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十七、
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マユミちゃんに会いに行こう、という決意はある日突然やって来た。日曜日で、僕は一人で買ったばかりのバン(生まれて初めて自分で買った車だった)を運転し、ホームセンターに本棚を買いに行こうとしていた。
ふとカーナビを見て、この方向にまっすぐ行けばマユミちゃんの住む家に着くと気がついた。その日たまたま慈は用事があって来られず、隣には友達も乗っておらず、今日行かなければこのままずっと行く機会はないんじゃないかと思ったのだ。
僕たちが新居を構えた市から、マユミちゃんと、かつては僕も暮らしたその家までは、車に乗れば一時間足らずで着いてしまう。携帯に電話しようかと思ったがやめにした。電話が通じなかったら……電話が通じたら……迷っているうちに、出鼻をくじかれてしまう気がしたのだ。
僕はホームセンターを通り過ぎ、別の国道に乗って、すると町並みがだんだん懐かしいものになってきた。外は雨が降っている。僕は傘を持ってこなかったことを思い出した。
当たり前だがその家は、その場所にあったままに建っていた。日に当たり色褪せた板壁に、ひび割れた雨樋から漏れた雨水がおねしょみたいな染みを作っている。覚悟はしていたが、かつてよりさらにボロ屋になっていた。窓にはカーテンが引かれ、中の様子を伺うことはできない。
僕は車を止め、パーカーのフードを羽織って懐かしい木製の引き戸を叩いた(昔の家だから、インターフォンというものはない。その引き戸を叩く音が来訪を伝えるインターフォン代わりだった)。だが引き戸には鍵がかかっておらず、僕が恐る恐る開けると、さらに奥のガラス戸が開いて、男が現れた。
「誰?」僕とさほど年齢は変わらない男だ。実につっけんどんな聞き方だった。
「ここに住んでいる、イケダマユミの甥ですが……」
僕は内心、そっちこそ何者だと思ったが、気圧されて自分から名乗り出てしまった。
男はふんと笑った。
「あの、うちの叔母は……」
「ああ」
男はなぜか僕を睨みつけた。僕は男のほとんど監視といってもいいほどの視線を受けながら、中に入った。家の中は、床にも天井にも、この男の体臭が染み込んでいる。僕は男がここに住んでいるのだと確信した。
僕がかつて使っていた奥の部屋に布団が敷かれ、マユミちゃんはそこに寝ていた。正確には腰のところにクッションが敷かれ、やや上体を起こした形になっていた。顔は黄土色になって、頭にはピンク色のニット帽を被っていたが、髪の毛も抜けてしまったのだろうか。まだ四十歳そこそこだったはずだが、ずっと老けて見えた。そして、小さな座卓の上には病院から出された薬の紙袋が無造作に散らばっており、空気の中にはほのかな排泄物の臭いが漂っている。
何より僕がショックだったのは、マユミちゃんが「たっちゃん」と呼んでくれるかと思ったら、相変わらず視線が定まらないままだったのだ。僕は一瞬、本当にマユミちゃんなのか疑ったほどだった。
しかし、その時薬の袋の文字が目に止まった。確かに、「池田真優美さま」と書かれていた。父がいつも「真っすぐに、優しく、美しく」という理由でつけたと言っていたその名前。
「マユミちゃん……」
後ろに突き刺すような視線を感じて振り向くと、男が吐き捨てるように「ここのところずっとこんな感じだ」と言った。「癌が脳に回ってきたんだってよ」。
僕が言葉を失っていると、男が襖を平手でバン!と叩いた。マユミちゃんが一瞬、視線が合わないままビクッとした。僕は勇気を出して聞いた。
「あなたどこの誰なんです?」
「見りゃわかるだろ、叔母さんの世話してる男だよ。」
男が声を上げると、それまで黙っていたマユミちゃんが何やら声を上げた。弱々しかったが、「トオル」とも聞こえた。すると男が座卓の隣にあったプラスチック容器を布団の中に入れ、「見るなよ」と言うように、僕の視線を背中で遮った。静かな排尿の音がして、新たな臭いが漂った。この男は、いよいよ間違いなくマユミちゃんの「男」なのであるらしい。
