツナじゃがを作ったことを報告した。褒めてもらえるかなと思ったけれど、父は「ああ、そう」とだけ言って、「それよりマユミは、仕事を探しているか」と聞いた。僕は内心がっかりしながら、「履歴書書いてるみたいよ」と伝えておいた。
 それから僕は、マロをこの家に連れてきてもいいか尋ねた。いいと言ってもらえると思ったのだが、「ダメだよ」と言われた。その理由は、「猫は家につくものだから」というわけのわからないものだった。
 今となっては、あれは父の寂しさだったのだと理解できる。
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