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第14章 最後の夏空
第265話 夏の別れ(6)
しおりを挟むさすがにTVカメラなどマスコミがたむろしている表門からは入るわけにいかず、将と純代は、勝手口から巌の邸宅に入った。
台所から、廊下を通って広間に通される。
祭壇は、すべての襖、障子を取り払った広間に作られ、巌の棺はその正面に遺影とともに安置されていた。
すでに前のほうに座っていた孝太が振り返って、将に気付いて「あ」という顔をした。
さすがに場をわきまえているだけあり、大声で呼んだり笑いかけたりはしない。ただ少しだけ嬉しそうな目をしただけだ。
棺の方に案内される将を見て、表にいるマスコミ関係者が気付いて囁きあいはじめた。
「おい……あれSHOじゃないのか」
さすがに、夏の日差しで目が眩むような外から見ると、屋内は真っ暗も同然で、彼らは必死で目をこらした。
「暗くて見えないぞ。背は高いが」
「やっぱり噂は本当だったんだ」
将は純代にうながされて、棺の前に立った。
棺の近くはひやりと冷気がただよっていた……おそらく、巌の遺体はこの数日冷蔵庫で保管されていたのだろう。
この暑さだから棺にはドライアイスも入っているに違いない。
将は乾いて貼りついた喉にわずかに湧いた唾をごくっと飲んで、棺を覗き込んだ。
……白い菊の花に囲まれて、巌は眠っていた。
ハルさんが言ったとおり、安らかな顔だった。先日、朝食後に見たときのままの……無垢な寝顔だった。
だが、その肌の色は、蝋のように白っぽくて、艶がなくなっていた。
それは顔を囲む瑞々しい菊の花との対比でさらに硬く、乾いて見えた。
わずかに開いた口から、白い綿がかすかに見えたとき、将の中にふたたび地鳴りのようなものがこみあげてきた。
生きていれば……あんな綿が詰め込まれるはずはないのだ。
ヒージーは、もう間違いなく、死んでしまったのだ……。
将は再び歯を食いしばろうとしたが、息苦しくて出来なかった。
視界はとうに、こみあげてきた涙で、巌の死に顔もろとも歪んでいた。
将は、がくっと棺の前に膝をつくと、掌で顔を覆った。
こんなことになったきっかけは……巌は違うと言ってくれたけれど、将がつくってしまったことには間違いない。
悲しみと罪悪感は、竜巻のように将の自我を吹き飛ばしてしまった。
すでに広間には参列者が揃っていたが、それももはや関係なかった。
いや……意識の端にそれがあるから、声をたてるのは抑えているが、それが限界だった。
……ようやく、純代に抱えられるようにして立ち上がると、自分の席に座った。
そんな将を、聡は遥か後ろから見つめていた。
読経が始まった。
葬儀社の会場ではなく、一般の日本家屋の広間で行われた葬式は、座布団こそ用意されたものの、正座しなくてはならない。
後ろのほうの一般参列者の中には、15分ほどで足が痺れたのか、足をもぞもぞさせる者がかなりいた。
もちろん、広間だけでは入りきれないので、縁側に向かって張られたテントの下に座っている人もずいぶんいた。
さすがに椅子席だが、そちらは暑そうだ。
聡は、かろうじて玄関近くの末席の座布団に座ることができたのだが、案の定、足が痺れてしまった。
庭のテントの下に座っている人が少し羨ましくなった。
スカートの喪服だったのでこっそり足を崩して、ようやくほっとした聡は少し目をあげて将の後姿を盗み見た。
背の高い将は、いつもなら頭1つ分飛び出て見えるはずだが、うなだれているのか、明るい色の髪の毛が黒いスーツの肩の上に少し出ているだけだ。
視線を手元に戻すときに、近くの一般参列者の席にいる武藤と目が合った。
彼女も将を気にしていたらしい。足はやはり崩しているようだ。
二人は、目でお互いに会釈をした。
俯いた将の心は、からっぽだった。
空洞になった体に、読経がいやに響く。
経をあげているのは、いつか将に家系図を見せてくれた、東京の菩提寺の和尚だ。
話すときの声と、経をあげる声はまるで違う。
一人で経をあげているはずなのに、まるで複数の人間がつくりだすハーモニーのように響き渡る。
その威厳は、悲しみと罪悪感の興奮を不思議に呪文のようになだめてくれた。
朗々と……というのは、この場に相応しくない表現だが、それを聞いている将は次第に自分を取り戻していった。
気がつくと、将は祭壇の上の巌の遺影を眺めていた。
将がここに預けられていた頃の姿だろうか。すでに白髪で長い白い眉毛の姿だが、満面の笑みを浮かべていた。
将は、近親者の葬式を今までに2度経験している。
一度目は将を生んだ母親・環。まだ7歳だった将は、そのようすも悲しみも覚えていない。
