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8:朝倉翔生の影(4)
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杏奈に「あのこと」を告白された瞬間から、海斗の頭には薄黒い澱(おり)のような不安がこびりついている。
海斗になる前の翔生がどんな私生活を送っていたのか、思えば一切知らなかった。
翔生が誰とどんな関係だったのか、どんなプライベートを送っていたのか――。
その空白が、ざわざわと心をかき乱す。
もし、杏奈が言っていることが、海斗になる前の肉体が犯した過ちの結果だとしたら――。
ざわつく胸を鎮めることができず、海斗は掃除当番のアキトに「先に帰るわ」と短く告げ、逃げるように学校を後にした。
マンションに戻ると、ちょうど家政婦の志乃さんが仕事を終えて帰るところだった。
「お帰りなさいませ、翔生さん」
「ああ、志乃さん。いつもありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げる海斗に、志乃はすっかり慣れた様子で微笑んだ。
以前の翔生とはまるで別人だが、今の“礼儀正しい翔生”にも、もう驚かなくなっている。
海斗はリビングのソファにどっかりと腰を下ろし、天井を仰いだ。
(……杏奈の言葉、どこまで本当なんやろ)
(本当に、翔生の子なのか……?)
(もしそうだとしたら、俺はどうすればいい?)
どうしても実感が湧かないが、杏奈が部屋に“顔パス”で入ってきたことを思い出す。
あれは、「そういう」親密さの証拠なのか。それとも、ただの押しかけ癖なのか。
海斗は寝室へ向かうと、シーツに鼻を近づけてみた。もし「何度も」ここで及んでいたのなら、彼女の香水の匂いでも残っているのではないか。
だが、そこには清潔な洗剤の香りだけがあった。考えてみれば、志乃がこまめにリネンを替えている以上、証拠など残るはずもない。
(放課後は志乃さんがまだ在宅しとることも多いし……連れ込むのは難しいかもしれんけど……夜なら……)
考えれば考えるほど、胸の奥がざらつく。
「……だいたい、高校生の男子が部活もやらんで、帰宅部なのが不健全やけん」
海斗は独り言をこぼす。そういう自分も昔はやんちゃだったとはいえ、高校時代はスラムダンクに影響されてバスケ部に所属していた。
有り余る体力はバスケ部のコートで使い切っていたので、その頃から沖島食堂でじゃれあいながらも、好きでたまらなかった里玖に対して制御が効いたともいえる。
偏見だとわかっていながら、翔生の“帰宅部生活”のせいで、「過ち」が起きたと、海斗は勝手に断定しようとしていた。
そのとき、玄関の鍵がガチャリと開いた。
「寝とったと?」
アキトがひょいと寝室をのぞき込む。
「いや……ちょっと考えごと。……そういやさ」
「なん」
「俺、スポーツとかやっとったっけ」
ふと、思いついてアキトに聞いてみる。
「ああ、体動かしたくなった? そろそろ再開してもいい時期じゃね? 今から一緒にジム行く?」
アキトは嬉しそうに身を乗り出してきた。
誘われるまま、海斗はアキトと共に近所の会員制スポーツジムへ向かった。
サラリーマンがまだ来ない時間帯のせいか、全面鏡張りのトレーニングエリアの空間に客はそうおらず、軽快な BGM の中に時折マシンの金属音が響く。
「ほら、ショウ。いつものやつからやるよ」
アキトが慣れた手つきでマシンを調整する。海斗はベンチに横たわり、バーベルを握った。
(重い……いや、上がるな)
体育の授業程度では気づかなかったが、この体は「筋肉の使い方」を知っていることを、またも手続き記憶が証明した。
海斗としても、久しぶりの感覚だった。自衛隊の宿舎にあるジムはよく利用していたから。だが、翔生の身体も驚くほど素直に動く。
胸筋に負荷がかかるたび、筋肉が“生きている”と主張するように熱を帯びる。
若い肉体の回復力は凄まじく、川で負った打ち身の痛みも消え去っている。汗と共にモヤモヤとしたものが洗い流されていくような快感があった。
アキトは隣でスクワットをしながら言う。
「ショウ、やっぱ体の使い方うまいよな、筋肉のつき方がバランスいいし」
聞けば、アキトがブレイキンのための体幹トレーニングとして、ここへ通い出したのに付き合うようにして翔生も通い出したらしい。
「あとさ、中学からキックボクシング習ってたのも忘れちゃった? 一回先輩にタカられて腹が立った、次からは負けたくないとかいって」
(中学の先輩に舐められんための格闘技……か。そりゃ教師を病院送りにする力も持っとうわけだ)
海斗は息を整えながら、鏡に映る自分――いや、翔生の体を見た。
マッチョではないが、肩・胸・腹筋・脚、どれも無駄なく引き締まっている。十七歳にしては、完成度が高すぎるほどだ。
(……この体が、本当に杏奈を妊娠させたんか?)
