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3:シンクロする面影(3)
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「早川先……生!」
廊下に響いた声に、里玖は心臓を指先で弾かれたような衝撃を覚えた。
ドクン、と早鐘を打つ鼓動を無理やり表情の下に押し込め、彼女は努めて静かに振り返る。
呼び止めたのは――朝倉翔生。
「朝倉君、何ですか?」
できるだけ平静を装って返す。
だが、声の震えを押し殺すのに必死だった。
意識しているせいだろうか。昨日のホームルームでも、今日の英語の授業でも、やたらと彼と目が合う気がする。
昨日の反省文の「あの字」を見て以来、どうにも彼に目が行ってしまう。
(私が彼を意識して見ているから? それとも、彼が私を見ているから……?)
いやいや、と里玖は心の中で首を振った。
彼は生徒。
自分は教師。
生徒が、授業中に教師に注目するのは当たり前だ。
バイク事故以来、心を入れ替えたのか、毎日登校し、授業にも真面目に取り組んでいる。髪は黄色いままだけれど。
(邪な目で見てはいけない……)
そう自分に言い聞かせながらも、心は翔生にかき乱されていた。
そんな彼が、廊下で自分を呼び止めた。
「あ、あの……」
翔生は言いよどみながらも、まっすぐな視線を向けてくる。その視線が、胸の奥をざわつかせた。
動揺を悟られまいと、里玖は、教師としての「涼しい顔」を貼り付けた。
生徒に舐められないよう、少しだけ目に力を込め、口角を上げる。
「えと、進路のフォームの書き方が……よくわかりません」
何かの口実のようにも見える。だが、手にはちゃんとタブレットを持っていた。
「どこで詰まってる?」
「えと……」
翔生は画面を開きながら、どこか落ち着かない様子で言葉を探している。
一方、海斗は――昨日から引き続き胸の奥に渦巻く焦燥を抑えきれずにいた。
どうすれば彼女の「空白の五年」を解き明かせるのか。
でも、この姿でまさか本人に聞くわけにはいかない。
それに、朝倉翔生は不登校の問題児。
他の教師とも気軽に世間話して探りを入れられるような関係性でもない。
いや、里玖の今に至るまでの謎も気になるが、それより。
ただ……里玖と話したい。声が聞きたい。
突き詰めると海斗の望みはそこにあった。
恋人だった里玖と直接会話したのはいつだったか……。
たったの三日前、朝倉翔生に「憑依」する前——最後の任務は2022 年 3月 21日だった。
里玖に最後に会ったのは、その少し前――バレンタインデー。
海斗にとっては、一ヶ月強ほど前のことだが、この世界からは五年以上前になる。
あのとき、
「海斗のほうが上手かもしれんけど」
そう言って、里玖は手作りのチョコレートケーキを焼いてくれた。
海斗好みの、市販品にはないほろ苦いチョコレートケーキには、甘い愛情がぎっしり詰まっていた。
あのとき、確かに彼女を腕の中に抱いた。
艦艇乗りだったから、遠距離恋愛には慣れていたはずなのに。
今は――こんなに近くにいるのに、
ほぼ毎日顔を合わせているのに、
あまりにも遠い。
(だから……せめて、声が聞きたい)
知恵を絞ってひねり出した唯一の口実が、手に持ったタブレットの中、「進路フォームの書き方を聞く」だった。
「進学希望ですか?」
里玖がタブレットを覗き込む。
自然と二人の顔が近づく。
海斗は、息が止まりそうになった。
(……この香り)
ふわりと鼻腔をくすぐる、懐かしい里玖の匂い。
彼女は香水をつけない。
微かなコンディショナーと、清潔な石鹸の香り。
そして、他人にはわからないほど微かな……何度も抱きしめた海斗だからこそ知っている、里玖自身の柔らかな体臭。
(変わってない……里玖だ)
忘れようがない。
「どうですか? やれそうですか?」
里玖の声が降ってくる。
「あ、はい。なんとか」
海斗は香りに酔いしれそうになるのを必死で堪えた。
「お母様からは、夏休み明けに留学予定があると聞いてるけど……
期間によって卒業をどうするかもあるから、早めに相談してくださいね」
「……え? 留学?」
思いがけない単語に、海斗はぽかんと口を開けてしまった。
その反応に、里玖が首をかしげる。
「え、思い違いだった?
