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第21章 卒業
第363話 忘れ雪(2)
しおりを挟む「……聡。聞いてくれ」
闇に閉ざされた聡の心を知らない博史は、身を乗り出すようにして聡に語りかけてきた。
その真摯さは顔をあげられない聡にも伝わった。
……だが、聡の視線は博史のカップより上にあがらない。まるで将が引き止めているように。
「君が僕から離れて……いなくなって初めて気付いたんだ。僕の中の君の大きさを」
いなくなって。
そんなことを言っても。聡は心の中で反駁する。
留学から帰って以来、聡が博史と逢えたのは、年に3回だけ。
博史にとって聡など、いないほうが日常だったんではないか。
終わった恋にここまで辛らつになれる自分の冷静さに聡は呆れる。
「確かに、僕達は年に3回しか逢えなかったけど……。僕の帰りを待っている聡がいないのは……しみじみ堪えたよ」
……まるで聡の心が見えるかのような博史に、聡は思わず視線をあげてしまい……それは強くて太い博史の視線にからめとられてしまった。
博史はそれを待っていたかのようだった。
「聡。僕は、君をきっと幸せにする」
聡はおびえて唾を飲み込んだ。
抵抗するように、博史の声音のどこかに軽軽しさを探そうとしたが、無駄だった。
博史の声は、聡の人生を引き受ける覚悟に満ちていた。
博史の視線は、聡への愛情で、拒否しようとする聡の皮膚にさえしみこんでいくかのようだった。
ありえない。
聡はなおも思う。
自分を幸せにできるのは将、ただ一人だけ。
聡は博史の愛情を受け止めてしまいそうになる自分を許せなくてすぐさま視線を下にそらした。
そのとき、ぐるりとお腹の中の『ひなた』が聡の中で動いた。
皮膚から沁み込んだ博史の視線が血液を通ってひなたに到達したのだろうか。
そして、それを恐れたのだろうか。
「形式だけでいいんだ。……お腹の子供のためにも、僕と結婚してくれ」
それをも見えたかのように、博史は『ひなた』のことを口にした。
――お腹の子。ひなた。将の残した大切な赤ちゃん。
もしも。
将の幸せのために……康三の申し入れを受け容れるなら。
将と別れるならば。
それを考えるだけで、張り裂けそうになる心を堪えて、聡は……一歩先を……『ひなた』のことに考えを進めてみる。
将と別れるならば。
『ひなた』は父を知らない子になる。
将が父であることも……おそらく口にすることは禁じられるのだろう。
生まれたときから、父なし子。
シングルマザーが多い現代だとはいえ……愛するわが子に、お前は両親の愛の結晶なのだ、二人が待ち望んで生まれたのだ……それを伝えられないのはどれだけ悲しいことだろうか。
一度動き出したひなたは、お腹の中で、ごぼごぼと動き続ける。
『お腹の赤ちゃんは、お母さんの心がわかるんですよ』
いつか医師が言っていた。
ひなたは……自分を父なし子にしないで、と必死で体を動かしているのだろうか……。
「生まれてくる子は、僕の子だ」
聡は再び顔をあげた。
博史は澄んだ瞳で聡の瞳が戻ってくるのを待っていた。
「聡が産む子は、僕の子だ」
……違う。『ひなた』は……将の。将の。
――将に似た子がほしい。
それは聡の願いだった。
大きいのに鋭い印象の、強い瞳は聡を見つけると和らいだ。
強い意志を示すような眉は照れて笑うと驚くほど角度を変え。
少女のように愛らしい唇は、涙を堪えて歯を食いしばるとき凛々しい男になった。
きっと聡は……生まれ出た『ひなた』のあちこちに将の面影を探すに違いない。
将の断片が成長する姿を楽しみにするに違いないのだ。
「子供は、絶対に可愛がる。僕は……きっといい父親になるよ。できる限り、いい教育を与えるよ。……聡?」
博史が心配そうに聡をのぞきこんだ。
知らないうちに聡は、涙を流していたことに、今気付いた。
聡の中ですべてが遮断していたのだ。
――将。
ひなたのために、将のかわりに……博史をあてがう。そんなことがいったいできるのだろうか。
将を忘れて、博史を愛する未来は訪れるのだろうか。
かつては、逆だったのに……ひとたび考えて聡はなおも否定する。
逆だったのではない。
将と出会っていなかったから。
将を知らなかったから……なのだ。
いったん将を知って、愛してしまったからには……もう博史の元へは戻れない。
「……鷹枝くんのことは」
聡の涙から察したのか、博史は、将の名前を舌に乗せる。
それはいかにも苦そうに……博史の顔が一瞬歪む。
「……聡が、忘れられるまで、ずっと……待つよ」
……じゃあ、一生、忘れられなかったら?
聡は即座にそう問い掛けたくなる。
だが、一瞬苦しげに歪んだ博史の瞳は、次の瞬間、光を放って輝いた。
「聡、頼む。……僕を利用してくれ」
利用。利益のために、用いる……聡にとっての、一方的な打算。
そんな風に結婚を申し出て……博史は、それでいいのだろうか。
聡は、涙をぬぐいながら、かつてのクリスマスを思い出す。
あのとき……博史は、余命を宣告された母のために、結婚を早めようとしていた。
子供も早くつくって孫の顔を親に見せたいと言っていた。
それは親の残り少ない人生を、少しでも喜ばせたい、きれいな打算だった。
そんな打算を頭では理解しつつも……今考えれば、聡の心が博史から急速に離れた原因にもなったと思う。
だけど、今回は。
聡の事情のために……博史は自らの人生を投げ出してもいいというのか。
「聡のために生きさせてくれ」
博史はなおも訴える。
その見開いた細い瞳に、聡はあることを思い出す。
思い出したとたん、心臓がぎゅっと収縮し、動きを速める。
博史によく似ていた……博史の母・薫。
クリスマスに余命1年だといっていた。
『一緒にカナダの紅葉を見に行きましょうね……』
優しい声が、たった今聞いたように蘇る。
「あの……」
涙を拭った光沢のあるナプキンを置くと、聡は思い切って問い掛けた。
「お母……様は?」
聡からのひさびさの返答に、いったん表情を和らげた博史だったが、その問いは予想外だったようだ。
何回かまたたきをすると、とっさに目を伏せる。
控えめながら……ふいに噴出しそうな悲しみを、隠すような博史の瞼の動きに、聡は答えを聞く前に、おおよその答えがわかってしまった。
「……亡くなったよ。去年の4月に」
聡は、ああ、と声をあげそうになるのを必死で止めて……大きく息を飲み込んだ。
2年前の11月の時点で余命1年といっていたはずなのに。
それを待たずに……ずっと早くに博史の母・薫は逝ってしまったのだ。
――自分のせいだ。
聡は……息ができなくなった肺を心臓が責めがごとく圧迫するのを感じている。
「聡のせいじゃない」
凍りついた聡の顔を見て、博史が助け舟を出す。
「あのあと、一度よくなったんだ。……花見にも行けたんだ。だけど桜が散るなり……急に悪くなって……再入院して2週間でダメだった。……聡のことは関係ない」
博史の口調は、淡々としていた。
それは……強い悲しみが、ようやく乾いた痕跡ゆえということに聡は気付いている。
聡の頬を涙が再び伝った。
きっと、きっと、自分のせいなのだ。
あの優しいひと……薫から生きる希望を失わせたのは自分だ。
そうでなければ、余命1年が……半年近くも短くなるはずがない。
――きっと、自分はいつか罰を受ける。
聡は強く予感した。
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