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第20章 遠い春
第352話 遠い春(7)
しおりを挟む「それで、昨日の模試はどうだった?」
岸田は論文の答案を受け取りながら、笑顔で将に訊いた。
将はいつものように岸田助教授の家に、論文の個人指導を受けにきていた。
最近、将は日曜日に岸田の自宅を訪ねて指導を受けることになっている。
さすがに受験が差し迫った今の時期である。
岸田が試験問題の作成に関わっていないとはいえ、官房長官の息子である将が、受験する東大の研究室を訪れるのは、痛くもない腹を探られるだろうということで自粛しているのだ。
答えをある程度予測している岸田の柔らかい笑顔に、将も顔を少し傾けて苦笑を返す。
……昨日の土曜日は、とある予備校で、最後の東大模試が行われた。
まだ結果は出ていないが、将にはそれがさんざんな出来だったことを自覚している。
やはり、我が国最高学府の試験は並大抵ではないことを……将は思い知らされたのだ。
「だろうな」
岸田はそういって軽く笑うと将の答案に目を落とした。
「今、どれくらい勉強してるの? 睡眠は何時間」
「起きてるときは、ずっと勉強してます。睡眠は……、3時間くらい……、かな」
それを聞いた岸田は答案から目をそらさないまま、ハハハと笑った。
「今ごろ、睡眠3時間。手遅れだね。……合格する実力があるやつは、体調を整える時期だよ」
前期試験までもう2週間を切った今、岸田がそういうのももっともである。
しかし、出遅れている将はそうもいかないのだ。
まだまだ網羅しなくてはならない知識は、将の前に壁となって立ちはだかるかのごとくである。
しかも……昨日の模試では、いつもは得意な国語や数学も、思うように出来なかった。
ここにきて、将は焦り始めている。
もし。東大に合格できなかったら。
考えないようにしていた、望まないほうの未来が、嫌でも将の前に迫ってくる。
聡とはおそらく引き離されてしまうだろう。
どんな風に、引き離されるのか……。
おののく将の脳裏に、自分が殺したヤクザの相棒の死に様が浮かぶ。
実際に見たわけではないが……将の脳裏には港に浮かんだ死体がくっきりと再現されている。
――まさか。
どくっ。
将の心臓が大きく収縮した。
父や……毛利は……、聡をその子供ごと殺してしまうのではないか。
事故死に見せかけることなど、きっとわけはない。
将は、体中の戦慄を抑えるべく、奥歯を噛み締めた。
――いっそ、そうなる前に、二人で逃げてしまえば。
東大の試験も何もかも、放棄して。いますぐ、聡を連れてどこか遠くへ……。
なぜか夜汽車が思い浮かぶ。
寒い雪原を走る夜汽車は二人を、安住の地へ……地の果てへ運ぶのだ。
そんな夢想は、聡の叫び声でかき消される。
『コソコソ生きる将なんて、見たくない!』
『将の才能を……、将の未来をあたしのせいで台無しにするなんて、あたしが嫌なの』
――俺の才能なんて。
将は聡に答えてみる。
たいしたことないんだ。たぶん、いたってフツーなんだ……。
聡がいなけりゃ、きっとなんにも……できないんだ。
言い訳する将を、心の中の聡は哀しげな瞳で見つめた。
その瞳は、将に新たなる不安を呼び起こす。
引き裂かれるのではなく、聡が将から離れていってしまうのではないか……。
「ダメだね」
岸田の声に将は我に返った。……一瞬、夢の中にいたようだ。
岸田は、答案を突き出すようにして将に戻した。
「まったくダメ。論法が破綻だらけだ。寝不足なんじゃないの」
将は黙って答案を受け取った。
何がそんなにダメなのか、読み返そうとするが、それも頭にまるで入ってこない。
聡が離れていく暗黒の未来に、脳が占拠されてしまったように。
将のそんなようすを、岸田はめざとく見破ったらしい。
手を伸ばして、答案を奪い取ると、
「休憩」
とニッコリ笑った。
結局、その日の論文はふるわないまま、日が傾いてきて、将は岸田助教授の部屋を後にした。
マンションのエレベーターを降りて、ため息をついたとき。
「お兄ちゃん」
横から、ひょこっと少女が顔を出した。
岸田の娘の香奈だ。
今日は、友達の家で宿題をするとかで、部屋にいなかったはずだ。
「終わったの?」
寒いところにいたのか、香奈は頬をリンゴのように染めていた。
タオル地のウサギのマスコットをつけた手提げカバンを持っているが……髪の毛を二つに結んで、耳にホワホワのマッフルを付けている姿は、香奈のほうこそウサギのようだった。
「うん」
うかない顔を隠しながら答えつつ……将は、そのリンゴのような頬に聡の面影を求めてしまう。
