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6:ささやかな招待(4)
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引き戸をがらりと開けた瞬間、店内に満ちる出汁と醤油の香り。
七海がぱあっと顔を輝かせて駆け出した。
「おばあちゃーん!」
その声の先にいたのは、お盆を抱えた女性――海斗の母、圭子だった。
(母ちゃん……!)
海斗は目を見開いた。
「七海ちゃん。よく来たね~」
エプロンにしがみつく七海の頭を、優しく撫でている圭子は――五年という月日のせいか、記憶より少し小さくなり、目尻の皺も増えた気がする。
けれど、間違いなく海斗の母親だった。
(おばあちゃん……? 母ちゃんが、七海のおばあちゃん?)
現実が、頭に入ってこない。
圭子はふと気づいて、海斗の方へ視線を向けた。
「いらっしゃいませ~。おひとり様?」
思考を完全に停止した海斗は声も出ない。頷くことすらできない。
そのとき、里玖が遅れて店に入ってきた。
「こんにちは~」
「ああ、里玖ちゃん。よく来たねぇ」
圭子の顔がぱっと明るくなる。親密な二人のやり取りに、海斗の動悸は激しくなる。
「それがね、今ちょうど満席になっちゃって~。奥に入らんね……そちらさんは、カウンターだけならあけられそうだから、少し待っとってもらえますか?」
「あ、おばさん。この子が七海の命の恩人なんです。朝倉祥生くん」
里玖が言葉を添えた瞬間、圭子の目が大きく見開かれた。
「あら、このお兄さんが?イケメンさんやねえ~。孫を助けてくれて、本当にありがとうございます~」
母親に深々と頭を下げられ、海斗は思わず身を固くした。
深々と頭を下げる母親に対し、海斗は「あ、いや……」と、自分でも意味不明な会釈を返すのが精一杯だった。
「ささ、奥へどうぞ。ゆっくりしていって」
促されるまま、海斗は暖簾の奥――沖島家の生活空間へ足を踏み入れた。
そこは、海斗が物心ついた頃から慣れ親しんだ“家”だった。
裏手に玄関はあるが、海斗はいつもこの店側の出入り口を使っていた。
『ただいまーっ! かしわにぎりもらい~』
厨房からつまみ食いして叱られたあの日々。その厨房では今、父の晃が無言で中華鍋を振っている。
油のはぜる音、鉄のこすれる音――全部が懐かしくて、胸が痛い。
(父ちゃん……)
視界がかすむ。
夢の中を歩いているような足取りで、海斗は奥へ進んだ。
家の中は、海斗が知っている頃と何も変わっていなかった。
廊下の右に物置、風呂、洗面所。その先にダイニングキッチン。
里玖と七海は、慣れた様子でダイニングから廊下を挟んで向かいにある茶の間に腰を下ろした。
そこへ、圭子が麦茶とジュースをお盆に乗せて運んでくる。
「忙しいでしょうから、おかまいなく……」
「いいとよ。もうオーダーストップやけん、あとちょっとで落ち着くけん。お兄さんも座り~」
言われて初めて、海斗は自分が突っ立ったままだったことに気づいた。
現実感が薄い。ふわふわして、体が自分のものじゃないみたいだ。
圭子はメニュー表を座卓に置いた。
「好きなもの選び~。お兄さんも。メニューにないものも作れますけん、遠慮なく言ってね。七海の命の恩人さまやけん」
「あ、おばさん。私、お仏壇におまいりしときます」
里玖が言うと、圭子は目を細めて隣の部屋にある仏壇の方に顔を向けた。わずかな間だけれど。
「……そうしといて。あの子も喜ぶわ」
圭子は慌ただしく店に戻り、里玖は買ってきた花束を手にキッチンへ入った。
そして隣の部屋の仏壇から、いそいそと花瓶を持ってくる。
海斗は、なぜか心臓が暴れ出すのを感じた。仏壇の方向を見てはいけない気がしている。
「ショウあにきー、何食べる~?」
七海から無邪気にメニューを差し出され、視線をメニューに落とす。
内容は海斗の知る定番が並んでいるようだったが、文字など追える状態ではない。バクバクと暴れる心臓のせいで、視界が小刻みに揺れるほどだ。
キッチンから、花ばさみの音が、チョキン、チョキンと聞こえて、そのたびに胸が跳ねる。
やがて、整えられた花を花瓶に差し、里玖が茶の間に戻ってきた。
「あの……おまいりって」
乱れた呼吸を表に出さず、貼りついたような喉から絞り出すような努力をして、海斗は、里玖へ問いかける。
里玖は目を伏せ、やがて上げると静かに答えた。
「……七海の父親です。あさっての21日が月命日なので」
その瞬間、海斗は心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
七海がぱあっと顔を輝かせて駆け出した。
「おばあちゃーん!」
その声の先にいたのは、お盆を抱えた女性――海斗の母、圭子だった。
(母ちゃん……!)
