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第1章 新担任

第9話 補習授業(1)

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聡はふいに目が覚めた。ガバ、と身を起こす。

―――うそ、もう7時30分!

聡は慌てて髪をまとめ、洋服を着替えると、化粧もせずに家を飛び出した。

 

 

あれから聡は博史の身を案じてずっと眠れなかった。

テレビとパソコンの画面にずっと張り付くように起きていた。

そして、聡が待ち焦がれた、

博史からのメールは、明け方5時すぎにようやく来た。

=====

アキ

まず無事を報告します。

怪我ひとつしていないから安心して。

昨日は、原油プラントに視察に行ってて、

命拾いしました。

すぐに無事を知らせたかったけれど、会社がめちゃめちゃになったし、

同僚が何人も怪我をして、その対応に追われていて、

こんな時間になってしまいました。

いちおう僕の社内で亡くなった人はいないんだけど、

隣の会社の方で、運悪く1階にいた方がいたそうです。

とりあえず、僕は無事です。

心配しただろう、ごめんね。

PS。

本当に霊界からのメールじゃないからね

博史

=====

「よかった。よかった……」

聡はメールを見て涙した。そしてそのまま脱力するように眠ってしまったのだった。

 

 

つかまえたタクシーの中で手早くメイクをした。

―――うわ、真っ黒なクマさん!

聡の目の下にはどす黒い三日月が2つくっきりと浮き出ている。

コンシーラーをぬりたくっても隠せるものではない。

タクシーはなんとか8時すぎに校門前にたどりついた。

道が復旧したのか、今日は来れたらしい多美先生が門の前に仁王立ちになっている。

しかし、茶髪や腰パンの生徒を見るなり、聡は昨日の出来事を思い出した。

テロ報道ですっかり忘れてしまっていたが、聡の体はいまさら固く強張った。

「古城先生?」

立ち止まった聡を見て多美先生が声をかける。

聡は何も言わずに多美先生にだけ会釈して学校へ走りこんだ。

職員室の教師は皆、昨日聡に何が起こったかを知らないようだった。

台風で欠勤した教師が多かった昨日に配慮して少し長めの伝達事項の発表がされたぐらいだ。

朝一番で辞表を出そうと思っていた聡だが、昨夜のことで辞表はまだ書き上げていない。

チャイムがHRを知らせた。聡のいちばん恐れていた時間だ。

聡は胃と頭が急にズキズキするような感覚に襲われた。

―――教室に行きたくない。

しかし、辞めるつもりとはいえ、今は、まだ教師なのである。

行かざるを得ない。

覚悟を決めて、入り口の引き戸を開ける。

聡の気持ちに呼応するようにいっそうレールがきしんだ。

聡の顔をみるなり、昨日の悪童どもは口笛を鳴らした。

机に足を投げ出しながらも珍しく席についているが

「センセ、オッパイまた見せてねー!」

などと野次を飛ばす。

それを見て前の席のまじめそうな生徒までが「なにが起きたのか」という目で聡を見上げる。

昨日、将にアッパーを受けたラテン系こと前原まで頭から顎に包帯を巻きながら

「こんどこそやってやっからな」などと叫んでいる。

「ね、先生やっぱりヤラれちゃったのかな」

とそんな騒ぎの中、カリナはチャミにひそひそと言う。

「ええー、ヤラれたら出てこないでしょ」

とチャミ。

「でもさ、あの目の下のクマ、あれってやっぱり……」

「やめなよ」

聡はキレて、出席簿をバシッと教卓に叩き付けると

「静かにしなさいッ」

と叫んだ。

その瞬間、前の入り口がガラッとあいて背の高い男が息を切らして倒れこむように入ってきた。

その顔を見てクラス中がシーンとした。将だった。

   

 

