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8:朝倉翔生の影(1)
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それから、里玖はぽつりぽつりと、海斗がいなかった五年間を語り始めた。
ウーロン茶のグラスの中で、氷が時おり小さく鳴る。その音だけが、静かな部屋に淡く響いた。
七海を授かったときのこと。次に海斗が帰ってきたら、真っ先に伝えようと決めていたこと。
けれど海斗は帰ってこず、“行方不明”と知らされた瞬間、世界が真っ暗になったこと。
それでも、行方不明なら——いつか帰ってくるかもしれない、と何度も自分に言い聞かせたこと。
そして五月。
死亡宣告が出たときは、一瞬、自分も死んでしまおうと追い詰められたこと。
それでも、お腹の中に芽生えた海斗の忘れ形見だけは、絶対に守らなければならないと、思い直したこと。
シングルマザーになることを猛反対し、世間体を何より重んじる実母とは、出産を決めて以来ほとんど絶縁状態になってしまったこと。
里玖は淡々と話す。けれど、その一つひとつが海斗には重く、深く響いた。
そして——2022年11月。冷たい雨が降る日だったが、七海は驚くほど安産で、元気な産声をあげてこの世界に生まれてきたこと。
名前の由来も教えてくれた。
かつて海斗が「世界の海が職場」と笑っていたから、世界の海=七つの海=七海。その言葉を胸に、迷わず名付けたのだという。
「おじさんとおばさん(※海斗の両親)が……本当に、娘みたいにしてくれて。
七海のことも、いっぱい助けてくれた」
その一言に、海斗の胸がじんと熱くなる。
自分がいない間、両親がどれほど里玖と七海を支えてきたのか。想像するだけで胸が詰まった。
「去年までは沖島食堂に身を寄せてたんだけどね。この団地に空きが出たから、引っ越してきたんよ」
里玖はそう言って、少しだけ微笑むと「あ、ほらみて。七海の手形。壁のペンキ塗った時の」と壁の隅を指さした。そこには、周囲とは若干色合いが薄い、小さな手形があった。
渚学園に就職したのは二年前。今年からようやく担任を任されるようになったのだという。
「眼鏡はね、生徒になめられんようにかけてるだけ。ほぼ伊達」
海斗は思わず納得した。
向き合っている里玖の顔は、五年の年月の流れをまるで感じない。——二十九歳という実年齢は言われないと想像がつかないほどの童顔だ。
華奢な体つきも相まって、制服を着せればまだ高校生で通るだろう。むしろ、大人びた杏奈の方が年上に見えるほどだ。
そんな里玖は、朝倉翔生の顔を直視するのが恥ずかしいのか、話しながらも視線をそらしてばかりいた。
でも――その照れ方が、海斗にはたまらなく愛おしかった。
“海斗として扱ってくれている”その事実が、じわじわと胸に広がっていく。
「朝倉君の顔だから、なんか恥ずかしいんだよね」
里玖が何回目かにそういったときに、海斗は聞き返した。
「朝倉くんって、どんな生徒やったと?」
「朝倉君……学校を休みがちやったけど……」
里玖は、握った手を唇に当てて考え込む。その頬が、ほんのり赤く染まるのを海斗は見た。
「なん、顔赤くしとうと」
「赤くなってない」
「なっとる。里玖、朝倉となんかあったと?」
「何もないってば。キレイな顔だから……ちょっと、その顔で見つめんとってよ」
海斗は少しだけ唇を尖らせた。朝倉翔生の「美形ぶり」が、今は少しだけ恨めしい。
その様子を見て、里玖はふっと笑う。
「……あたしは、ずっと海斗だけを待っとったんやけん」
そう言って、そっと朝倉翔生――いや、海斗の腕に手を重ねた。
「里玖……」
小さな丸いちゃぶ台の上で、二人の距離が急激に縮まる。……吐息が触れそうなほどの至近距離。
「って! やっぱり無理!」
里玖が飛びのいた。
