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第14章 最後の夏空
第248話 最後の夏空(3)
しおりを挟む「将。どうした。うかない顔をして」
巌の声に、水平線の上あたりに彷徨していた将の意識は、車の中に舞い戻った。
将は今、巌と彼が横たわるベッドごと乗せた、病院の患者搬送車に同乗している。
車はすでに東名高速を走っている。窓の外には、紺色に霞む水平線が見えている。
「ん……なんでもないよ」
将はあいかわらず眼帯をした顔を巌の方に向けた。
「なんでもない、という顔じゃあるまい」
そんなことを問いかけながら、巌はごきげんだった。
あんなに帰りたがっていた大磯にいよいよ帰れるのだ。
あまりに嬉しかったのか、不自由だった言葉もほとんど元に戻っている。結局、
『死に体になってまで生き延びとうないわ。人権とやらを尊重しろ』
との罵声まで交えた、巌の懇願に病院長が折れた形になる。
『いい顔をしない』といっていた康三や純代も、結局、巌には逆らえなかった。
純代とあゆみが連携して、大磯の邸宅での看護ができうるよう設備や人を整えることになった。
将が一緒に頼まなくても、充分説得できたのでは、と将は少し可笑しかった。
そして、用意が整った金曜日、巌は待ちきれないように退院し、こうして特別仕様車で搬送されているのだ。
将のケガの方だが、今日までに顔の腫れはだいたいひいた。
だが、傷はまだ治っていないし(一応手首の傷は月曜に抜糸といわれた)、左瞼の痣は真っ黒になって残ったのでそれを隠すべく眼帯をしている。
足のほうの腫れは引きつつあるが、それでもまだ普通の靴は履けない(それもサンダルの時期だからあまり違和感はない。包帯が暑苦しいだけだ)。
痛み的にはかなり改善されたのだが、見た目的にはまだまだで、昨日顔を見に来た武藤はため息をついたほどだ。
「……さては、あきらさんとケンカでもしたのか」
「違うよ」
将はふいに出てきた聡の名前にハッとした。名前だけでも、心がふんわりしたものに、一瞬だけ包まれる。
「じゃあ、どうしたんだ」
将は黙り込んだ。将が窓の外に考えていたのは、大悟のことだった。
大悟はいまごろ……拘束されて苦しんでいるのだろうか。
『俺を見捨てるのか』というリフレインは、しつこく将を苦しめていた。
「友達のことで。ちょっと」
将は素直に、少しだけ打ち明けた。
「島大悟くんのことか……。わしでよかったら、相談に乗るぞ」
大悟の一件を何も知らない巌は、ひ孫をいたわるような優しい瞳をベッドの上から向けた。
将は首を振ると、もう一度窓の外に視線を投げた。
「もう……いいんだ」
どうにもならないんだ。という言葉を静かに飲みくだす。
せっかく巌のつてで、保護者として、運転手の西嶋の弟である西嶋隆弘を紹介してもらったのに、矯正病院送りになってしまった大悟。
西嶋隆弘・節子夫妻のもとにもその連絡は行っているだろうが、どうなっただろうか……。
三宅弁護士に訊けば夫妻の身の処し方はわかるだろうが、将はそれを聞くのが恐かった。
巌は、横たわったまま、そんな将の横顔を見つめていたが、ふいに
「あきらさんとはうまくいってるんだな」
と問い掛ける。
その口調から、どうやら将を元気付けようと思ったらしい。将は巌の方に視線を戻した。
「うん。順調だよ」
本当は……大人になるまで離れることにした。でも、そんなことは言わなくていいだろうと将は判断した。
「あきらさんと……結婚したいか」
「……なんだよ。いきなり」
突拍子もない質問に、将はあわてた。
思わず動揺が体に出るところだったが、辛くも止める。
「だから、一緒になりたいか、と訊いているんだ」
巌の瞳は、まったくふざけていなかった。しごく真剣に将を見つめていた。
できるなら、18歳になった瞬間に結婚したかった……そんな熱い思いが腹の底からこみあげてくる。
「……そりゃ」
それだけいうと将は下を向いた。巌がこちらを見て微笑んでいるのがわかり、将は照れた。
しばらく巌は、将がひとりで照れる様を、枕から見上げていたが、ふと、
「いいのう……」
とつぶやくと、目を閉じた。
ごくんと、枯れ木のような喉が動き……気がつくと巌の閉じた瞼の縁に涙が光っていた。
「ヒージー」