将が目をさますと、隣で寝ていた瑞樹はいなくなっていた。

それに安心してアクビを1回。睡眠は記憶と共に罪悪感を薄めてくれていた。

リビングへ出ると、『酒飲みゲーム』をしていた奴らが何人か寝ている。

みんな他校のやつらだ。クラスメートは瑞樹も含めてみんな学校へいったらしい。

中学生らしい女の子が一人まだ裸に近い姿で意識がないのを見て将は目をそむけた。

―――クスリを使ったな。

もう一人は部屋の隅でべそをかいていた。服はきちんと着ていたので将はほっとする。

彼女は将を見ると、泣き声が大声になった。

将は声もかけられずあとずさりし、リビングのドアを閉めた。

そこで頬の痛みに気が付いた。まだ少し腫れている。

急いで、昨日実家からもってきた制服を着ようとする。

が全体的にキツイ。袖も足も丈が極端に短い。それもそのはずだ。

この制服をつくってから将は10センチも身長が伸びたのだ。

「毛ズネ丸見えじゃん」

などといいながら、シャツの前をひっぱると脇の下の縫い目がビリっと裂けた。

将は仕方なくいつものように私服で学校へ向かった。

   

 

将は頬を少し腫らしたまま、でもツカツカと聡のほうへ向かってきた。

「おはよ、先生」

将はそれだけいうと教壇の上にあがった。歩いてくる。

どくん。

走ってきたせいか将の息は荒い。

聡はなぜか鼓動が高まるのを感じた。数歩で触れ合うほどの距離。

しかし彼は体を水平にすると聡の横をすり抜けた。

肩が聡の鼻先を通った一瞬、干草のような香りがした。

クラス中がその動向を見守っていた。

将は教壇を降りると

「どいて。そこ俺の席」

一番前、聡が立っている教卓のすぐ脇の席に座っている丸刈りの生徒に将は言った。

「ここは僕の席ですっ!」

と丸刈りは主張した。

「なんだぁ?」

将の眉がいびつにいきり立った。

「将、席替えしたのよ。アンタはこっち」

瑞樹が後ろから将に声をかけた。将は瑞樹が指す一番後ろの隅のその席を一べつすると、

「俺、前がいい。お前、替われよ」

と丸刈りの少年に向き直った。

「嫌ですっ」

丸刈りも負けていない。

「何……」

将が鋭い目でにらみつけるのを見かねて、丸刈りの隣の席の、ハンカチを鼻にあてた男子が

「あの、ここでよければ、替わります」

と将に席をゆずった。ちょうど教卓のまん前になる。

「悪いね~。サンキュ」

将は睨んでいた形相をいっぺんさせて一瞬笑顔になり、次には澄ましてその席に収まった。皆あっけにとられた。

「た、鷹枝くん。制服はどうしたの」

聡は将にいう。教師らしい台詞を頭の中で検索してやっと探した言葉だった。

「制服ですか?」

「そうよ」

「……ああ、合わなくなってた。毛ズネ出して来るわけにはいかないでしょ」

聡は「すぐに制服を直すなりつくるなりしなさい」としか言えない。

「はーい」と素直に返事する将を不良どもはウソだろ、という目で見ている。

「それに、そこは松岡くんの席でしょ。勝手に変わっちゃ」

「松岡くんが自分から替わってくれたんでしょ。それに熱心に勉強したい人間が前に座ってどこがいけないんですか」

「でもみんな平等に勉強する機会を与えられるべきでしょ。あなたは松岡くんから機会を奪ったのよ」

聡はようやく教師らしい台詞を言えたと思った。

「センセー、あいつ鼻炎持ち。チョークの粉ツライのを我慢してたのわからない?」

聡が後ろに移った松岡を見ると、松岡は鼻をハンカチで押さえたまま、おずおずとうなづいた。

とりあえず、今日の朝のHR後半は静かだったことは確かだ。

   

 

今日は聡にとっては運が悪いことに1時間目が英語だった。

HRから直接授業に移ってもよいのだが、聡は一刻も早く教室から抜けたかった。

早々に退散して職員室でひと息いれる。

「将、朝から学校に来るなんてどうしたのよ」

瑞樹がわざわざ一番前の将の席にやってきた。

将はいつも(というほど学校に来ていないが)、学校に来るときは正午近くや午後にちらっと来るぐらいだったのだ。

自分の席に、瑞樹の長い髪がかかるのを、隣の丸刈りは迷惑そうに眺めていた。

「別にいいじゃん」

「……将さ、あのヒトが好きなの?」

「なんでよ」

将は実は小さく動揺したがそれは表面になんとか出さずにすんだ。

聡への思いを瑞樹に知られることを恐れたのが原因ではない。

『好き』という直接的な単語にびくついたのだ。俺が弁当屋を『好き』?

