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12:君を置いて(5)
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夕食がだいぶ進み、天ぷらの皿が空き始めた頃、里玖が意を決したように切り出した。
「ところで……海斗は、来週からアメリカ留学に行くことになったとよね」
「え、留学? アメリカ?」
圭子と晃が同時に驚いた声を上げる。
「そう。朝倉家で決まったことで……やむなく」
海斗は力なく笑って見せた。
「どれくらい行くとね」
「えーと、まずは三……いや、結構長期になりそうやな。二、三年くらいかな」
里玖の目が、わずかに違和感を含んで見開かれた。
「いつ出発するとね」
「それが……今週末なんよね」
「え~っ」
驚く両親の声がそろった。
「それはまた急な……」
「そう。ほんと急なんよ。まいるわ。まったく金持ちの家の考えること、よくわからん」
「せっかくその顔にも慣れてきたのに……さみしくなるねえ」
圭子が寂しげに眉を下げる。
「まあ……海斗は自衛隊におるときも、何か月も護衛艦に乗っとったし、心配することはないんやろうけどな」
晃は気を取り直すように、コップに残ったビールをぐいとあおった。
「う、うん……だから、団地まつりは手伝えん。ごめん」
「いや、それはいいんやけど……体には気を付けるんよ」
圭子は、コップの水滴を指でそっと拭いながら、今は別人の顔になった息子の顔を、それでもいとしげに見つめた。
「……うん」
――返事をする海斗のまばたきが、いつもより明らかに多い。
里玖はそれを黙って見つめていた。
食事が終わって外に出ると、藍色の空が広がる夏の宵になっていた。
陽が落ちても熱気は地面に居座り、空気はねっとりと生暖かい。
「ぱぱ、一緒にお風呂入ろ!」
七海が海斗の手をぎゅっと握る。
帰らなければいけない気持ちと、せめてもう少し里玖と七海と一緒にいたい気持ちが、胸の中でせめぎ合う。
だが、七海の小さな手に引っ張られた瞬間、海斗の中で“帰る”という選択肢は消えた。
「里玖、仕事大丈夫?」
「……うん。今日は休みだから。休日はゆっくり休むよ。だから七海とお風呂入っていけば?」
「うん。でも暑いから、帰るころにはまた汗びっしょりになりそうだけど」
そう言いながらも、海斗の足はすでに里玖の家へ向かっていた。
「暑いから、お湯ぬるめにしといたからね」
里玖はそう言いながら、七海の衣服を器用に脱がせていく。
横で海斗も服を脱いでいると――。
「あ……」
里玖と目が合った。そっぽを向いた里玖の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「ご、ごめん」
海斗は慌ててタオルを腰に巻き、風呂場に飛び込んだ。
(……朝倉翔生くんの体なこと、忘れとった)
照れ隠しに、海斗はガラス扉の向こうの里玖に声をかける。
「里玖も一緒に入らん?」
「入らないよー。お風呂場狭いし、見せるような体じゃないし」
予想通り、聞き慣れたつれない返事。けれど、その日常の響きさえ、今は宝物のように聞こえた。
代わりに、七海が裸んぼで駆け込んできた。
湯船の中で、空気を含んだタオルを丸くなるように絞る。
「ほら、てるてるボーズ!」
「わあ。僕もやる……ぱぱ、泣いとうと?」
湯船の中で遊びながら、海斗の頬を熱いものが伝っていた。
「いや、泣いとらんよ……お湯が目に入ったと。そら!」
海斗は慌てて七海に向かってお湯をばしゃっとかけ、笑顔を取り繕った。
七海が「きゃあっ」とはしゃいで、全力でやり返してくる。
「よし、いい具合に髪も濡れたな。じゃあシャンプーしちゃろ」
「シャンプーやだ」
「やだじゃない。ちゃんと洗わないと、頭にカビが生えるぞ」
海斗から抱え上げられるようにして湯船から出た七海は、神妙に台に腰掛けると目をぎゅっとつむった。
海斗はシャンプーを泡立てた手のひらで、七海の小さく柔らかい頭を包み込んだ。
片手で包めるほど小さな頭。細くて柔らかい髪。自分と里玖の血を分けた、愛おしい命。
この子の頭を洗ってやれるのも、これが最後かもしれない。そう思うと、また視界が滲んだ。
「……ぱぱ?」
泡だらけの頭で振り返った七海に、海斗は泡のついた手で目を拭いながら言った。
「うわ、しみる。シャンプーしみるわ、これ。めちゃ強力やな」