こんな子供にまで。将は心の片隅で自分を自嘲する。
そのまま『じゃあね』と立ち去るかと思いきや……香奈は、その場から動かない。
将の顔を見たかと思うと、その視線を素早く下に下ろしたりして落ち着かない様子だった。
仕方なく将のほうから
「じゃあ……」と言おうとしたとき、香奈の「あのさ!」という声が重なった。
思い切るあまり、怒鳴るような声にふさわしく、顔もこわばっている。
香奈は、持っていた手提げの中からピンク色の包みを取り出すと、ぎこちなく将に差し出した。
あきらかにバレンタインデーのチョコだった。
その、ぎくしゃくした様があまりにも可笑しくて、将はふっと心和んだ。
「くれるの?」
ぶん、と音がしそうな勢いで香奈は首を縦に振った。
受け取ったピンク色の包みは、冷蔵庫に入っていたように冷たくて……それで将は悟った。
両親の前でチョコを渡すのが恥かしくて、香奈は家の外でずっと待っていたのだろう。
「ありがと」
「義理チョコだもん」
自分だけに注がれる、いつになく優しい将の目に焦ったのか、香奈は慌てて付け加えた。
そのくせ……家に帰ろうとせず、将と一緒にマンションのエントランスを出ようとする。
ガラス戸を出たとたん、西日が二人を照らした。
「帰らなくていいの?」
将は心配して傍らの香奈を見た。
「コンビ、いくからいいの」
チョコを渡してしまって、ホッとしたのか、香奈の声ははずんでいる。
しかしこのご時世だ。
夕方にさしかかるこの時間帯に、小学校5年の女の子をコンビニから独りで帰すのもマズイだろうと将は思う。
一般的に見て、香奈はかなりかわいい女の子だから。
……結局、香奈に付き合って一緒にコンビニへ行き、再びマンションのエントランスまで送り届けるハメになってしまった。
しきりに「別にいいのに」などと呟く香奈だったが、その顔はあきらかに輝いている。
こんな風に夕日の中を将と歩けるとは、予想もしていなかったのだ。
「ね、お兄ちゃん」
夕焼けにほんのりピンク色に染まるマンションが見えてきて、ふいに香奈は問いを投げてきた。
「お兄ちゃん、彼女いる?」
こんな風に見上げる顔も……聡に似ている。
聡を思うあまりの錯覚ではない、と将は香奈の顔を夕陽の中で確認する。
黒目がちの瞳と、それを覆う長い睫。その動き方が、聡にそっくりなのだ。
……香奈の中の聡を見つけたとして、どうするんだ。
聡は、現実に自分のそばにいるんだ……今はまだ。今はまだ、ちゃんと手の届くところにいる。
「……うん。いるよ」
そのとき、将は自分に確認するように答えた。
香奈の黒目がちの瞳に、一瞬落胆の色がよぎる。
だが、すぐに子供らしい無邪気さで問いを続ける。
……本当はそれはすでに香奈の演技だったのだけど。
小5にもなればそれくらいの演技など、呼吸をするように無意識にできるのだ。
「彼女のこと、どれくらい好き?」
「どれくらい……」
将は視線をふいに沈み行く夕陽に投げた。
自分にとって太陽の聡。そのまなざしは陽だまりのように自分を見守り、力づけてくれる。
聡ともし……別れるようなことになれば。引き裂かれるようなことになれば。
陽だまりを失って、自分はどうなってしまうだろう……。
「いなくなったら、死んでしまうくらい好き」
言ってしまって将はハッとした。
子供の質問に何てことを。
それに、死ぬ、なんて。
自らの口をついてでた不吉な言葉にあわてて香奈を振り返る。
立ち止まった香奈は、これ以上ないほど心配そうな瞳で将を見上げていた。
「いなくなったら……死ぬの?」
そんな瞳も、聡に似ている。将を気にかけ、心配する温かいまなざし。
きっと、聡も……そんな言葉を聞いたら、同じような瞳で将を見つめて心配するに違いなかった。
だから……将は無理に口角をあげて、微笑をつくる。
「大丈夫。絶対にいなくならないから、死なないよ」
気がつくとマンションの前までたどりついていた。
ガラスのドアは夕陽に染まる雲を反射してきれいな桃色になっていた。
「……チョコ、ありがとう。じゃあね」
将は香奈に軽く片手をあげると、踵を返した。
「べんきょう!」
もう行ってしまう。香奈は、将を呼び止めるべく、反射的に声を張り上げる。
振り返った将に
「がんばってね」
……そんな、ありきたりのことしかいえない自分が……香奈は悲しかった。
茜色の夕陽を受けながら去っていく将の後姿を、見送って立ち尽くすしかできない。
そのときの言葉と共に……その寂しげな後姿は、香奈の心に焼き付いて、後年も消えることはなかった。
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