「だってさ、昨日だっていいところで助けちゃうし……」

「俺は前から言ってただろ。ああいうのはよくないって」

「でもぉ」

そこでチャイムがなる。瑞樹は不満そうに後ろに戻っていった。

   

 

実は将は、聡がきちんと学校に来ているかどうか不安で全速力で走って学校に来たのだった。

上半身だけとはいえあんな風にさらしものにされてしまっては、来なくても普通のことだろう。

―――せっかくまた逢えたのに。

将は走って走って走って、教室の入り口をあけた。

教壇の上に、聡は、いた。

それを確認して、将は安堵で力が抜けそうになったのだ。

   

 

授業が始まった。

今日は廊下を多美先生やその他屈強教師が巡回しているので、わりに静かだ。

後ろのほうの悪童連中も将の動向をみたいのか、席についている。

そういう将は教科書もノートも持っていなかった。手ぶらでガッコウに来たのである。

再び教壇にあがった聡が

「鷹枝くん、教科書は?」ととがめる。

将は悪びれもせず「持ってません」と答えた。

「……それでどこが熱心に勉強したいんですか」聡は問い詰めた。

「今日から熱心に勉強しようと思ったんだけど。いけませんか?」

と立ち上がってまっすぐに聡を見つめた。

聡は教壇の上でひるんだ。

しかし将は、次の瞬間には着席して、隣の丸刈りに

「教科書見せてくれない」と頼んでいた。

丸刈りはいぶかりながらも机をくっつけて将に教科書を見せた。

 



ようやく授業に入る。

こんなに静かなのははじめて、という静かさの中、聡は教科書を読む。

いや、本来はこれが普通なのだけれど。

将はくっついた机の隣、丸刈りから甘酸っぱい香りがするのを感じた。

汗の匂いのような不快な酸っぱさではない。もっと、覚えがある香り。あ!

「お前、寿司屋さん?」

将は熱心にノートに何かをしこしこと書いている丸刈りに小声で話し掛けた。

丸刈りは一瞬びっくりした目をして将を見たが

「授業中ですよ」と下へむきなおった。

「鷹枝くん、ノートは?」聡はリーディングをとめる。

「ありません。……ちょっと、ノートちょうだい」

将はまた丸刈りに頼んだ。丸刈りはさも嫌そうに後ろのページを破って将に渡した。

聡は再びリーディングに戻る。

「シャーペンも貸してよ」こそこそと将は丸刈りに要請する。

「赤ペンしかないよ」

「赤~?ヤダよー、お前使ってないとき貸してよ、今板書してないじゃん」

「いやですよぉ」

リーディングしかしていないはずなのに、丸刈りはなにやらノートにしこたま書き込んでいる。

将がノートをのぞきこむと、聡の口頭の説明から、発音時の特徴や真似の振りがな、独自の注意まで細かく書き込んである。

「すげ!すごいなあ」思わず将の声が大きくなる。

「鷹枝くん」

聡が読むのをやめて注意をする。

「お前のせいでまた怒られたじゃないか」

将は丸刈りに毒づく。すると丸刈りは手をあげて

「センセイ、鷹枝くんが鉛筆忘れたそうです」と発言。

聡は無言で、胸ポケットに刺していたボールペンを将に渡し、リーディングを進める。

「センセイ、サンキュ!」

ボールペンには聡の胸のぬくもりが残っていて、将は自分の胸も温かくなるのを感じた。

井口が瑞樹に

「なあ、将ってさ、あーいうキャラだったっけ?」

と耳打ちする。

「知らないわよ」

瑞樹は、不機嫌そうに一番前の将の背中を睨みつけた。



将は何をメモするでなく、聡の姿を目で追っていた。

教科書を読む。皆にわかるようにゆっくりと、次に普通の速さで繰り返す。1センテンスずつ。とても上手い。

―――外人みたいだな。帰国子女か?……まさかな。弁当屋が。

やっと平穏な授業風景になった、と思ったそのときだ。

教室の前の扉があいて、教頭が顔をだした。

「古城先生、ちょっと。至急校長室へ来てください」
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