ふとカーナビを見て、この方向にまっすぐ行けばマユミちゃんの住む家に着くと気がついた。その日たまたま慈は用事があって来られず、隣には友達も乗っておらず、今日行かなければこのままずっと行く機会はないんじゃないかと思ったのだ。
僕たちが新居を構えた市から、マユミちゃんと、かつては僕も暮らしたその家までは、車に乗れば一時間足らずで着いてしまう。携帯に電話しようかと思ったがやめにした。電話が通じなかったら……電話が通じたら……迷っているうちに、出鼻をくじかれてしまう気がしたのだ。
僕はホームセンターを通り過ぎ、別の国道に乗って、すると町並みがだんだん懐かしいものになってきた。外は雨が降っている。僕は傘を持ってこなかったことを思い出した。
当たり前だがその家は、その場所にあったままに建っていた。日に当たり色褪せた板壁に、ひび割れた雨樋から漏れた雨水がおねしょみたいな染みを作っている。覚悟はしていたが、かつてよりさらにボロ屋になっていた。窓にはカーテンが引かれ、中の様子を伺うことはできない。
僕は車を止め、パーカーのフードを羽織って懐かしい木製の引き戸を叩いた(昔の家だから、インターフォンというものはない。その引き戸を叩く音が来訪を伝えるインターフォン代わりだった)。だが引き戸には鍵がかかっておらず、僕が恐る恐る開けると、さらに奥のガラス戸が開いて、男が現れた。
「誰?」僕とさほど年齢は変わらない男だ。実につっけんどんな聞き方だった。
「ここに住んでいる、イケダマユミの甥ですが……」
僕は内心、そっちこそ何者だと思ったが、気圧されて自分から名乗り出てしまった。
男はふんと笑った。
「あの、うちの叔母は……」
「ああ」
男はなぜか僕を睨みつけた。僕は男のほとんど監視といってもいいほどの視線を受けながら、中に入った。家の中は、床にも天井にも、この男の体臭が染み込んでいる。僕は男がここに住んでいるのだと確信した。
僕がかつて使っていた奥の部屋に布団が敷かれ、マユミちゃんはそこに寝ていた。正確には腰のところにクッションが敷かれ、やや上体を起こした形になっていた。顔は黄土色になって、頭にはピンク色のニット帽を被っていたが、髪の毛も抜けてしまったのだろうか。まだ四十歳そこそこだったはずだが、ずっと老けて見えた。そして、小さな座卓の上には病院から出された薬の紙袋が無造作に散らばっており、空気の中にはほのかな排泄物の臭いが漂っている。
何より僕がショックだったのは、マユミちゃんが「たっちゃん」と呼んでくれるかと思ったら、相変わらず視線が定まらないままだったのだ。僕は一瞬、本当にマユミちゃんなのか疑ったほどだった。
しかし、その時薬の袋の文字が目に止まった。確かに、「池田真優美さま」と書かれていた。父がいつも「真っすぐに、優しく、美しく」という理由でつけたと言っていたその名前。
「マユミちゃん……」
後ろに突き刺すような視線を感じて振り向くと、男が吐き捨てるように「ここのところずっとこんな感じだ」と言った。「癌が脳に回ってきたんだってよ」。
僕が言葉を失っていると、男が襖を平手でバン!と叩いた。マユミちゃんが一瞬、視線が合わないままビクッとした。僕は勇気を出して聞いた。
「あなたどこの誰なんです?」
「見りゃわかるだろ、叔母さんの世話してる男だよ。」
男が声を上げると、それまで黙っていたマユミちゃんが何やら声を上げた。弱々しかったが、「トオル」とも聞こえた。すると男が座卓の隣にあったプラスチック容器を布団の中に入れ、「見るなよ」と言うように、僕の視線を背中で遮った。静かな排尿の音がして、新たな臭いが漂った。この男は、いよいよ間違いなくマユミちゃんの「男」なのであるらしい。
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