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6:ささやかな招待(2)
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放課後の指導室。何日か前には、どんよりした空気が漂っていたその場所。
里玖は海斗に向き合うなり、深く、深く頭を下げた。
「土曜日は、七海の命を助けてくれて……本当に、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません」
海斗は思わずどぎまぎして、手を泳がせた。
「い、いえ! 当然のことをしただけですから。先生、頭を上げてください」
里玖はゆっくり顔を上げたが、その表情にはまだ緊張が残っていた。
何か言いにくいことがあるように、視線が揺れる。
「あの……それでですね」
何か自分に不手際があったのかと、海斗は息をのんで次の言葉を待った。
「七海が……朝倉君にお礼をしたいって」
「い、いえいえ、そんな……」
「七海が、“お兄ちゃんとご飯を食べたい”って言ってるんです」
「へ?」
「もし、もし嫌でなければですが……週末、あの子が気に入っているお店でランチにご招待してもいいでしょうか?」
あまりに予想外で、海斗は口を開けたまま固まった。
「……やっぱり、嫌ですよね。お休みの日に担任と会うなんて」
返事がないことを断り文句だと受け取ったのか、里玖が慌てて言葉を重ねる。
「行きます!」
海斗は食い気味に、彼女の目を真っ直ぐに見据えて返事をした。
「必ず行きます。……行かせてください」
「は……はい」
気圧された里玖が少しだけたじろいだが、すぐに
「よかった。七海が喜びます。朝倉君、ありがとう」
と、花が綻ぶような笑顔を見せた。
海斗の胸は思わずときめいた。この身体になってから――里玖が自分に笑いかけてくれたのは、初めてだった。
笑顔で指導室から出てきた二人を、遠くから杏奈が見つめていた。
* * *
その夜、海斗はハイヤーで送り届けられた「本宅」で、義母・佳乃の心尽くしの料理を囲んでいた。
「お兄ちゃま!」
玄関まで駆け寄ってきたのは、小学生低学年くらいの可愛い女の子だった。
おさげをレースのリボンで飾り、シンプルながらも裾が広がったジャンバースカートという上等な服を着ている。
「舞、お兄ちゃまは事故の記憶障害で、まだ思い出せないことがたくさんあるのよ」
佳乃の言葉に、舞と呼ばれた女の子は不思議そうに海斗を見上げた。
「きおくしょうがい……本当? お兄ちゃま」
「うん……」
海斗には”お兄ちゃま”呼びが慣れなくておもはゆい。
「……ピアノも弾けないの?」
(ピアノ……さすがにそれは、弾けん)
手続き記憶でいけるのかもしれないが、自信がなかった。
「ごめんな、舞。お兄ちゃん、ピアノも忘れちゃったんだ」
海斗がそっと舞の頭を撫でると、舞は子供ながらに切ない顔をして海斗の腕にすがりついてきた。
父が海外出張中だという食卓は、佳乃、舞、そして海斗の三人。
並んだメニューは、本来の翔生の好物ばかりだという。
破竹(はちく)を薄味で煮たもの、脂の乗ったカツオのたたき、そして丁寧に包まれた手作り餃子。
デザートには、佐藤錦を贅沢に使ったタルトまで用意されていた。
「タルト、舞も手伝ったの」
舞が嬉しそうにいう。
舞が楽しそうに家族の思い出を語り「お兄ちゃま、これ覚えてる?」と何度も確認してくる。
海斗は笑顔でごまかした。
(翔生は……やはりバイク事故で死んだのか?)
胸の奥がじんわりと痛んだ。 それにしても。
(親切で優しくて、料理上手な義母……可愛い妹。なんで翔生、グレたんだ?)