二度目は、将の祖父の周一。高校1年のときだった。
初孫である将は、小さい頃には可愛がってもらったはずだが、なにせ心が荒れていた頃である。
お通夜にだけ出席し、興味本位で死に顔だけ見ると、すぐに退出し、その夜から遊んでいた。
髪を今よりさらに明るい色に染め、一目でカタギでないことがわかる将だったから、
世間体を気にする康三も純代も葬儀に出席しない無礼を許していたはずだ。
将は隣にいる純代の膝のあたりに視線を走らせた。
そろえた手の下に数珠が見えた。顔まで視線をあげる勇気はない。
どうして純代は急に、あのような、将を擁護する態度を取ったのか。
純代はきっぱりと『将はうちの跡取だ』と言い放ったうえに『忙しいのによく来た』と言ったのだ。
それは、将が知っている純代と180度違う姿だった。
――いや。
180度という数字に、違和感を感じた将は、急に子供の頃を思い出した。
純代は将に対して……少なくとも巌の継母のような分け隔ては、一度たりともしなかったはずだ。
つねに自分の子の孝太と平等に扱おうと努力していたのは将にもわかっていた。
孝太だけを優先したのは……あの爆破事件のときだけだ。
将は、純代の数珠から目をあげて巌の遺影を眺める。
あの日、森村先生との悲恋の話のあと、共にした最後の夕食での、巌の話が蘇った。
「ねえ、ヒージー。その後、ヒージーは一高から帝大に入ったんだろ。継母に仕返しなかったの?それ見ろとかさ」
将は気になったことを訊いてみた。
巌は、スプーンで口にいれてもらった細かくしてもらったポトフを味わって飲み込むと、
「仕返しか。今に見ておれ、と思ったのは小学校までだったな」
と遠い目をして答えた。
「えー」
将はつまらなそうに口を尖らせた。
「中学に入って、離れて暮らすようになってからは、憎しみも薄れてしもうた。
高校に入ってからは先生をなくした悲しみを忘れるように勉強に打ち込んだしのう……」
巌は、あゆみに差し出されたもう1口を制して続ける。
「それに、お継母さんは5人子供を産んだのだが、二人は大人になる前に病気で亡くなり、残るうち二人は戦争で兵隊に行って亡くなってしまった。
ワシは戦争当時、すでに官僚職についていたから赤紙を逃れたが、結局、お継母さんに残されたのは女の子が一人だけだった。
それにお継母さんの実家は大陸にその資本の大部分を投資していたから、戦後はもうボロボロでな……」
「ざまあみろ、って思わなかった?」
巌は将をまっすぐに見据えるときっぱりと言い放った。
「思わなかった」
将は、巌が嘘を言っていると思った。本音では絶対、胸がすくような思いをしたに違いないと確信していた。だが、巌は
「とてもじゃないが、気の毒でそんな風には思えなかった」
と繰り返すばかりだった。
「戦後まもなく父が亡くなってからは、お継母さんが頼れるのはワシだけになってしまったんじゃ。
あいかわらずキツイ性格ではあったが、ワシの奥さんと協力して家のことをよく手伝ってくれたものだ。
末の子などは、お継母さんによく懐いていてな……。
よくよく考えてみたら、多少のわけへだてをしたにしても、忙しい父に代わってワシを大きくしてくれたんじゃ。
……ときどき抜いたにしても、三度三度メシを食わせ、きちんとした着物を着せてくれて、学校には弁当を持たせてくれた。
……考えてみろ、新婚なのに聞かん坊の子供の世話をするおなごの気持ちを。
それぐらいの意地悪をしたくなるのは当然だ、とワシは結婚したことで初めて理解したのじゃ」
将は、承服しかねた。巌は人が良すぎる、とそのときは思った。
……だが、今になって将は、純代の気持ち、というのを、自分のほうこそ考えなかったことに気付いた。
康三にとっては再婚だったが、純代にとっては初婚だ。
当時28歳の女性としては結婚生活にいろいろと夢もあっただろうに、彼女は新婚まもなく9歳の男の子の世話を押し付けられたのだ。
なのに、巌の継母のように意地悪をすることもなく、
三度三度メシを食わせ、きちんとした服を着せてくれて……という部分では、充分すぎるほど面倒を見てくれた純代である。
孝太が生まれる前も、市販品の添加物がよくないからと、たびたびおやつに焼き菓子を焼いてさえくれた。
その自然な甘味がふいに将の舌に蘇る。
そこまで優しくされたからこそ、愛されていたと思ったからこそ、火事の中でおきざりにされたことが……裏切られたことがショックだったのだ……。
『純代さんを許してやれ』
遺影から、声が聞こえるようだった。
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