「……なんでもない。昔のことを思い出したんだ」
将は、大丈夫、と問いかけながらタオルで涙をぬぐってやった。
すまん、と答えながら巌は少し赤くなった瞼をあけた。
「将。この夏のうちに……わしが……生きているうちに」
「バカなこというなよ」
将は巌の言葉を強く遮った。
夏の終わりまでに巌が逝ってしまうなどという不吉なセリフは、本人でも許せない。
巌は少し微笑むと続けた。
「あきらさんを、大磯につれて来い。一度会っておきたい」
「どうして」
「お前がそこまで惚れた女を見たいだけじゃ」
巌はニイと笑った。入れ歯を入れていない巌はいっそう年を取って見える。
その口元は、ピンク色の口腔の中へと入っていくように縦に皺が入っているのだが、それが一瞬なくなるような笑顔だった。
困り顔の将に
「できるだけ早くな」
と催促する。
「巌さーん」「御前ー」
「ふぉっふぉっ。婆が2人寄ってきよったわ」
門前で、ベッドごと慎重におろされた巌は、駆け寄ってきたハルさんとあゆみを見て笑った。
あゆみは、巌の介護のために、なんとここに寝泊りすることにして、先に東京からやってきていたのだ。
車庫にはあゆみのシルバーのベンツがとまっている。
さまざまな種類の蝉の声が、大木の濃い影が巌を歓迎するかのようだ。
夏の盛りとあって、涼しげな木陰でも、さすがに暑い。
だがアスファルトが少ないせいなのか、その暑さは東京のそれのように攻撃的ではない。
「笹の香りがするのお」
巌はベッドに横たわったまま、鼻をくんくんと動かした。
ハルさんが打ち水をしておいた庭からは、下生えの笹の甘い香りがただよってくる。
甘い香りは、これだったのか、と将は今気がついた。
「お暑いでしょう」
まだ昼下がりといっていい時間帯だ。
庭を横切る巌のベッドに陽射しが直接あたるのがよくないだろうと、あゆみは日傘を差しかけた。スワトウ生地の上等なものだ。
「よい……。少し止めてくれ」
巌は、あゆみに日傘をどけるように、そしてベッドを運ぶ男に止まるように言った。
ベッドに直射日光があたる中、巌は懐かしそうに庭とそれを囲むような母屋と洋館の離れ、そして土蔵を見渡した。
そして、最後に真上に広がる空を見上げた。巌の上には雲1つなかった。
「まぶしいのお……。夏空は……」
いつまでも飽かず、いとおしむように、目を細めながら巌は空を見ていた。
「体に毒ですから」
付き添った医師が声をかけるまで、巌は空を眺めていた。
ベッドのあとについていきながら、将も空を見上げた。
澄んだ青に、蝉の声ごと体が吸い込まれていくような錯覚に見舞われる。
巌の担架は縁側からあげられ、いつも寝ている部屋にしつらえられたベッドに置かれた。
ちなみに時間が来ると自動的に寝返りをうつようにして床ずれを防ぐ、最新型の介護ベッドである。
「なんだか、違って見えるのう」
ひさびさに自分の部屋に帰ってきた巌は、頭を動かして部屋を見回した。
「布団とベッドで高さが違いますから」
ハルさんが布団を整えながらにこやかに言った。
「それに、わしは冷房は好かん、といったはずじゃ」
巌の部屋にはエアコンがなかったのだが、急遽障子の前に置かれている。
家を傷つけるのを巌が許さなかったので、パイプはガラス障子の隙間から縁側を伝って外に出されることになっている。
「急な気温の変化がよくないって、お医者様がおっしゃったでしょ」
あゆみは、ハルさんに渡された熱い蒸しタオルで、少し汗ばんだ巌の顔をぬぐいながら言い聞かせる。
半分開け放したままの障子から入り込んでくる夏の空気に対抗するように、エアコンはフル稼働している。
「康三さん一家は明日来られるそうです」
運転手の西嶋が開け放したままの縁側から顔を出した。
「『あれ』は……」
「準備してございます」
「よし」
巌は満足そうな顔を、なぜか将に向けた。
将の「へ?」というリアクションを見届けると巌は
「やれやれ。ついているのは婆二人だけかい。わしも落ちたもんじゃ。……将、早くあきらさんを呼べよ」
そんな憎まれ口を叩いて、あゆみとハルさんを笑わせた。
そして障子を閉めようとする西嶋を少しだけ制すると、揺れる風鈴の音を静かに味わった。
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