そんな疑問が浮かぶほど、食卓は温かかった。
紅茶のおかわりが淹れられた頃、佳乃が優しく切り出した。
「……翔生さん。留学先のことだけど、夏休みから受け入れてくれるところがいくつかあるの。将来を考えればアメリカがいいかしら。どこか、行きたい国はある?」
海斗はカップを持つ手を止めた。
「……留学は、しません」
海斗の言葉に、食卓の空気が一瞬で「ごわついた」。佳乃の微笑みがわずかに固まる。
しかし、佳乃は反対するでもなく、ただ静かにうなずいた。
「そう……。記憶障害がまだあるものね、無理もないわ。急がなくてもいいから、ゆっくり考えましょうね」
* * *
帰りのハイヤーの中。窓の外を流れていく夜の街を見つめながら、海斗は自分——翔生の手に視線を移してみる。
里玖に自分だと気づいてもらえなくても、翔生として生きていくしかない。
それはもう覚悟している。
けれど――
それは同時に「朝倉翔生」としての重い未来を引き受けることでもある。
視線をもう一度上げる。ハイヤーの窓に映る夜景が、ゆっくり流れていく。
その光のひとつひとつが、遠い未来のように見えた。
十七歳の未来が、海斗の肩にずしりとのしかかっていた。
里玖は海斗に向き合うなり、深く、深く頭を下げた。
「土曜日は、七海の命を助けてくれて……本当に、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません」
海斗は思わずどぎまぎして、手を泳がせた。
「い、いえ! 当然のことをしただけですから。先生、頭を上げてください」
里玖はゆっくり顔を上げたが、その表情にはまだ緊張が残っていた。
何か言いにくいことがあるように、視線が揺れる。
「あの……それでですね」
何か自分に不手際があったのかと、海斗は息をのんで次の言葉を待った。
「七海が……朝倉君にお礼をしたいって」
「い、いえいえ、そんな……」
「七海が、“お兄ちゃんとご飯を食べたい”って言ってるんです」
「へ?」
「もし、もし嫌でなければですが……週末、あの子が気に入っているお店でランチにご招待してもいいでしょうか?」
あまりに予想外で、海斗は口を開けたまま固まった。
「……やっぱり、嫌ですよね。お休みの日に担任と会うなんて」
返事がないことを断り文句だと受け取ったのか、里玖が慌てて言葉を重ねる。
「行きます!」
海斗は食い気味に、彼女の目を真っ直ぐに見据えて返事をした。
「必ず行きます。……行かせてください」
「は……はい」
気圧された里玖が少しだけたじろいだが、すぐに
「よかった。七海が喜びます。朝倉君、ありがとう」
と、花が綻ぶような笑顔を見せた。
海斗の胸は思わずときめいた。この身体になってから――里玖が自分に笑いかけてくれたのは、初めてだった。
笑顔で指導室から出てきた二人を、遠くから杏奈が見つめていた。
* * *
その夜、海斗はハイヤーで送り届けられた「本宅」で、義母・佳乃の心尽くしの料理を囲んでいた。
「お兄ちゃま!」
玄関まで駆け寄ってきたのは、小学生低学年くらいの可愛い女の子だった。
おさげをレースのリボンで飾り、シンプルながらも裾が広がったジャンバースカートという上等な服を着ている。
「舞、お兄ちゃまは事故の記憶障害で、まだ思い出せないことがたくさんあるのよ」
佳乃の言葉に、舞と呼ばれた女の子は不思議そうに海斗を見上げた。
「きおくしょうがい……本当? お兄ちゃま」
「うん……」
海斗には”お兄ちゃま”呼びが慣れなくておもはゆい。
「……ピアノも弾けないの?」
(ピアノ……さすがにそれは、弾けん)
手続き記憶でいけるのかもしれないが、自信がなかった。
「ごめんな、舞。お兄ちゃん、ピアノも忘れちゃったんだ」
海斗がそっと舞の頭を撫でると、舞は子供ながらに切ない顔をして海斗の腕にすがりついてきた。
父が海外出張中だという食卓は、佳乃、舞、そして海斗の三人。
並んだメニューは、本来の翔生の好物ばかりだという。
破竹(はちく)を薄味で煮たもの、脂の乗ったカツオのたたき、そして丁寧に包まれた手作り餃子。
デザートには、佐藤錦を贅沢に使ったタルトまで用意されていた。
「タルト、舞も手伝ったの」
舞が嬉しそうにいう。
舞が楽しそうに家族の思い出を語り「お兄ちゃま、これ覚えてる?」と何度も確認してくる。
海斗は笑顔でごまかした。
(翔生は……やはりバイク事故で死んだのか?)
胸の奥がじんわりと痛んだ。 それにしても。
(親切で優しくて、料理上手な義母……可愛い妹。なんで翔生、グレたんだ?)
そんな疑問が浮かぶほど、食卓は温かかった。
紅茶のおかわりが淹れられた頃、佳乃が優しく切り出した。
「……翔生さん。留学先のことだけど、夏休みから受け入れてくれるところがいくつかあるの。将来を考えればアメリカがいいかしら。どこか、行きたい国はある?」
海斗はカップを持つ手を止めた。
「……留学は、しません」
海斗の言葉に、食卓の空気が一瞬で「ごわついた」。佳乃の微笑みがわずかに固まる。
しかし、佳乃は反対するでもなく、ただ静かにうなずいた。
「そう……。記憶障害がまだあるものね、無理もないわ。急がなくてもいいから、ゆっくり考えましょうね」
* * *
帰りのハイヤーの中。窓の外を流れていく夜の街を見つめながら、海斗は自分——翔生の手に視線を移してみる。
里玖に自分だと気づいてもらえなくても、翔生として生きていくしかない。
それはもう覚悟している。
けれど――
それは同時に「朝倉翔生」としての重い未来を引き受けることでもある。
視線をもう一度上げる。ハイヤーの窓に映る夜景が、ゆっくり流れていく。
その光のひとつひとつが、遠い未来のように見えた。
十七歳の未来が、海斗の肩にずしりとのしかかっていた。
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