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4:みだれゆくこころ(6)
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里玖の職員会議が終わる頃を見計らって、海斗は七海の小さな手を引いて、学校へと向かった。
アキトはブレイキンのレッスンに向かったため、今は二人きりだ。
「ぱぱー、たのしかったね」
「ああ、そうやね」
七海の小さな掌の温もりが心地いい。
童心に返って砂浜で遊んだのなんて、いつ以来だろう。
七海は歩きながら何度も海斗の手を揺らし、笑顔を向けてくる。
「また遊んでね、ぱぱ」
ぱぱ、ぱぱ、とあまりに自然に呼ばれるので、海斗は妙な気分になる。
七海に父親はいない。つまり、里玖はシングルマザーなのだ。
(まさか、七海は俺の子……?)
ふと、そんな可能性が脳裏をよぎる。
海斗が行方不明扱いになった、あの 2022年 3月 21日。もしもあの時、里玖の体の中に新しい命が宿っていたとしたら――七海と同じくらいに成長していてもおかしくない。
(いや、ありえない)
すぐに別の記憶がその可能性を打ち消した。
里玖はあの頃、ピルを使っていた。
海斗と一つになるときは、薄いゴムにすら隔てられたくないから、私が気を付ける。
二人きりのときは、そんな大胆な愛情表現さえ厭わなかった、里玖。
しかし、その記憶はさらに残酷な痛みを連れてくる。
(……つまり、俺にはピルを使ったのに。
俺がいなくなったあとに付き合った男には、使わなかったってことか)
海斗とは間違いがないよう気を付けていた彼女が、次の男とは、子供ができても構わないと思うほど深く愛し合った。
七海の存在そのものが、海斗がいなくなった後の里玖の「別の恋」の証明に思えてしまった。
七海がぎゅっと海斗の手を握り直し、屈託のない笑顔を向ける。
七海のつやつやした頬は可愛い。
だが同時に、この子は里玖が“ほかの男と愛し合った結晶”でもある。
(その男はどこへ消えたんだ。こんな可愛い子と里玖を残して……)
海斗は引きつりそうになる頬を必死に持ち上げ、七海に笑いかけた。
胸の奥では、見知らぬ男への煮えくり返るような嫉妬と、その男が里玖を一人にしたことへの憤りが渦巻いていた。
* * *
ここを曲がると校門が見える、という角で、里玖とバッタリ出会った。
声をかけようとした海斗は里玖の殺気立った雰囲気に息をのんだ。周辺を走り回ったのか、里玖は髪を乱し、肩を荒く上下させていた。
どうやらパニック状態で七海を探し回っていたことは明確だ。
「七海!」
里玖は駆け寄るなり、海斗からひったくるようにして七海を抱き上げ、その小さな体を押し潰さんばかりに抱き締めた。
「……どこに連れて行っていたんですか!」
次の瞬間、涙声に近い怒鳴り声が海斗を射抜いた。里玖の瞳には、安堵よりも先に、激しい怒りの炎が宿っていた。
海斗は一瞬、言葉を失った。
「ぱぱをおこらないで!」
海斗をかばうように七海が叫んだ。
「……ぱぱ?」
「お兄ちゃんが、ななみのぱぱになってくれるんだ」
七海は力強く言ったが、それを聞いた里玖の顔は、驚愕と嫌悪で歪んだ。
海斗はどうしたらいいか困って、後頭部を掻きながら
「……すみません。なんか、そういう流れになっちゃって」
ととりあえずは謝った。
怒鳴られても言い返さず、どこか優しさを孕んだやるせなさそうな言い訳。その仕草、その声のトーン。里玖の中でまたイメージがシンクロする。
七海がいなくなったことでぐちゃぐちゃに乱れた心にそのシンクロはストレートに突き刺さった。
「心配させちゃいましたね。本当に、ごめんなさい」
海斗が静かに頭を下げた。
その瞬間だった。里玖の中で、昔の記憶がはじけた。
海斗がまだ訓練生だった頃。乗艦していた巡視艇が転覆したことがあった。
荒れる冬の海。報道でそれを知った里玖は、気が狂いそうになるほど心配した。
幸い、転覆直前に救命ボートが出され、訓練生は全員救助されたのだが……。
救助された海斗が、安堵で泣きじゃくる里玖の前で頭を下げたのだ。
『心配させちゃったね。本当にごめん』
――同じ言い方。
――同じ声の震え。
――同じ、目。
そしてあの進路希望フォーム。そこには、海斗が語っていた夢があった。
「世界中の美味しい港料理を紹介するようなあったかい店を作る」
——里玖の心が、ついにはじけ飛んだ。
(やめて……!)
