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第20章 遠い春
第353話 遠い春(8)
しおりを挟む地球温暖化は確実に進行しているのだろうか。
小さなテラスで洗濯を干す聡を、2月最後の土曜日にしては強い陽射しが包む。
気温も今日は15度近くまで上がるらしい。
天気がいいのは昨日からわかっていたから、今日がチャンスとばかりに聡はシーツやベッドカバーまでも洗った。
妊娠8ヶ月のお腹は、洗濯ものを取ろうとかがむたびに動きを阻む。
それでも聡は、1週間分たまった家事を、いつもより丁寧にこなそうと動いた。
動いていないと不安にとらわれてしまいそうだから。
昨日から2日かけて、東大の前期試験が行われている。
おとついまで休まずにずっと学校に来ていた将だが、その顔色はあまりよくなかった。
目の下には黒々とクマが浮き出ていた。
連日睡眠を極限まで切り詰めているらしいから、体調もよくないのだろう、ということは予想がついた。
聡が心配したのはその表情である。
バレンタインの前までは明るかった表情が、日を追って暗くなっていったのが、聡には何より心配だった。
おそらく、最後に個人的に受けた模試があまり芳しくなかったのだろう……聡には予想できた。
担任教師として結果を聞いてみたのだが、将はそれを頑なに教えてくれなかったからだ。
いつもだったら、あまりよくなくても
「まだまだこれから」
と明るくふるまっていた将だったが、今回ばかりは
「睡眠不足かもな」
と初めて言い訳を口にしたのだ。
そのくせ……教室では、教壇に立つ聡を、これ以上ないほどせつない瞳で見つめる。
自習のときも、他の生徒の目をぬすむように、気がつくと聡を見ていた。
聡は気付かないふりをしながら、将の置かれた立場と心境を理解していた。
将は、いま、とても不安なのだ。
運命の……二人の運命をわける試験を前に……自分の力だけで運命が決まってしまうそんな局面を前に、焦っているのだ。
万が一、受験に失敗したら。
二人はきっと、引き裂かれてしまうだろう。
すがるような、必死で聡の像を焼き付けようとするようなそんな視線は、将の不安の現れだった。
今週に入っても、将の目の下のクマはあいかわらずだったので、さすがに聡は英語の個人授業のときに
「将、そろそろきちんと睡眠を取ったほうがいいと思うよ」
と助言した。だが、将は
「眠れないんだ」
と苦しげに告白した。さらに
「……アキラ。もしも。……もしも、ダメだったらどうしようか」
と初めて弱音を吐いたのだ。
聡は将の苦しげな声に、自らも胸が苦しくなるのをこらえながら
「大丈夫よ」
と答えるしかない。
「将はすごく頑張ったじゃない」
こんな、子供に言い聞かせるような言葉で、将の苦しさが減らせるはずがないとわかっていながら、聡は偽善的な言葉をならべるしかない。
「頑張ったけど……ダメかもしれない」
絞りだすような将の声音は続く。
「もしダメだったら……アキラ、俺と逃げてくれない?」
将は苦しげな中から、明るい声を急に装った。
冗談めかした体裁をとりながら、実はそれは将の本音だということは、聡にもわかった。
逃げることを考えるほど、将はつらいのだ。
聡の心は将のつらさに共鳴して……痛くなる。
すぐそばにいれば……将を、抱きしめてやりたい。
何の解決にもならないかもしれないけれど、疲れて苦しい将が癒しを欲していることだけはわかる。
もうすぐ卒業。
卒業したら……教師と生徒として日常的に会うこともできなくなる。
もしも将が受験に失敗したら、そのまま会えなくなってしまうかもしれないのだ……。
将と離れ離れになる現実が迫りくる圧迫感と。
そして運命の鍵を将ひとりに背負わせてしまった済まなさ。
それらは……心の片隅に忘れていた考えを、聡の心の真ん中に押し出した。
いつも……聡のために、将はつらい目にあっている、という考え。
自分さえ妊娠しなければ。いや、自分さえいなければ。
将はこのように無理をする必要もなかったのかもしれない……。
将は『聡がいなければ今の俺はない』とたびたび言うけれど。
