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第18章 秘密の年越し
第328話 口づけのあと(2)
しおりを挟む将もまた、自分に困惑していた。
いったい、何であんなことをしたのか……。
これ以上、隠している事実を暴露されてはいけない。誰かが聞いていたらまずい。
そういう意識が働いたのは間違いないが……それがどうしてみな子への口づけという形になってしまったのか。
自宅へのタクシーの中、窓に映って流れていく街の灯に将は、さっきのことを投影させてみる。
あのとき。吸い寄せられるようにして、将はみな子の唇に自分の唇を押し当てていた。
無我夢中だった……。
気がつくと、熱に浮かされたようなみな子の顔が至近距離にあり……将は自分のしでかしたことにおののいた。
みな子は……たぶん真面目なみな子だから、おそらく初めてのキスだっただろう。
自分の罪深さに思わず舌打ちすると、将は額に手をあてた。
もはや自分がなんと言って謝ったかも覚えていない。
初めてのキスを奪った謝罪にしては……軽すぎたことだけはわかる。
まともにみな子の顔を見れなかった……それも確実だ。
顔もみずに吐き出した言葉に誠意なんか見出せるはずもなく……将は後悔に再び頭を抱えた。
考えても考えても、あの瞬間の自分の意図がよくわからず、将は虚空にため息をつくしかない。
否……わからない、というのは間違っている。
将は自分の心の片隅に息づく気持ちに気付きながら、それを拾い上げるわけにはいかなかった。
あの瞬間……将は、みな子にたしかに惹かれていた。
自分への気持ちを顕わにしたみな子に、何とかして答えたかった。
だけど……。
将は自分の心の真ん中に住んでいるひとをそっと確かめる。
……それは変わらず聡だった。自分に温かいものを教えてくれたひと。
将が気がついたときには、みな子は静かに踵を返していた。
なおも将は……人波にまぎれていく、その寂しい後姿を思わず追いたくなる。
追ってどうするのか。
将はその姿が見えなくなるまで目で追っていた。足を、かろうじて踏み出さなかったのは……今考えれば聡のためである。
聡。
タクシーの窓いっぱいに、聡の顔が蘇る。
その瞳には、なぜか涙をいっぱいにためていた。
そのせつない表情に、将は呼吸が苦しくなる。
自分は……聡を裏切りかけたのだろうか。
――ごめん、聡。
将は何も知らないであろう聡に心の中で詫びた。
――将は、どうして、あんなことを……。
お風呂の中で、聡の脳裏に再びそれが戻ってきた。
食事の準備をしてそれを食べるまでは、何も考えずに済んでいた。なにせ妊娠も6ヶ月、安定期にある聡の食欲は、ここのところ旺盛だったから。
しかし、こうして静けさが戻ると聡の思考はどうしても、さっきのことを考えはじめてしまう。
そしてそれは、『将の浮気』という結論を安易に出してしまいそうになる。
それに対して心は、昨日から今朝、さらにクリスマスの将を思い出して必死で抵抗しようとする。
だけどすべては、将とみな子が顔を寄せ合う鮮明な映像に打ち消されてしまうのだ。
――いやだ。
聡は記憶を振り払うように、とぷん、とお湯の中に潜った。
目をしっかりと閉じて、息をとめる。……その瞼の裏にも、その映像はしつこく蘇り、聡は苦しさにお湯から顔をあげた。
顔をぬぐって開いた目の前に膨らんだ下腹部がある。
将の子供がいる……お腹。
聡の妊娠を知って、将は……結婚しようと、確かに言った。
――だけど、そんなの無理。
聡は、弾かれるように天井を仰いだ。
寒いので換気を切ったバスルームは湯気でぼんやりと煙っている。
それは聡の先行きのよう。そんなことを思ったとき、聡の額に雫が1つぽとりと落ちてきた。
氷のように冷えきった雫は、一瞬、聡の全身を反射的に震わせて、聡はまた俯いた。
……例え、東大に合格したって。将はまだ若いのだ、まだ18年しか生きていないのだ。
心惹かれる女に出会うのは、むしろこれからじゃないのか。
髪の毛から、次々と流れ落ちて来る水滴のように、聡の心には絶望材料が降り注ぐ。
と、そのとき。
部屋で携帯が鳴り、聡はハッと顔をあげた。将の着信音。
あわてて、タオルで身体を包み、ユニットのバスルームを出る。
時間を見ると、もう個人教授の時間だった。
記憶と絶望に翻弄されながら思わず長風呂してしまったらしい。
聡はさんざん逡巡したあげく、ようやく通話ボタンを押した。
「もしもし」
……相手が将だとわかっていて、通話ボタンを押すのをこんなにためらったことがあっただろうか。
「アキラー?時間だよん。……さっそく教材送ってよ」
電話の中からは、いつもと同じ調子の将の声が聞こえてきた。
聡はますますとまどう。あれは、やはり見間違いだったのだろうか。
「ご、ごめん。まだお風呂なの」
「あ、ほんと?ゴメン、ゴメン」
約束の時間に遅れたのは聡のほうなのに……優しい将の声。
それとも……将は、早くも男のズルさを身につけているのだろうか。
疑心暗鬼になりつつも、聡はそれを表面に出すことができない。
「ううん。あたしがつい長風呂しちゃったから」
「30分待つよ。その間、先にCNNのトップニュースの要約しとくよ。辞書なしで」
「……じゃあ、そうしといて」
「うん。湯冷めに気をつけろよ……じゃ、あとで」
電話を切ったとたん、一気に力が抜けた。
……それで、逆に将との会話中、ずっと緊張していた自分を知り、聡は再びため息をついた。
将は、どういうつもりなのか。
将を信じるべきなのだろうか。信じていいのだろうか。見なかったことにすべきなのだろうか。
将にどう接していいかわからない聡は、膨らんだお腹を撫でて三たびため息をついた。
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