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進学クラスの補習をどうにか終えた里玖は、鉛のように重い体を引きずって職員室のデスクに戻った。
視界がかすみ、思考がうまくまとまらない。
だが、今は職場だ。教員としての責務を果たすことこそが、今やるべきことだ、とかろうじて自分を繋ぎ止める。
里玖は自分の感情から逃げるようにパソコンを開き、未読のメールチェックを始めた。
並ぶ件名の中に、その名前を見つけた瞬間、里玖の心臓はドクンと嫌な音を立てて硬直した。
『朝倉翔生の今後の進路につきまして』
差出人は朝倉翔生の保護者、佳乃からだった。震える指でメールをクリックする。
画面に並ぶ無機質な文字を追うほどに、里玖の血の気が引いていく。
そこには、朝倉翔生が「本人の強い希望」により、この夏休みからアメリカへ留学することが急遽決定したと記されていた。
ついては、日本の高校の卒業資格をどう扱うか、今後の手続きについて早急に話し合いたいという事務的な内容だった。
里玖は頭を殴られたような衝撃に、目眩を覚えた。
海斗が翔生の中にいた間、彼は「留学などしない。ずっとここにいる」とはっきり断言していた。
それが本人希望で、しかもこの時期に急転直下で決まった。
それが意味する答えは、ひとつしかない。
(朝倉翔生の中に……もう、海斗はいない……)
じゃあ、あの海斗はどこへ行ってしまったのか? 今度こそ、本当に消滅してしまったのだろうか……?
あるいは、そもそも「海斗」なんて最初から存在していなかったのだろうか。
あの幻想的なホタルの夜も、激しい雨の中での震える抱擁も、キッチンで香辛料の香りを漂わせながら笑っていた彼も……すべては、海斗を失った自分の孤独が見せた、たちの悪い白昼夢だったのか。
いや、そんなはずはない。海斗は確かにいた。そう考えないと説明がつかない出来事の数を里玖は数えていた。
今夜も熱帯夜—— 七海を寝かしつけたあと、里玖は明かりもつけず、布団の横に座り込んでいた。
カーテンを透かした団地の街灯が、里玖の部屋を青い薄暗がりに変える。気温が高いのか、エアコンの稼働音はまだ静かにならない。
首を振る扇風機の風に、ときおり髪をゆらしながら寝息を立てる息子の顔を見つめる。
――この子だって、海斗に助けられてここにいる……。
海斗は確かにここにいた。いなかったはずがない。彼はどこへ行ってしまったのか。
壁と同じような青に染まった里玖の頬を、涙が静かに伝う。
「海斗……ごめんね。ごめん……」
思えば、朝倉翔生が海斗になるきっかけのバイク事故の直後から、あんなに必死に「自分は海斗だ」と、訴えていたのに。
それなのに自分は、朝倉翔生という見かけの姿に囚われて……途中から、海斗と重なって見えていたのに、大人の分別だとか、教師という立場だとか、そんなつまらないもののせいで、彼を突き放し続けてしまった。
もし彼「沖島海斗」が、このままこの世から消えてしまったのだとしたら、もう二度と謝ることも、やり直すこともできない。
今の想いを伝える術さえ、永遠に失われてしまった。
仮に、もしすべてが夢だったというのなら、もっと早くその夢に全力で身を投じれば幸せだったのに。
五年前、海斗を行方不明として失ったあの時よりも。
今の里玖は、さらに深く、光の届かない絶望の淵に立たされていた。
視界がかすみ、思考がうまくまとまらない。
だが、今は職場だ。教員としての責務を果たすことこそが、今やるべきことだ、とかろうじて自分を繋ぎ止める。
里玖は自分の感情から逃げるようにパソコンを開き、未読のメールチェックを始めた。
並ぶ件名の中に、その名前を見つけた瞬間、里玖の心臓はドクンと嫌な音を立てて硬直した。
『朝倉翔生の今後の進路につきまして』
差出人は朝倉翔生の保護者、佳乃からだった。震える指でメールをクリックする。
画面に並ぶ無機質な文字を追うほどに、里玖の血の気が引いていく。
そこには、朝倉翔生が「本人の強い希望」により、この夏休みからアメリカへ留学することが急遽決定したと記されていた。
ついては、日本の高校の卒業資格をどう扱うか、今後の手続きについて早急に話し合いたいという事務的な内容だった。
里玖は頭を殴られたような衝撃に、目眩を覚えた。
海斗が翔生の中にいた間、彼は「留学などしない。ずっとここにいる」とはっきり断言していた。
それが本人希望で、しかもこの時期に急転直下で決まった。
それが意味する答えは、ひとつしかない。
(朝倉翔生の中に……もう、海斗はいない……)
じゃあ、あの海斗はどこへ行ってしまったのか? 今度こそ、本当に消滅してしまったのだろうか……?
あるいは、そもそも「海斗」なんて最初から存在していなかったのだろうか。
あの幻想的なホタルの夜も、激しい雨の中での震える抱擁も、キッチンで香辛料の香りを漂わせながら笑っていた彼も……すべては、海斗を失った自分の孤独が見せた、たちの悪い白昼夢だったのか。
いや、そんなはずはない。海斗は確かにいた。そう考えないと説明がつかない出来事の数を里玖は数えていた。
今夜も熱帯夜—— 七海を寝かしつけたあと、里玖は明かりもつけず、布団の横に座り込んでいた。
カーテンを透かした団地の街灯が、里玖の部屋を青い薄暗がりに変える。気温が高いのか、エアコンの稼働音はまだ静かにならない。
首を振る扇風機の風に、ときおり髪をゆらしながら寝息を立てる息子の顔を見つめる。
――この子だって、海斗に助けられてここにいる……。
海斗は確かにここにいた。いなかったはずがない。彼はどこへ行ってしまったのか。
壁と同じような青に染まった里玖の頬を、涙が静かに伝う。
「海斗……ごめんね。ごめん……」
思えば、朝倉翔生が海斗になるきっかけのバイク事故の直後から、あんなに必死に「自分は海斗だ」と、訴えていたのに。
それなのに自分は、朝倉翔生という見かけの姿に囚われて……途中から、海斗と重なって見えていたのに、大人の分別だとか、教師という立場だとか、そんなつまらないもののせいで、彼を突き放し続けてしまった。
もし彼「沖島海斗」が、このままこの世から消えてしまったのだとしたら、もう二度と謝ることも、やり直すこともできない。
今の想いを伝える術さえ、永遠に失われてしまった。
仮に、もしすべてが夢だったというのなら、もっと早くその夢に全力で身を投じれば幸せだったのに。
五年前、海斗を行方不明として失ったあの時よりも。
今の里玖は、さらに深く、光の届かない絶望の淵に立たされていた。
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