苦い疑惑が、もう一度、喉の奥にひっかかった。
シャワーを浴び、髪をタオルで拭きながら、海斗はアキトに切り出した。
「なあ……杏奈と俺って、実際どういう関係やったん?」
「なん。また迫られたと? ……あんまりあいつの言うこと、真に受けん方がよかよ」
アキトはスポドリを喉に流し込み、呆れたように続けた。
「杏奈は前から、ショウと付き合っとるとか、ホテル行ったとか、あることないこと言いふらしよったけど。お前自身はいつも『全部嘘だ』って鼻で笑いよったやん」
嘘――。 その言葉に、海斗は縋りつきたい思いだった。
その夜、海斗はついに禁断の箱——スマホの履歴を見る決意をした。
今までは「翔生のプライベート」を尊重して、極力必要部分しか使わなかった翔生のスマホ。
しかし、杏奈との関係の真相を得るため、翔生の過去につながる履歴—— SNS やフォトアプリをさかのぼってみることにしたのだ。
まずは LINE。杏奈とのトーク画面をひたすらスクロールする。
(……ないな)
身体の関係を匂わせるような、甘い言葉や露骨なやり取りは一切見当たらない。
むしろ、翔生の返信は驚くほど短く、冷淡ですらあった。
インスタ には若干杏奈とのツーショットもあったものの、数は多くない。無理やり共有させられたような空気が感じられた。
流れで杏奈のインスタも見たが、翔生との写真は数えるほどだ。
アップされている投稿のほとんどが、女子高校生としては高価すぎるブランド小物やメイク、カフェの映えメニューで埋め尽くされていた。
「……次は、写真か」
フォトアプリを開き、事故前の日付へと遡る。
アキトのダンスの動画、アキトと行った店のご飯。ラーメン。そして……。
「……っ!」
海斗は、寝転がっていた体を、思わず起こして画面を二度見する。
画面には――里玖の写真が、複数保存されていた。
海斗になる前の翔生がどんな私生活を送っていたのか、思えば一切知らなかった。
翔生が誰とどんな関係だったのか、どんなプライベートを送っていたのか――。
その空白が、ざわざわと心をかき乱す。
もし、杏奈が言っていることが、海斗になる前の肉体が犯した過ちの結果だとしたら――。
ざわつく胸を鎮めることができず、海斗は掃除当番のアキトに「先に帰るわ」と短く告げ、逃げるように学校を後にした。
マンションに戻ると、ちょうど家政婦の志乃さんが仕事を終えて帰るところだった。
「お帰りなさいませ、翔生さん」
「ああ、志乃さん。いつもありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げる海斗に、志乃はすっかり慣れた様子で微笑んだ。
以前の翔生とはまるで別人だが、今の“礼儀正しい翔生”にも、もう驚かなくなっている。
海斗はリビングのソファにどっかりと腰を下ろし、天井を仰いだ。
(……杏奈の言葉、どこまで本当なんやろ)
(本当に、翔生の子なのか……?)
(もしそうだとしたら、俺はどうすればいい?)