「だって顔が、どうしたって朝倉君だもん!」
海斗は膨れっ面をしながら、里玖の顔から伊達眼鏡を奪い取って自分の顔にかけた。
「これで印象薄れん?」
「余計に怪しい~。あ、じゃあこれは?」
里玖は押し入れのカーテンを開け、七海のおもちゃ箱から「ばいきんまん」のお面を取り出した。
海斗は素直にお面を被り「里玖、愛してる」と低い声で言った。
「ぷっ……ふふふ」
里玖はたまらず吹き出した。
お面を外した海斗は、わざと女子高生のような口調で「ひっど~い!」と茶化すと、部屋に明るい笑い声が響いた。
「ごめん、ごめん。ふふふ。あーやっぱり慣れないわ、その顔の海斗」
「早く慣れてよ。俺は里玖と、今まで通り付き合いたい」
笑っていた里玖の表情が、ふっと止まった。海斗――いや、朝倉翔生の顔をまっすぐ見つめる。
「でも……今の海斗の体は、私の教え子の朝倉君よ。しかも未成年。十二歳も年下」
「さすがに高校生のうちはまずいか……。そういや、俺らが一線を越えたのも、里玖が高校を卒業するのを待ってからだった……」
言い終えないうちにバチコン! と鋭い音が響いた。里玖が真っ赤な顔で海斗の肩を思い切り叩いたのだ。
「変なこと思い出させないでよ!」
「別に、変なことじゃないじゃん」
「んもう!その顔で言わないでってばー!」
里玖の蹴りが海斗の横腹に決まる。……いてぇ、と呻きながらも海斗は数年ぶりの里玖の蹴りが嬉しくてたまらない。
「だから、里玖、俺が卒業して、担任じゃなくなるのを待ってくれん?」
海斗の真剣な口ぶりに、里玖が止まる。
「待って……それって、朝倉君のまま、付き合うってこと?」
「そう」
「でも……朝倉君は……」
「その朝倉君が、今は俺なんだし。なんか問題ある?」
「そうだけど……」
里玖の声は、とまどっていた。
* * *
その頃。
誰にも見られないトイレの個室内で、杏奈は震える手で妊娠検査キットを見つめていた。
無機質な蛍光灯の光に照らされて、判定窓には、残酷なほどくっきりとした線が浮かび上がっていた。
ウーロン茶のグラスの中で、氷が時おり小さく鳴る。その音だけが、静かな部屋に淡く響いた。
七海を授かったときのこと。次に海斗が帰ってきたら、真っ先に伝えようと決めていたこと。
けれど海斗は帰ってこず、“行方不明”と知らされた瞬間、世界が真っ暗になったこと。
それでも、行方不明なら——いつか帰ってくるかもしれない、と何度も自分に言い聞かせたこと。
そして五月。
死亡宣告が出たときは、一瞬、自分も死んでしまおうと追い詰められたこと。
それでも、お腹の中に芽生えた海斗の忘れ形見だけは、絶対に守らなければならないと、思い直したこと。
シングルマザーになることを猛反対し、世間体を何より重んじる実母とは、出産を決めて以来ほとんど絶縁状態になってしまったこと。
里玖は淡々と話す。けれど、その一つひとつが海斗には重く、深く響いた。
そして——2022年11月。冷たい雨が降る日だったが、七海は驚くほど安産で、元気な産声をあげてこの世界に生まれてきたこと。
名前の由来も教えてくれた。
かつて海斗が「世界の海が職場」と笑っていたから、世界の海=七つの海=七海。その言葉を胸に、迷わず名付けたのだという。
「おじさんとおばさん(※海斗の両親)が……本当に、娘みたいにしてくれて。
七海のことも、いっぱい助けてくれた」
その一言に、海斗の胸がじんと熱くなる。
自分がいない間、両親がどれほど里玖と七海を支えてきたのか。想像するだけで胸が詰まった。
「去年までは沖島食堂に身を寄せてたんだけどね。この団地に空きが出たから、引っ越してきたんよ」
里玖はそう言って、少しだけ微笑むと「あ、ほらみて。七海の手形。壁のペンキ塗った時の」と壁の隅を指さした。そこには、周囲とは若干色合いが薄い、小さな手形があった。