聡と出会っていなかったら。
星野みな子のような、きっと自分に似合いのかわいい女の子と、それなりの青春を取り戻していたに違いない……。
将のつらさは自分のせい。
そんな考えに囚われた聡の心は……急激に涙を押し出した。
「うん。……いいよ。逃げよう」
今の聡にできることは、せめて将の心の重圧を軽くしてあげることくらいだった。
涙をぬぐいながら答えつつ、そんなことができるはずがないと……聡はわかっている。
だけど、今の将が少しでも楽になるのなら。
「本当に、いいの?」
将は少し驚いたようだ。
今までのことを考えれば当然だろう。将の未来を台無しにするようなことを、冗談でも言わなかった聡だから。
「うん。いいよ」
聡は鼻をすすりながら答えた。
そのとき、『ひなた』がお腹の中で勢いよく動いた。
まるで反論するように。聡のお腹の壁にキックを仕掛けたかのようだった。
聡はハッとして顔をあげた。
――ここまで来て、何を言ってる。
……とにかく、二人は出会ってしまったのだ。
子供だってもう8ヶ月なのだ。
二人が幸せになる確率をもぎとるには、後戻りや逃げはできない。
あわてて聡は付け加えた。
「だけど……まだダメって決まったわけじゃないでしょ。……前期のあとには後期だってあるんだし」
それに二人がたとえ別れるにしても。
突っ走ったものは……できるだけ完走するほうが、将のためなのだ。
頑張りどきの今、逃げ道が本道になってはいけない。
「とにかく、最後だから頑張って。……ダメだったらどうするかは、終わってから考えよ」
聡の励ましに、将は重い口調ながら
「うん」
と答えた。
卒業式は来週の金曜日。
将に残された学校生活はあと1週間だが、将は今日の試験が終わるなり、再び北海道ロケに入るという。
8話までは貯め撮りしていたけれど、残りの収録があるという。
卒業式のために東京に一度帰ってきて、後期試験までずっと北海道という強硬スケジュールになるらしい。
本当は卒業式は欠席という意見も出たらしいが、将自身が強く出席をのぞんだため、東京にとんぼ返りすることになったのだ。
洗濯が終わったら、掃除。窓をピカピカに磨く。
「ほら。ぴかぴかの窓はきれいでしょ。ひなたちゃん」
前に出たお腹は窓みがきには邪魔だったが、聡はお腹の子供に話し掛けながら、腕を左右に動かす。
もしも。将が受験に失敗したら……最悪、卒業式が二人の最後、ということになってしまうかもしれない。
聡はできるだけ、そこに考えがいかないように懸命に動いた。
お腹の「ひなた」もごぼごぼとリズミカルに動く。まるで一緒に働いているようだ。
窓や流し台まできれいに磨きこんでしまった聡は、遅い昼食を挟んで今度は、大量に野菜を買い込み、煮込み料理を作り始めた。
「おいしいポトフをつくろうね」
だが、無理に歌おうとする鼻歌が何度も中断してしまう。
そしてそのたびに時計と……まな板の傍らに置いた携帯に視線が行ってしまう。
もうすぐ前期最後の教科である、英語の試験も終わるはず……。
どうしてもそっちに意識がいってしまうのだ。
あの、弱音を吐いた夜以来、少しは眠れるようになったという将。
だが、最高の難問が繰り出される東大の前期試験に、万全の体制で立ち向かえているだろうか。
センター試験の奇跡は、果たしてもう一度起こりうるのだろうか……。
「いたっ」
ついに包丁が滑って……聡は反射的に親指を見た。
血の気のない、皮膚の切れ目に、徐々に血が滲み出てくる。
傷はさして深くなさそうだったが、聡はビーズのようにふくれた血の珠を凝視して動けなくなった。
――いつか、将の家でこんなことがあった。
あのとき、将は……戯れに指に口づけしようとした。
そのあと……初めて深い口づけをして抱き合った……。
押し寄せてくるせつない思い出が、聡を心ごと飲み込んでいく。
――いやだ。
――将と、離れたくない。絶対に。
聡はその場にしゃがみこんだ。
そのとき。
携帯が鳴った。将だ。
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