どうしても実感が湧かないが、杏奈が部屋に“顔パス”で入ってきたことを思い出す。
あれは、「そういう」親密さの証拠なのか。それとも、ただの押しかけ癖なのか。
海斗は寝室へ向かうと、シーツに鼻を近づけてみた。もし「何度も」ここで及んでいたのなら、彼女の香水の匂いでも残っているのではないか。
だが、そこには清潔な洗剤の香りだけがあった。考えてみれば、志乃がこまめにリネンを替えている以上、証拠など残るはずもない。
(放課後は志乃さんがまだ在宅しとることも多いし……連れ込むのは難しいかもしれんけど……夜なら……)
考えれば考えるほど、胸の奥がざらつく。
「……だいたい、高校生の男子が部活もやらんで、帰宅部なのが不健全やけん」
海斗は独り言をこぼす。そういう自分も昔はやんちゃだったとはいえ、高校時代はスラムダンクに影響されてバスケ部に所属していた。
有り余る体力はバスケ部のコートで使い切っていたので、その頃から沖島食堂でじゃれあいながらも、好きでたまらなかった里玖に対して制御が効いたともいえる。
偏見だとわかっていながら、翔生の“帰宅部生活”のせいで、「過ち」が起きたと、海斗は勝手に断定しようとしていた。
そのとき、玄関の鍵がガチャリと開いた。
「寝とったと?」
アキトがひょいと寝室をのぞき込む。
「いや……ちょっと考えごと。……そういやさ」
「なん」
「俺、スポーツとかやっとったっけ」
ふと、思いついてアキトに聞いてみる。
「ああ、体動かしたくなった? そろそろ再開してもいい時期じゃね? 今から一緒にジム行く?」
アキトは嬉しそうに身を乗り出してきた。
誘われるまま、海斗はアキトと共に近所の会員制スポーツジムへ向かった。
サラリーマンがまだ来ない時間帯のせいか、全面鏡張りのトレーニングエリアの空間に客はそうおらず、軽快な BGM の中に時折マシンの金属音が響く。
「ほら、ショウ。いつものやつからやるよ」
アキトが慣れた手つきでマシンを調整する。海斗はベンチに横たわり、バーベルを握った。
(重い……いや、上がるな)
体育の授業程度では気づかなかったが、この体は「筋肉の使い方」を知っていることを、またも手続き記憶が証明した。
海斗としても、久しぶりの感覚だった。自衛隊の宿舎にあるジムはよく利用していたから。だが、翔生の身体も驚くほど素直に動く。
胸筋に負荷がかかるたび、筋肉が“生きている”と主張するように熱を帯びる。
若い肉体の回復力は凄まじく、川で負った打ち身の痛みも消え去っている。汗と共にモヤモヤとしたものが洗い流されていくような快感があった。
アキトは隣でスクワットをしながら言う。
「ショウ、やっぱ体の使い方うまいよな、筋肉のつき方がバランスいいし」
聞けば、アキトがブレイキンのための体幹トレーニングとして、ここへ通い出したのに付き合うようにして翔生も通い出したらしい。
「あとさ、中学からキックボクシング習ってたのも忘れちゃった? 一回先輩にタカられて腹が立った、次からは負けたくないとかいって」
(中学の先輩に舐められんための格闘技……か。そりゃ教師を病院送りにする力も持っとうわけだ)
海斗は息を整えながら、鏡に映る自分――いや、翔生の体を見た。
マッチョではないが、肩・胸・腹筋・脚、どれも無駄なく引き締まっている。十七歳にしては、完成度が高すぎるほどだ。
(……この体が、本当に杏奈を妊娠させたんか?)
苦い疑惑が、もう一度、喉の奥にひっかかった。
シャワーを浴び、髪をタオルで拭きながら、海斗はアキトに切り出した。
「なあ……杏奈と俺って、実際どういう関係やったん?」
「なん。また迫られたと? ……あんまりあいつの言うこと、真に受けん方がよかよ」
アキトはスポドリを喉に流し込み、呆れたように続けた。
「杏奈は前から、ショウと付き合っとるとか、ホテル行ったとか、あることないこと言いふらしよったけど。お前自身はいつも『全部嘘だ』って鼻で笑いよったやん」
嘘――。 その言葉に、海斗は縋りつきたい思いだった。
その夜、海斗はついに禁断の箱——スマホの履歴を見る決意をした。
今までは「翔生のプライベート」を尊重して、極力必要部分しか使わなかった翔生のスマホ。
しかし、杏奈との関係の真相を得るため、翔生の過去につながる履歴—— SNS やフォトアプリをさかのぼってみることにしたのだ。
まずは LINE。杏奈とのトーク画面をひたすらスクロールする。
(……ないな)
身体の関係を匂わせるような、甘い言葉や露骨なやり取りは一切見当たらない。
むしろ、翔生の返信は驚くほど短く、冷淡ですらあった。
インスタ には若干杏奈とのツーショットもあったものの、数は多くない。無理やり共有させられたような空気が感じられた。
流れで杏奈のインスタも見たが、翔生との写真は数えるほどだ。
アップされている投稿のほとんどが、女子高校生としては高価すぎるブランド小物やメイク、カフェの映えメニューで埋め尽くされていた。
「……次は、写真か」
フォトアプリを開き、事故前の日付へと遡る。
アキトのダンスの動画、アキトと行った店のご飯。ラーメン。そして……。
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