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11:海斗、再び(3)
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前日からの、文字通り「一夜漬け」という名の、無謀な突撃の結果は散々だった。
七~八年前に習った内容を、二十五歳にもなって再びテストされるという理不尽。
机に向かえば向かうほど、海斗の心には不条理な怒りが沸き上がる。古文や化学の問題を前に、何度も鉛筆を折りそうになった。
「……こんなもん、社会で役に立たんわぁ!」
暗がりの中、古文の助動詞や化学反応式と睨み合いながら、何度そう叫びそうになったか。
土曜日の午後。最終科目のチャイムが鳴り響いた瞬間、海斗は真っ白な灰になっていた。
自衛隊時代に叩き込まれた実用的な英語と、弾道計算にも通ずる数学はどうにかなった。
現代文も「大人の常識」で解答の筋道は立てられた。世界史も幸い範囲が近代だったので、軍事に関係する地政学的部分は解答できたので何とか赤点を免れただろう。
だが、生物、化学、そして古文――これら「知らんがな」の三連星は、壊滅的だった。
期待していた「翔生の手続き記憶」も、鉛筆を動かす指先には微塵も降りてこなかった。
「……終わった。いろんな意味で」
しかし、肩を落としたのも束の間。期末テストが終わってしまえば、あとは輝かしい夏休みが待つばかりだ。
気を取り直して、里玖と過ごす計画でも立てよう。解放感で心が浮き立ってくる。
今日は土曜日。沖島食堂で波多野さんの手伝いをする日だ。
この前作ったバクテーは、自分でも上出来で、里玖にも好評だった。
あれを今夜のおすすめにすれば、きっとウケる。
ちなみにアキトは「ブレイキンの試合があるけん調整に入る!」と嵐のように去っていった。
里玖にも『今夜、食堂来るやろ?』とメッセージを送ってみたが――。
『生徒は終わりでも、教師はこれからが採点地獄の始まり! 悪いけど今日は行けないかも』
画面越しに聞こえてきそうな悲鳴に近い返信。最悪、明日の日曜も仕事になる可能性もあるとのことで、海斗は「ふーん」と少しだけ肩透かしを食った気分になった。
少し残念だったが、気を取り直す。
仕方がない。肉でも食べて元気出すか、と自分へのご褒美も兼ねて、海斗は高級スーパーの精肉専門コーナーへ足を運んだ。
「……にくにくにく。おにくたべよ♪」
バクテー用のスペアリブを探すつもりだったが、ガラスケース越しに目に飛び込んできたのは特売の豚ロースだった。
(お、いい色ツヤやん。今日は方向転換してコトレッタにするか)
イタリア風のトンカツ、コトレッタ・アッラ・ミラネーゼは有名だが、ミラノ風にバターで揚げるのではなく、沿岸部の港町風にオリーブオイルで歯ごたえよく揚げてハーブを利かせればビールにあいそうだ。
「これ、ください」
そう言って、海斗がガラスケースを指差した、その時だ。
自分の指先の横に、ぷにぷにした別の指がぴたりと並んだ。
振り向くと、見覚えがあるツルツル頭……それは先日の「喝——ッ!」の和尚だった。ハーフパンツに半袖パーカーという軽装だが、間違いない。
「うわあああああ!!」
あのときのビリビリとした衝撃が蘇り、海斗は反射的に三メートルほど飛び退いた。
和尚も丸顔の中のたれ目をまん丸く見開いている。
「やめて、お願いだからカツはやめてください」
海斗はしゃがみ込み、耳をふさいだ。
「……何を騒いどる。今日は、とん『カツ』用の肉を買いに来ただけだがな」
「ひぃいいぃ!」
海斗はさらに縮こまる。
周囲の買い物客が、怯える金髪の少年と困惑する僧侶を遠巻きに眺め、ひそひそと囁き始める。
和尚は海斗の背中をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だから。ほら、来なさい。甘いものでもごちそうするけん」
* * *
連れられて入ったのは、スーパー裏の細い路地にある、古びた甘味処だった。
ティータイムだというのに客はまばらで、壁にかけられた古い時計の音だけが響いている。
和尚は慣れた様子で宇治金時を注文した。
「朝倉翔生くん……は何にする? おごるばい」
「え、じゃあ……同じので」
運ばれてきた宇治金時を前に、海斗はようやく落ち着きを取り戻した。和尚はスプーンを手にしながら言った。
「外が暑いとかき氷がうまいねえ……で、おまえさんの本当の名前は?」
