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5:激流の向こう側(1)
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翌日は、昨日の好天から打って変わって、朝から大雨に見舞われた。
海斗は、カーテンも開けず、魂が抜けたように真っ暗なベッドに沈んでいた。
体が重いというより、心がどこかに置き去りになったような感覚だった。
この体になってから、学校を休むのは初めてだ。
完全防音のはずなのに、どこからともなく雨音がしのびこんでくる。
薄暗い虚空を眺める海斗の胸の奥で、雨音に交じって里玖のあの悲鳴のような拒絶が、何度もリフレインする。
『あの人の代わりは、どこにもいないから!』
里玖にとって、自分は――朝倉翔生でしかない。
(……俺は、もう海斗じゃないのか)
そんな考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がひどく凍えた。
海斗としての記憶も想いも、里玖には届かない。拒絶はあまりにも鋭く、深く、海斗の心を抉った。
(……俺は、何をしてるんだろう)
絶望は澱のように、海斗の心を重く支配していた。時間ですらもなかなか過ぎ去ってくれなかった。かすかな雨音だけが部屋に響く。
* * *
一方、里玖は、激しい自己嫌悪に陥っていた。
始業時刻になっても薄暗い教室には蛍光灯が点灯したが、その中に朝倉翔生の姿はなかった。
朝倉翔生が、欠席。バイク事故の後から無欠席だったのに……。
(……言いすぎた)
昨日、わが子がいなくなった極度の不安と緊張、恐怖。七海を抱きしめて、それらから一気に解放されたとき、堰を切った感情は、怒りに変わった。自分をこんなに不安にさせた怒りへと。
不安の限界からの反動で、感情を制御できなくなった里玖は、一方的に彼を責めてしまった。
落ち着いてから七海の話を聞いてみると、朝倉翔生が、保育園を抜け出した七海を保護し、遊んでくれていたのは間違いない。
(あんなに感情的に怒鳴ってしまって……。生徒の話もロクに聞かないで……私、教師失格だ……)
胸が痛む。
だが後悔と同時に、いま里玖の思考を最も混乱させているのは、別のことだった。
――朝倉翔生の進路希望フォーム。
そこには、かつて海斗が語っていた夢がそのまま書かれていた。
『世界中の美味しい港料理を紹介するようなあったかい店を作る』
(……なんで、知ってるの)
艦艇乗りだった海斗は、世界各地の港を訪れ、そこで食べた美味しいものを再現して里玖に食べさせてくれた。それが高じた夢。
それをなぜ、朝倉翔生が、知っているのか。
思考を巡らせる里玖の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
(……波多野さん?)
海斗は、海自の退官時期を決めたころから、その夢のために少しずつ動いていた。
海斗自身も料理はなかなかのものだが、プロの腕とセンスが必要だと、かつて元・海上自衛隊の給養員(コック)で、先輩隊員の波多野を、熱心に口説いていたのだ。
里玖も一度、海斗に紹介されて波多野に会ったことがある。海斗が心から信頼を寄せている職人気質のほがらかな男だった。
(朝倉くん、波多野さんと……何か関係がある?)
そう考えると、すべてが繋がるような気がした。
波多野の個人の連絡先は知らない。だが、自衛隊を去った後、修行のために地元の有名フレンチ『グラン・メール』へ就職したという話を聞いていた。
さっそく里玖は、放課後のランチ営業が終わったあたりの時間を狙ってその店へ電話をかけた。幸い、波多野はまだその店に在籍していた。
「……早川さん。懐かしかー。どげんしましたか」
電話口の波多野の声は、数年前と変わらずほがらかだった。
波多野の声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。海斗の記憶が、否応なく蘇る。
二言、三言、形ばかりの近況を交わす。海斗の話題に触れそうになり、里玖は言葉を飲み込んだ。今は、感傷に浸っている場合ではない。
「波多野さん。突然で申し訳ないんですが……朝倉翔生という子を、ご存知ありませんか?」
「朝倉?」
波多野は短く復唱した。
「いえ、聞き覚えのない名前やね。うちの店のお客様ですか?」
「いえ、そうではないんですが。……ごめんなさい、変なことを聞いて」
「あーそうそう。俺、今、沖島食堂にメニュー開発の手伝いにいっとーとですよ。……あ、ごめん、ちょっと取り込み中だった、ほんとにごめん。また連絡して!」
波多野は、多忙中だったらしく、電話はあわただしく向こうから切れた。
里玖は、深く息を吐いた。謎は、ふりだしに戻った。