「……どこで、あの人のことを調べたんですか」
里玖の声が震えているのを海斗の耳はとらえた。
「……え?」
里玖は震える声でさらに叫んだ。
「あの人の代わりは、どこにもいないから! もう、こんな真似はやめて……お願いだから!」
里玖の叫びは、怒りよりも、悲鳴に近かった。
それは海斗への怒りである以上に、揺らぎそうになる自分自身への拒絶だった。里玖は七海を抱いたまま、逃げるように校舎の中へと駆け込んでいった。
夕闇が迫る校門。海斗は一人、自分の影だけを見つめて立ち尽くしていた。
アキトはブレイキンのレッスンに向かったため、今は二人きりだ。
「ぱぱー、たのしかったね」
「ああ、そうやね」
七海の小さな掌の温もりが心地いい。
童心に返って砂浜で遊んだのなんて、いつ以来だろう。
七海は歩きながら何度も海斗の手を揺らし、笑顔を向けてくる。
「また遊んでね、ぱぱ」
ぱぱ、ぱぱ、とあまりに自然に呼ばれるので、海斗は妙な気分になる。
七海に父親はいない。つまり、里玖はシングルマザーなのだ。
(まさか、七海は俺の子……?)
ふと、そんな可能性が脳裏をよぎる。
海斗が行方不明扱いになった、あの 2022年 3月 21日。もしもあの時、里玖の体の中に新しい命が宿っていたとしたら――七海と同じくらいに成長していてもおかしくない。
(いや、ありえない)
すぐに別の記憶がその可能性を打ち消した。
里玖はあの頃、ピルを使っていた。
海斗と一つになるときは、薄いゴムにすら隔てられたくないから、私が気を付ける。
二人きりのときは、そんな大胆な愛情表現さえ厭わなかった、里玖。
しかし、その記憶はさらに残酷な痛みを連れてくる。
(……つまり、俺にはピルを使ったのに。
俺がいなくなったあとに付き合った男には、使わなかったってことか)
海斗とは間違いがないよう気を付けていた彼女が、次の男とは、子供ができても構わないと思うほど深く愛し合った。
七海の存在そのものが、海斗がいなくなった後の里玖の「別の恋」の証明に思えてしまった。
七海がぎゅっと海斗の手を握り直し、屈託のない笑顔を向ける。
七海のつやつやした頬は可愛い。
だが同時に、この子は里玖が“ほかの男と愛し合った結晶”でもある。
(その男はどこへ消えたんだ。こんな可愛い子と里玖を残して……)
海斗は引きつりそうになる頬を必死に持ち上げ、七海に笑いかけた。
胸の奥では、見知らぬ男への煮えくり返るような嫉妬と、その男が里玖を一人にしたことへの憤りが渦巻いていた。
* * *
ここを曲がると校門が見える、という角で、里玖とバッタリ出会った。
声をかけようとした海斗は里玖の殺気立った雰囲気に息をのんだ。周辺を走り回ったのか、里玖は髪を乱し、肩を荒く上下させていた。
どうやらパニック状態で七海を探し回っていたことは明確だ。
「七海!」
里玖は駆け寄るなり、海斗からひったくるようにして七海を抱き上げ、その小さな体を押し潰さんばかりに抱き締めた。
「……どこに連れて行っていたんですか!」
次の瞬間、涙声に近い怒鳴り声が海斗を射抜いた。里玖の瞳には、安堵よりも先に、激しい怒りの炎が宿っていた。
海斗は一瞬、言葉を失った。
「ぱぱをおこらないで!」
海斗をかばうように七海が叫んだ。
「……ぱぱ?」
「お兄ちゃんが、ななみのぱぱになってくれるんだ」
七海は力強く言ったが、それを聞いた里玖の顔は、驚愕と嫌悪で歪んだ。
海斗はどうしたらいいか困って、後頭部を掻きながら
「……すみません。なんか、そういう流れになっちゃって」
ととりあえずは謝った。
怒鳴られても言い返さず、どこか優しさを孕んだやるせなさそうな言い訳。その仕草、その声のトーン。里玖の中でまたイメージがシンクロする。
七海がいなくなったことでぐちゃぐちゃに乱れた心にそのシンクロはストレートに突き刺さった。
「心配させちゃいましたね。本当に、ごめんなさい」
海斗が静かに頭を下げた。
その瞬間だった。里玖の中で、昔の記憶がはじけた。
海斗がまだ訓練生だった頃。乗艦していた巡視艇が転覆したことがあった。
荒れる冬の海。報道でそれを知った里玖は、気が狂いそうになるほど心配した。
幸い、転覆直前に救命ボートが出され、訓練生は全員救助されたのだが……。
救助された海斗が、安堵で泣きじゃくる里玖の前で頭を下げたのだ。
『心配させちゃったね。本当にごめん』
――同じ言い方。
――同じ声の震え。
――同じ、目。
そしてあの進路希望フォーム。そこには、海斗が語っていた夢があった。
「世界中の美味しい港料理を紹介するようなあったかい店を作る」
——里玖の心が、ついにはじけ飛んだ。
(やめて……!)
「……どこで、あの人のことを調べたんですか」
里玖の声が震えているのを海斗の耳はとらえた。
「……え?」
里玖は震える声でさらに叫んだ。
「あの人の代わりは、どこにもいないから! もう、こんな真似はやめて……お願いだから!」
里玖の叫びは、怒りよりも、悲鳴に近かった。
それは海斗への怒りである以上に、揺らぎそうになる自分自身への拒絶だった。里玖は七海を抱いたまま、逃げるように校舎の中へと駆け込んでいった。
夕闇が迫る校門。海斗は一人、自分の影だけを見つめて立ち尽くしていた。
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