「え……だから朝倉」
「とぼけてもわかっとる。お前さんが、四十九日を通過中の霊魂だということは」
七~八年前に習った内容を、二十五歳にもなって再びテストされるという理不尽。
机に向かえば向かうほど、海斗の心には不条理な怒りが沸き上がる。古文や化学の問題を前に、何度も鉛筆を折りそうになった。
「……こんなもん、社会で役に立たんわぁ!」
暗がりの中、古文の助動詞や化学反応式と睨み合いながら、何度そう叫びそうになったか。
土曜日の午後。最終科目のチャイムが鳴り響いた瞬間、海斗は真っ白な灰になっていた。
自衛隊時代に叩き込まれた実用的な英語と、弾道計算にも通ずる数学はどうにかなった。
現代文も「大人の常識」で解答の筋道は立てられた。世界史も幸い範囲が近代だったので、軍事に関係する地政学的部分は解答できたので何とか赤点を免れただろう。
だが、生物、化学、そして古文――これら「知らんがな」の三連星は、壊滅的だった。
期待していた「翔生の手続き記憶」も、鉛筆を動かす指先には微塵も降りてこなかった。
「……終わった。いろんな意味で」
しかし、肩を落としたのも束の間。期末テストが終わってしまえば、あとは輝かしい夏休みが待つばかりだ。
気を取り直して、里玖と過ごす計画でも立てよう。解放感で心が浮き立ってくる。
今日は土曜日。沖島食堂で波多野さんの手伝いをする日だ。
この前作ったバクテーは、自分でも上出来で、里玖にも好評だった。
あれを今夜のおすすめにすれば、きっとウケる。
ちなみにアキトは「ブレイキンの試合があるけん調整に入る!」と嵐のように去っていった。
里玖にも『今夜、食堂来るやろ?』とメッセージを送ってみたが――。
『生徒は終わりでも、教師はこれからが採点地獄の始まり! 悪いけど今日は行けないかも』
画面越しに聞こえてきそうな悲鳴に近い返信。最悪、明日の日曜も仕事になる可能性もあるとのことで、海斗は「ふーん」と少しだけ肩透かしを食った気分になった。
少し残念だったが、気を取り直す。
仕方がない。肉でも食べて元気出すか、と自分へのご褒美も兼ねて、海斗は高級スーパーの精肉専門コーナーへ足を運んだ。
「……にくにくにく。おにくたべよ♪」
バクテー用のスペアリブを探すつもりだったが、ガラスケース越しに目に飛び込んできたのは特売の豚ロースだった。
(お、いい色ツヤやん。今日は方向転換してコトレッタにするか)
イタリア風のトンカツ、コトレッタ・アッラ・ミラネーゼは有名だが、ミラノ風にバターで揚げるのではなく、沿岸部の港町風にオリーブオイルで歯ごたえよく揚げてハーブを利かせればビールにあいそうだ。
「これ、ください」
そう言って、海斗がガラスケースを指差した、その時だ。
自分の指先の横に、ぷにぷにした別の指がぴたりと並んだ。
振り向くと、見覚えがあるツルツル頭……それは先日の「喝——ッ!」の和尚だった。ハーフパンツに半袖パーカーという軽装だが、間違いない。
「うわあああああ!!」
あのときのビリビリとした衝撃が蘇り、海斗は反射的に三メートルほど飛び退いた。
和尚も丸顔の中のたれ目をまん丸く見開いている。
「やめて、お願いだからカツはやめてください」
海斗はしゃがみ込み、耳をふさいだ。
「……何を騒いどる。今日は、とん『カツ』用の肉を買いに来ただけだがな」
「ひぃいいぃ!」
海斗はさらに縮こまる。
周囲の買い物客が、怯える金髪の少年と困惑する僧侶を遠巻きに眺め、ひそひそと囁き始める。
和尚は海斗の背中をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だから。ほら、来なさい。甘いものでもごちそうするけん」
* * *
連れられて入ったのは、スーパー裏の細い路地にある、古びた甘味処だった。
ティータイムだというのに客はまばらで、壁にかけられた古い時計の音だけが響いている。
和尚は慣れた様子で宇治金時を注文した。
「朝倉翔生くん……は何にする? おごるばい」
「え、じゃあ……同じので」
運ばれてきた宇治金時を前に、海斗はようやく落ち着きを取り戻した。和尚はスプーンを手にしながら言った。
「外が暑いとかき氷がうまいねえ……で、おまえさんの本当の名前は?」
「え……だから朝倉」
「とぼけてもわかっとる。お前さんが、四十九日を通過中の霊魂だということは」
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