たしかにお母様から連絡もらったと思ったんだけど……」
「あ、たぶん間違いです」
海斗は慌てて取り繕った。
「ごめんなさいね。あんなに英会話が上達してたから、留学用に習ったのかと思って」
「あ、いや……」
せっかく近くにいられるのに、また離れるなんて耐えられない。
その焦りが、無意識に里玖を強い視線で見つめる形になっていた。
里玖は、その視線にまたも胸がざわついた。
「……また何かあったら遠慮なく聞いてくださいね。じゃあ」
動悸が早まり、体が震え出しそうになるのを必死で抑えながら、里玖はその場を逃げるように立ち去った。
海斗は、伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
廊下に響いた声に、里玖は心臓を指先で弾かれたような衝撃を覚えた。
ドクン、と早鐘を打つ鼓動を無理やり表情の下に押し込め、彼女は努めて静かに振り返る。
呼び止めたのは――朝倉翔生。
「朝倉君、何ですか?」
できるだけ平静を装って返す。
だが、声の震えを押し殺すのに必死だった。
意識しているせいだろうか。昨日のホームルームでも、今日の英語の授業でも、やたらと彼と目が合う気がする。
昨日の反省文の「あの字」を見て以来、どうにも彼に目が行ってしまう。
(私が彼を意識して見ているから? それとも、彼が私を見ているから……?)
いやいや、と里玖は心の中で首を振った。
彼は生徒。
自分は教師。
生徒が、授業中に教師に注目するのは当たり前だ。
バイク事故以来、心を入れ替えたのか、毎日登校し、授業にも真面目に取り組んでいる。髪は黄色いままだけれど。
(邪な目で見てはいけない……)
そう自分に言い聞かせながらも、心は翔生にかき乱されていた。
そんな彼が、廊下で自分を呼び止めた。
「あ、あの……」
翔生は言いよどみながらも、まっすぐな視線を向けてくる。その視線が、胸の奥をざわつかせた。
動揺を悟られまいと、里玖は、教師としての「涼しい顔」を貼り付けた。
生徒に舐められないよう、少しだけ目に力を込め、口角を上げる。
「えと、進路のフォームの書き方が……よくわかりません」
何かの口実のようにも見える。だが、手にはちゃんとタブレットを持っていた。
「どこで詰まってる?」
「えと……」
翔生は画面を開きながら、どこか落ち着かない様子で言葉を探している。
一方、海斗は――昨日から引き続き胸の奥に渦巻く焦燥を抑えきれずにいた。
どうすれば彼女の「空白の五年」を解き明かせるのか。
でも、この姿でまさか本人に聞くわけにはいかない。
それに、朝倉翔生は不登校の問題児。
他の教師とも気軽に世間話して探りを入れられるような関係性でもない。
いや、里玖の今に至るまでの謎も気になるが、それより。
ただ……里玖と話したい。声が聞きたい。
突き詰めると海斗の望みはそこにあった。
恋人だった里玖と直接会話したのはいつだったか……。
たったの三日前、朝倉翔生に「憑依」する前——最後の任務は2022 年 3月 21日だった。
里玖に最後に会ったのは、その少し前――バレンタインデー。
海斗にとっては、一ヶ月強ほど前のことだが、この世界からは五年以上前になる。
あのとき、
「海斗のほうが上手かもしれんけど」
そう言って、里玖は手作りのチョコレートケーキを焼いてくれた。
海斗好みの、市販品にはないほろ苦いチョコレートケーキには、甘い愛情がぎっしり詰まっていた。
あのとき、確かに彼女を腕の中に抱いた。
艦艇乗りだったから、遠距離恋愛には慣れていたはずなのに。
今は――こんなに近くにいるのに、
ほぼ毎日顔を合わせているのに、
あまりにも遠い。
(だから……せめて、声が聞きたい)
知恵を絞ってひねり出した唯一の口実が、手に持ったタブレットの中、「進路フォームの書き方を聞く」だった。
「進学希望ですか?」
里玖がタブレットを覗き込む。
自然と二人の顔が近づく。
海斗は、息が止まりそうになった。
(……この香り)
ふわりと鼻腔をくすぐる、懐かしい里玖の匂い。
彼女は香水をつけない。
微かなコンディショナーと、清潔な石鹸の香り。
そして、他人にはわからないほど微かな……何度も抱きしめた海斗だからこそ知っている、里玖自身の柔らかな体臭。
(変わってない……里玖だ)
忘れようがない。
「どうですか? やれそうですか?」
里玖の声が降ってくる。
「あ、はい。なんとか」
海斗は香りに酔いしれそうになるのを必死で堪えた。
「お母様からは、夏休み明けに留学予定があると聞いてるけど……
期間によって卒業をどうするかもあるから、早めに相談してくださいね」
「……え? 留学?」
思いがけない単語に、海斗はぽかんと口を開けてしまった。
その反応に、里玖が首をかしげる。
「え、思い違いだった?
たしかにお母様から連絡もらったと思ったんだけど……」
「あ、たぶん間違いです」
海斗は慌てて取り繕った。
「ごめんなさいね。あんなに英会話が上達してたから、留学用に習ったのかと思って」
「あ、いや……」
せっかく近くにいられるのに、また離れるなんて耐えられない。
その焦りが、無意識に里玖を強い視線で見つめる形になっていた。
里玖は、その視線にまたも胸がざわついた。
「……また何かあったら遠慮なく聞いてくださいね。じゃあ」
動悸が早まり、体が震え出しそうになるのを必死で抑えながら、里玖はその場を逃げるように立ち去った。
海斗は、伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
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