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7:真実(5)
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「……顔洗いたいし、化粧直したいから、いったんおうちに帰る」
河川敷。海斗の腕の中でしばらく泣き続けていた里玖は、ようやく落ち着きを取り戻すと、ぽつりとそう言った。
「化粧、しとったと?」
「してるよ、そりゃ」
里玖は後ろを向いたまま、鼻をすんとすすった。そして、照れ隠しのように振り返って小さく笑う。
「教え子に泣き顔見せちゃったみたいで……はーずかし」
その笑顔はまだ少し赤くて、泣いた直後の弱さが残っていた。
団地にある里玖の部屋は、想像していたよりずっと沖島食堂に近かった。目と鼻の先と言ってもいい。
さっき乗ってきた軽自動車が、路上のパーキングスペースにちょこんと停まっている。
「汚くしてるけど……なんか、教え子を家にあげるみたいで変な感じ」
鍵を開けて通された玄関先で、まず目に飛び込んできたのは――洗濯機だった。
台の上に置いて底上げされているせいで、妙な存在感がある。
「古い団地だから洗濯用の排水口がなくてさ。お風呂場に流すために、洗濯機を高くあげとーと」
しかし、洗濯機の圧に押されながら玄関ホールを抜けると、そこには想像以上に明るく、心地よさそうな空間が広がっていた。
汚くしていると言ったのは謙遜だろう。むしろ、子どもがいる家にしては驚くほどこざっぱりしている。
壁は淡い水色に、天井はさらに深い空色に塗り替えられている。光が反射して、部屋全体がやさしい青に包まれていた。
プランツテーブルで土を隠した観葉植物。家具は――七海のために角に保護材をつけているけれど、ナチュラルな木のグラデーションで、統一感があった。
幼い子供がいるとは思えないほど、生活感より“センス”が勝っていた。
「座って」
里玖はダイニングの奥の間にある、小さな丸いちゃぶだいの座布団をすすめた。
親子二人だからこれくらいの大きさでいいのかもしれない。
元和室であろうそこも、畳の上にウッドカーペット、その上にコルクマットが敷かれている。
奥の押し入れの半分は壁と同じ色のカーテンで隠され、もう半分は里玖の仕事スペースになっているようだ。
押し入れの棚板の上はきれいに塗装され、ノートパソコンが畳んで置かれている。下段には丸椅子が収納されていた。
ウーロン茶を注ぐ里玖に、海斗は尋ねた。
「壁、自分で塗ったと?」
「うん。七海と一緒に。ここ古いから DIY が OK なんだ。まだ去年越してきたばっかなんよ」
「へえ~。めっちゃおしゃれやね」
「ありがと。ここだけキレイにしとうけど、あっちの部屋とか物置状態で見せられないけど」
里玖は「朝倉翔生」の姿を直視するのがまだ気恥ずかしいのか、あまり目を合わせようとしない。一口だけウーロン茶を飲むと、逃げるように洗面所へ向かった。
顔を洗う水の音を聞きながら、海斗はあらためて部屋を見渡した。
(もし、あの任務のあと……プロポーズして、順当に里玖と結婚していたら……
俺もこんな青い部屋に住んでたんかな)
里玖と一緒にペンキを塗る自分。あり得たはずの未来を、海斗は苦い想いで夢想した。
「そういえばさ」
タオルで顔を拭きながら戻ってきた里玖に、海斗は気になっていたことを切り出した。
「ピル使ってるって言っとったのに……なんで七海ができたと?」
反射的にそっぽを向く里玖の頬が少し赤くなるのが見えた。そのまま海斗の前を横切ると押し入れの仕事スペースの下段から丸椅子を引き出した。
ノートパソコンをどかして、スタンドミラーを前に置く。どうやら、ここが化粧台も兼ねているらしい。
「……バレンタインの少し前に、シート切らしちゃった時期があってさ」
海斗に背を向けた里玖は、鏡に向かって日焼け止めを塗り直しながら、ぽつりぽつりと説明する。
「でも、海斗が帰ってくる三日前くらいからまた飲みだしたけん、大丈夫だと思ってたら……大丈夫じゃなかったんだよね」
そう言って里玖は、ふっと振り返る。
「やー、教え子にこんな話するのやばっ。マジ恥ずかしいけん」
困ったように笑うと、また鏡に向き直った。
「も~本当に海斗なんだよね?」
背中越しに、確認するように言う。
「まさか、朝倉君が海斗の振りしてるって……ないよね?」
期待している返事がなくて、里玖は少し不安になる。振り返ると、海斗は黄色い髪ごと額に手を当て、何か考え込んでいた。
「海斗?」
「ああ、ごめん。ちょっと思い出してた。バレンタインのこと」
朝倉翔生の顔がこちらを向いたので、里玖はまた目をそらして「あ、そう」といった。そして小さくつぶやく。
「……もう五年以上も前の話だもんね」
