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第14章 最後の夏空
第261話 夏の別れ(2)
しおりを挟む将は夢の中で8歳に戻っていた。
カンカン照りの中、釣竿を肩にかついで、巌のあとをついて歩いていた。
昔の人にしては長身な巌は90にもなるのに大股で、将は小走りにならなくてはならなかった。
そのたびに、将には長すぎる竿が、肩からずれて、そのたびにかつぎなおさなければならない。
――海はすぐ近くだ、って言ったのに、遠いじゃんか……。
将は、ちょっとふくれっつらになりながらも、懸命に長すぎる竿を持って、巌の背中を追いかけた。
『ヒージー、ちょっとゆっくり歩いてよ』
将の訴えなど聞こえないように、巌はスタスタと歩いていく。逆に早足になっていくようだ。
……と、ゴム草履と裸足の間に小さな砂利が入り込んだ。
将は竿を道端に置くと、ゴム草履を脱いで砂利を取るべくかがんだ。
下を向いた将は、地べたの草むらに咲く昼顔を見つけた。
朝顔のミニチュアのような花だが、夏の日差しに負けずに、けなげに咲いている。
淡いピンク色ではかなげだけれど、派手で大きい朝顔より、実は逞しい。
それに心惹かれた将は、思わずしゃがみこんで、それを見つめた。
手折ろうとした将は、背中に巌の声を聞いた。
『将。わしは行くぞ』
ハッとして振り返る。
振り返った将は、波の音に包まれた。気がつくと、波打ち際にいる。巌の姿はどこにも見えない。
『ヒージー』
将は、呼びかけながらあたりを見回した。
……いつのまにか草むらも、昼顔も、釣竿もなくなっていた。
足元を波が容赦なく濡らす。こんなに何もない海岸は初めてだった。
将の目の前に広がるのはただ水平線とその上に金色に輝く太陽。
背後にはサハラ砂漠のような砂丘が、太陽の色に染まっていた。
『ヒージー、どこ』
将はどこまでも続く水平線と砂浜に向かって呼びかける。
返事はない。
波の音と……立ち木など何もないのに、ジージー、ジワジワと電子音のような蝉の音が煩い。
『ヒージー』
将はたった一人で取残されてしまった。
そんな将を、西日が包む……。
「……ヒージー!」
自分の叫び声で将は目覚めた。
目覚めの瞬間、ふいに落下したような感覚に襲われる。
もう明るいらしい。カーテンから白い光りが漏れている。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくて……やっと、M区の寮にいることを把握する。
夢の中で、あんなにうるさく鳴いていた蝉の声が、なぜかピタリと止んでいる。
将は低い天井を見て、ため息をついた。
それを合図にするかのように、蝉が再び鳴き始めた。
携帯で時間を見ると、ちょうど7時になるところだった。
将は、まだ落下したときの戦慄が残っているような体を無理やり起こすと窓辺に寄ってカーテンを開ける。
視線が呼ばれるように西の空に引き寄せられる。
14階なのに、空は失敗したテトリスのような形でしか見えない。
そのとき、ベッドの上で携帯が鳴った。
武藤にしては早すぎる時間……今日は8時30分に迎えに来る、と言っていたはずだ。
胸騒ぎを抑えながら将は、ベッドに置きっぱなしにした携帯を開いた。『自宅』という表示。
将は覚悟をごくり、と飲み干した。そしてそれを胃まで落とし込むと、通話ボタンを押す。
「将か」
電話は父・康三だった。
覚悟したはずなのに、心臓が震え始める。将は立っていられなくなり、そのままベッドに腰掛ける。
「ああ。何」
短く答えるのでせいいっぱいだ。
「大おじいさまが、亡くなった」
康三の口調は、落ち着いたものだった。
――やっぱり。
「朝、ベッドに入ったまま、亡くなっているのをあゆみさんが見つけたそうだ。……おそらく眠っている間に心臓発作が起きたんだろう」
「うん」
将は、何も考えられなくて、短く返事をするしかない。
「これから、すぐ大磯へ向かう。お前は……仕事か」
仕事、という言葉でようやく凍った思考の一部が動き出す。
今週は、将をメインにした8話の撮りのクライマックスになっている。先週ほどではないが、スケジュールは詰まっていた。
「うん」
将は一言で、仕事が詰まっていることを伝えた。
「そうか。じゃあ、一緒に行くのは無理だな」
康三は淡々と続ける。
「葬儀のスケジュールはこれから決めないといけない。葬儀会場を東京にするか、大磯にするか検討しないといけないし」
「オヤジ」
将は巌の死を告げられて初めて、あいづち以外の言葉を口にした。
「……大磯から送り出してやれよ。ヒージーのうちはあそこなんだから。あんなに帰りたがっていたんだから」
巌がことのほか愛していた……命を賭けても帰りたがった、死に場所に決めた、大磯の邸宅。
巌の魂を送り出すのに、他の場所はありえないだろう……。
「……そうだな。その方向で検討しよう」
康三は、将の言うことを静かに受け容れるようだった。最近では……いや、将の生きてきた18年の中でも、それはとても珍しいことだった。
「じゃあ、また連絡する。お前の事務所にも、私から連絡をいれようか?」
「……いいよ。自分で伝えられるよ。オヤジも忙しいんだろ」
珍しく、自分に気を遣う父親が面映くて、将はそれをそっくりと返してみた。
「大丈夫だ。夏休みだからな……私用で国政に穴をあけるな、とつねづね言っていた大おじい様らしい」
そう、今日は8月14日、夏期休暇中である。
まるで、夏休みになるのを待っていたかのようなタイミングで、巌は逝ったのだ。
「じゃあ、また連絡する。お前は……つらいだろうが、仕事はしっかりこなせ」
「わかってる」
電話が切れてしばらく、将は、すべてのスイッチが切れたようになってしまった。
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