海斗は目を見開いた。
「七海ちゃん。よく来たね~」
エプロンにしがみつく七海の頭を、優しく撫でている圭子は――五年という月日のせいか、記憶より少し小さくなり、目尻の皺も増えた気がする。
けれど、間違いなく海斗の母親だった。
(おばあちゃん……? 母ちゃんが、七海のおばあちゃん?)
現実が、頭に入ってこない。
圭子はふと気づいて、海斗の方へ視線を向けた。
「いらっしゃいませ~。おひとり様?」
思考を完全に停止した海斗は声も出ない。頷くことすらできない。
そのとき、里玖が遅れて店に入ってきた。
「こんにちは~」
「ああ、里玖ちゃん。よく来たねぇ」
圭子の顔がぱっと明るくなる。親密な二人のやり取りに、海斗の動悸は激しくなる。
「それがね、今ちょうど満席になっちゃって~。奥に入らんね……そちらさんは、カウンターだけならあけられそうだから、少し待っとってもらえますか?」
「あ、おばさん。この子が七海の命の恩人なんです。朝倉祥生くん」
里玖が言葉を添えた瞬間、圭子の目が大きく見開かれた。
「あら、このお兄さんが?イケメンさんやねえ~。孫を助けてくれて、本当にありがとうございます~」
母親に深々と頭を下げられ、海斗は思わず身を固くした。
深々と頭を下げる母親に対し、海斗は「あ、いや……」と、自分でも意味不明な会釈を返すのが精一杯だった。
「ささ、奥へどうぞ。ゆっくりしていって」
促されるまま、海斗は暖簾の奥――沖島家の生活空間へ足を踏み入れた。
そこは、海斗が物心ついた頃から慣れ親しんだ“家”だった。
裏手に玄関はあるが、海斗はいつもこの店側の出入り口を使っていた。
『ただいまーっ! かしわにぎりもらい~』
厨房からつまみ食いして叱られたあの日々。その厨房では今、父の晃が無言で中華鍋を振っている。
油のはぜる音、鉄のこすれる音――全部が懐かしくて、胸が痛い。
(父ちゃん……)
視界がかすむ。
夢の中を歩いているような足取りで、海斗は奥へ進んだ。
家の中は、海斗が知っている頃と何も変わっていなかった。
廊下の右に物置、風呂、洗面所。その先にダイニングキッチン。
里玖と七海は、慣れた様子でダイニングから廊下を挟んで向かいにある茶の間に腰を下ろした。
そこへ、圭子が麦茶とジュースをお盆に乗せて運んでくる。
「忙しいでしょうから、おかまいなく……」
「いいとよ。もうオーダーストップやけん、あとちょっとで落ち着くけん。お兄さんも座り~」
言われて初めて、海斗は自分が突っ立ったままだったことに気づいた。
現実感が薄い。ふわふわして、体が自分のものじゃないみたいだ。
圭子はメニュー表を座卓に置いた。
「好きなもの選び~。お兄さんも。メニューにないものも作れますけん、遠慮なく言ってね。七海の命の恩人さまやけん」
「あ、おばさん。私、お仏壇におまいりしときます」
里玖が言うと、圭子は目を細めて隣の部屋にある仏壇の方に顔を向けた。わずかな間だけれど。
「……そうしといて。あの子も喜ぶわ」
圭子は慌ただしく店に戻り、里玖は買ってきた花束を手にキッチンへ入った。
そして隣の部屋の仏壇から、いそいそと花瓶を持ってくる。
海斗は、なぜか心臓が暴れ出すのを感じた。仏壇の方向を見てはいけない気がしている。
「ショウあにきー、何食べる~?」
七海から無邪気にメニューを差し出され、視線をメニューに落とす。
内容は海斗の知る定番が並んでいるようだったが、文字など追える状態ではない。バクバクと暴れる心臓のせいで、視界が小刻みに揺れるほどだ。
キッチンから、花ばさみの音が、チョキン、チョキンと聞こえて、そのたびに胸が跳ねる。
やがて、整えられた花を花瓶に差し、里玖が茶の間に戻ってきた。
「あの……おまいりって」
乱れた呼吸を表に出さず、貼りついたような喉から絞り出すような努力をして、海斗は、里玖へ問いかける。
里玖は目を伏せ、やがて上げると静かに答えた。
「……七海の父親です。あさっての21日が月命日なので」
その瞬間、海斗は心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
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