「……俺にはまだ二か月前の話やけど」
二人の間に流れてきた時間のズレが、静かな部屋に浮き彫りになった。
河川敷。海斗の腕の中でしばらく泣き続けていた里玖は、ようやく落ち着きを取り戻すと、ぽつりとそう言った。
「化粧、しとったと?」
「してるよ、そりゃ」
里玖は後ろを向いたまま、鼻をすんとすすった。そして、照れ隠しのように振り返って小さく笑う。
「教え子に泣き顔見せちゃったみたいで……はーずかし」
その笑顔はまだ少し赤くて、泣いた直後の弱さが残っていた。
団地にある里玖の部屋は、想像していたよりずっと沖島食堂に近かった。目と鼻の先と言ってもいい。
さっき乗ってきた軽自動車が、路上のパーキングスペースにちょこんと停まっている。
「汚くしてるけど……なんか、教え子を家にあげるみたいで変な感じ」
鍵を開けて通された玄関先で、まず目に飛び込んできたのは――洗濯機だった。
台の上に置いて底上げされているせいで、妙な存在感がある。
「古い団地だから洗濯用の排水口がなくてさ。お風呂場に流すために、洗濯機を高くあげとーと」
しかし、洗濯機の圧に押されながら玄関ホールを抜けると、そこには想像以上に明るく、心地よさそうな空間が広がっていた。
汚くしていると言ったのは謙遜だろう。むしろ、子どもがいる家にしては驚くほどこざっぱりしている。
壁は淡い水色に、天井はさらに深い空色に塗り替えられている。光が反射して、部屋全体がやさしい青に包まれていた。
プランツテーブルで土を隠した観葉植物。家具は――七海のために角に保護材をつけているけれど、ナチュラルな木のグラデーションで、統一感があった。
幼い子供がいるとは思えないほど、生活感より“センス”が勝っていた。
「座って」
里玖はダイニングの奥の間にある、小さな丸いちゃぶだいの座布団をすすめた。
親子二人だからこれくらいの大きさでいいのかもしれない。
元和室であろうそこも、畳の上にウッドカーペット、その上にコルクマットが敷かれている。
奥の押し入れの半分は壁と同じ色のカーテンで隠され、もう半分は里玖の仕事スペースになっているようだ。
押し入れの棚板の上はきれいに塗装され、ノートパソコンが畳んで置かれている。下段には丸椅子が収納されていた。
ウーロン茶を注ぐ里玖に、海斗は尋ねた。
「壁、自分で塗ったと?」
「うん。七海と一緒に。ここ古いから DIY が OK なんだ。まだ去年越してきたばっかなんよ」
「へえ~。めっちゃおしゃれやね」
「ありがと。ここだけキレイにしとうけど、あっちの部屋とか物置状態で見せられないけど」
里玖は「朝倉翔生」の姿を直視するのがまだ気恥ずかしいのか、あまり目を合わせようとしない。一口だけウーロン茶を飲むと、逃げるように洗面所へ向かった。
顔を洗う水の音を聞きながら、海斗はあらためて部屋を見渡した。
(もし、あの任務のあと……プロポーズして、順当に里玖と結婚していたら……
俺もこんな青い部屋に住んでたんかな)
里玖と一緒にペンキを塗る自分。あり得たはずの未来を、海斗は苦い想いで夢想した。
「そういえばさ」
タオルで顔を拭きながら戻ってきた里玖に、海斗は気になっていたことを切り出した。
「ピル使ってるって言っとったのに……なんで七海ができたと?」
反射的にそっぽを向く里玖の頬が少し赤くなるのが見えた。そのまま海斗の前を横切ると押し入れの仕事スペースの下段から丸椅子を引き出した。
ノートパソコンをどかして、スタンドミラーを前に置く。どうやら、ここが化粧台も兼ねているらしい。
「……バレンタインの少し前に、シート切らしちゃった時期があってさ」
海斗に背を向けた里玖は、鏡に向かって日焼け止めを塗り直しながら、ぽつりぽつりと説明する。
「でも、海斗が帰ってくる三日前くらいからまた飲みだしたけん、大丈夫だと思ってたら……大丈夫じゃなかったんだよね」
そう言って里玖は、ふっと振り返る。
「やー、教え子にこんな話するのやばっ。マジ恥ずかしいけん」
困ったように笑うと、また鏡に向き直った。
「も~本当に海斗なんだよね?」
背中越しに、確認するように言う。
「まさか、朝倉君が海斗の振りしてるって……ないよね?」
期待している返事がなくて、里玖は少し不安になる。振り返ると、海斗は黄色い髪ごと額に手を当て、何か考え込んでいた。
「海斗?」
「ああ、ごめん。ちょっと思い出してた。バレンタインのこと」
朝倉翔生の顔がこちらを向いたので、里玖はまた目をそらして「あ、そう」といった。そして小さくつぶやく。
「……もう五年以上も前の話だもんね」
「……俺にはまだ二か月前の話やけど」
二人の間に流れてきた時間のズレが、静かな部屋に浮き彫りになった。
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