それと同時に思いがけないところから、海斗にまつわる単語が出てきたからか、まだ動悸が収まらない。
朝からの雨は止む気配はなかった。
海斗は、カーテンも開けず、魂が抜けたように真っ暗なベッドに沈んでいた。
体が重いというより、心がどこかに置き去りになったような感覚だった。
この体になってから、学校を休むのは初めてだ。
完全防音のはずなのに、どこからともなく雨音がしのびこんでくる。
薄暗い虚空を眺める海斗の胸の奥で、雨音に交じって里玖のあの悲鳴のような拒絶が、何度もリフレインする。
『あの人の代わりは、どこにもいないから!』
里玖にとって、自分は――朝倉翔生でしかない。
(……俺は、もう海斗じゃないのか)
そんな考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がひどく凍えた。
海斗としての記憶も想いも、里玖には届かない。拒絶はあまりにも鋭く、深く、海斗の心を抉った。
(……俺は、何をしてるんだろう)
絶望は澱のように、海斗の心を重く支配していた。時間ですらもなかなか過ぎ去ってくれなかった。かすかな雨音だけが部屋に響く。
* * *
一方、里玖は、激しい自己嫌悪に陥っていた。
始業時刻になっても薄暗い教室には蛍光灯が点灯したが、その中に朝倉翔生の姿はなかった。
朝倉翔生が、欠席。バイク事故の後から無欠席だったのに……。
(……言いすぎた)
昨日、わが子がいなくなった極度の不安と緊張、恐怖。七海を抱きしめて、それらから一気に解放されたとき、堰を切った感情は、怒りに変わった。自分をこんなに不安にさせた怒りへと。
不安の限界からの反動で、感情を制御できなくなった里玖は、一方的に彼を責めてしまった。
落ち着いてから七海の話を聞いてみると、朝倉翔生が、保育園を抜け出した七海を保護し、遊んでくれていたのは間違いない。
(あんなに感情的に怒鳴ってしまって……。生徒の話もロクに聞かないで……私、教師失格だ……)
胸が痛む。
だが後悔と同時に、いま里玖の思考を最も混乱させているのは、別のことだった。
――朝倉翔生の進路希望フォーム。
そこには、かつて海斗が語っていた夢がそのまま書かれていた。
『世界中の美味しい港料理を紹介するようなあったかい店を作る』
(……なんで、知ってるの)
艦艇乗りだった海斗は、世界各地の港を訪れ、そこで食べた美味しいものを再現して里玖に食べさせてくれた。それが高じた夢。
それをなぜ、朝倉翔生が、知っているのか。
思考を巡らせる里玖の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
(……波多野さん?)
海斗は、海自の退官時期を決めたころから、その夢のために少しずつ動いていた。
海斗自身も料理はなかなかのものだが、プロの腕とセンスが必要だと、かつて元・海上自衛隊の給養員(コック)で、先輩隊員の波多野を、熱心に口説いていたのだ。
里玖も一度、海斗に紹介されて波多野に会ったことがある。海斗が心から信頼を寄せている職人気質のほがらかな男だった。
(朝倉くん、波多野さんと……何か関係がある?)
そう考えると、すべてが繋がるような気がした。
波多野の個人の連絡先は知らない。だが、自衛隊を去った後、修行のために地元の有名フレンチ『グラン・メール』へ就職したという話を聞いていた。
さっそく里玖は、放課後のランチ営業が終わったあたりの時間を狙ってその店へ電話をかけた。幸い、波多野はまだその店に在籍していた。
「……早川さん。懐かしかー。どげんしましたか」
電話口の波多野の声は、数年前と変わらずほがらかだった。
波多野の声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。海斗の記憶が、否応なく蘇る。
二言、三言、形ばかりの近況を交わす。海斗の話題に触れそうになり、里玖は言葉を飲み込んだ。今は、感傷に浸っている場合ではない。
「波多野さん。突然で申し訳ないんですが……朝倉翔生という子を、ご存知ありませんか?」
「朝倉?」
波多野は短く復唱した。
「いえ、聞き覚えのない名前やね。うちの店のお客様ですか?」
「いえ、そうではないんですが。……ごめんなさい、変なことを聞いて」
「あーそうそう。俺、今、沖島食堂にメニュー開発の手伝いにいっとーとですよ。……あ、ごめん、ちょっと取り込み中だった、ほんとにごめん。また連絡して!」
波多野は、多忙中だったらしく、電話はあわただしく向こうから切れた。
里玖は、深く息を吐いた。謎は、ふりだしに戻った。
それと同時に思いがけないところから、海斗にまつわる単語が出てきたからか、まだ動悸が収まらない。
朝からの雨は止む気配はなかった。
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