渚学園に就職したのは二年前。今年からようやく担任を任されるようになったのだという。
「眼鏡はね、生徒になめられんようにかけてるだけ。ほぼ伊達」
海斗は思わず納得した。
向き合っている里玖の顔は、五年の年月の流れをまるで感じない。——二十九歳という実年齢は言われないと想像がつかないほどの童顔だ。
華奢な体つきも相まって、制服を着せればまだ高校生で通るだろう。むしろ、大人びた杏奈の方が年上に見えるほどだ。
そんな里玖は、朝倉翔生の顔を直視するのが恥ずかしいのか、話しながらも視線をそらしてばかりいた。
でも――その照れ方が、海斗にはたまらなく愛おしかった。
“海斗として扱ってくれている”その事実が、じわじわと胸に広がっていく。
「朝倉君の顔だから、なんか恥ずかしいんだよね」
里玖が何回目かにそういったときに、海斗は聞き返した。
「朝倉くんって、どんな生徒やったと?」
「朝倉君……学校を休みがちやったけど……」
里玖は、握った手を唇に当てて考え込む。その頬が、ほんのり赤く染まるのを海斗は見た。
「なん、顔赤くしとうと」
「赤くなってない」
「なっとる。里玖、朝倉となんかあったと?」
「何もないってば。キレイな顔だから……ちょっと、その顔で見つめんとってよ」
海斗は少しだけ唇を尖らせた。朝倉翔生の「美形ぶり」が、今は少しだけ恨めしい。
その様子を見て、里玖はふっと笑う。
「……あたしは、ずっと海斗だけを待っとったんやけん」
そう言って、そっと朝倉翔生――いや、海斗の腕に手を重ねた。
「里玖……」
小さな丸いちゃぶ台の上で、二人の距離が急激に縮まる。……吐息が触れそうなほどの至近距離。
「って! やっぱり無理!」
里玖が飛びのいた。
「だって顔が、どうしたって朝倉君だもん!」
海斗は膨れっ面をしながら、里玖の顔から伊達眼鏡を奪い取って自分の顔にかけた。
「これで印象薄れん?」
「余計に怪しい~。あ、じゃあこれは?」
里玖は押し入れのカーテンを開け、七海のおもちゃ箱から「ばいきんまん」のお面を取り出した。
海斗は素直にお面を被り「里玖、愛してる」と低い声で言った。
「ぷっ……ふふふ」
里玖はたまらず吹き出した。
お面を外した海斗は、わざと女子高生のような口調で「ひっど~い!」と茶化すと、部屋に明るい笑い声が響いた。
「ごめん、ごめん。ふふふ。あーやっぱり慣れないわ、その顔の海斗」
「早く慣れてよ。俺は里玖と、今まで通り付き合いたい」
笑っていた里玖の表情が、ふっと止まった。海斗――いや、朝倉翔生の顔をまっすぐ見つめる。
「でも……今の海斗の体は、私の教え子の朝倉君よ。しかも未成年。十二歳も年下」
「さすがに高校生のうちはまずいか……。そういや、俺らが一線を越えたのも、里玖が高校を卒業するのを待ってからだった……」
言い終えないうちにバチコン! と鋭い音が響いた。里玖が真っ赤な顔で海斗の肩を思い切り叩いたのだ。
「変なこと思い出させないでよ!」
「別に、変なことじゃないじゃん」
「んもう!その顔で言わないでってばー!」
里玖の蹴りが海斗の横腹に決まる。……いてぇ、と呻きながらも海斗は数年ぶりの里玖の蹴りが嬉しくてたまらない。
「だから、里玖、俺が卒業して、担任じゃなくなるのを待ってくれん?」
海斗の真剣な口ぶりに、里玖が止まる。
「待って……それって、朝倉君のまま、付き合うってこと?」
「そう」
「でも……朝倉君は……」
「その朝倉君が、今は俺なんだし。なんか問題ある?」
「そうだけど……」
里玖の声は、とまどっていた。
* * *
その頃。
誰にも見られないトイレの個室内で、杏奈は震える手で妊娠検査キットを見つめていた。
無機質な蛍光灯の光に照らされて、判定窓には、残酷なほどくっきりとした線が浮かび上がっていた。
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