そう言って、無理やり声を上げて笑った。
「ほい、いっちょあがり。里玖ー、七海出るよー」
「はーい」
浴室の扉が開き、湯気をまとった七海を里玖がバスタオルで包み込む。
「暑いね~、扇風機の前にいこっか」
「まま~……」
里玖は冷やしておいた子供用の保湿ローションを、七海の全身にピタピタと叩き込む。
「なあに?」
「ぱぱ、泣いとった」
里玖の手が、一瞬止まった。
「……なんで泣いとったと?」
「シャンプーがしみたってゆっとった」
里玖は再び手を動かし、七海にパジャマを着せた。
「それは痛いねえ……ちゃんと目閉じないとね」
数分後、海斗が上気した顔で風呂から上がってきた。
「……あつ~。やっぱ湯船入ると暑いわ」
「はい、ウーロン茶。ビールがよかった?」
「ビール飲みたいけど……未成年だからウーロンもらうわ」
海斗はグラスを受け取り、一気に飲み干した。
里玖は、そんな海斗を真っ直ぐに見つめると、問いかけた。
「……さっきは、なんでビール飲んだと?」
「ところで……海斗は、来週からアメリカ留学に行くことになったとよね」
「え、留学? アメリカ?」
圭子と晃が同時に驚いた声を上げる。
「そう。朝倉家で決まったことで……やむなく」
海斗は力なく笑って見せた。
「どれくらい行くとね」
「えーと、まずは三……いや、結構長期になりそうやな。二、三年くらいかな」
里玖の目が、わずかに違和感を含んで見開かれた。
「いつ出発するとね」
「それが……今週末なんよね」
「え~っ」
驚く両親の声がそろった。
「それはまた急な……」
「そう。ほんと急なんよ。まいるわ。まったく金持ちの家の考えること、よくわからん」
「せっかくその顔にも慣れてきたのに……さみしくなるねえ」
圭子が寂しげに眉を下げる。
「まあ……海斗は自衛隊におるときも、何か月も護衛艦に乗っとったし、心配することはないんやろうけどな」
晃は気を取り直すように、コップに残ったビールをぐいとあおった。
「う、うん……だから、団地まつりは手伝えん。ごめん」
「いや、それはいいんやけど……体には気を付けるんよ」
圭子は、コップの水滴を指でそっと拭いながら、今は別人の顔になった息子の顔を、それでもいとしげに見つめた。
「……うん」
――返事をする海斗のまばたきが、いつもより明らかに多い。
里玖はそれを黙って見つめていた。
食事が終わって外に出ると、藍色の空が広がる夏の宵になっていた。
陽が落ちても熱気は地面に居座り、空気はねっとりと生暖かい。
「ぱぱ、一緒にお風呂入ろ!」
七海が海斗の手をぎゅっと握る。
帰らなければいけない気持ちと、せめてもう少し里玖と七海と一緒にいたい気持ちが、胸の中でせめぎ合う。
だが、七海の小さな手に引っ張られた瞬間、海斗の中で“帰る”という選択肢は消えた。
「里玖、仕事大丈夫?」
「……うん。今日は休みだから。休日はゆっくり休むよ。だから七海とお風呂入っていけば?」
「うん。でも暑いから、帰るころにはまた汗びっしょりになりそうだけど」
そう言いながらも、海斗の足はすでに里玖の家へ向かっていた。
「暑いから、お湯ぬるめにしといたからね」
里玖はそう言いながら、七海の衣服を器用に脱がせていく。
横で海斗も服を脱いでいると――。
「あ……」
里玖と目が合った。そっぽを向いた里玖の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「ご、ごめん」
海斗は慌ててタオルを腰に巻き、風呂場に飛び込んだ。
(……朝倉翔生くんの体なこと、忘れとった)
照れ隠しに、海斗はガラス扉の向こうの里玖に声をかける。
「里玖も一緒に入らん?」
「入らないよー。お風呂場狭いし、見せるような体じゃないし」
予想通り、聞き慣れたつれない返事。けれど、その日常の響きさえ、今は宝物のように聞こえた。
代わりに、七海が裸んぼで駆け込んできた。
湯船の中で、空気を含んだタオルを丸くなるように絞る。
「ほら、てるてるボーズ!」
「わあ。僕もやる……ぱぱ、泣いとうと?」
湯船の中で遊びながら、海斗の頬を熱いものが伝っていた。
「いや、泣いとらんよ……お湯が目に入ったと。そら!」
海斗は慌てて七海に向かってお湯をばしゃっとかけ、笑顔を取り繕った。
七海が「きゃあっ」とはしゃいで、全力でやり返してくる。
「よし、いい具合に髪も濡れたな。じゃあシャンプーしちゃろ」
「シャンプーやだ」
「やだじゃない。ちゃんと洗わないと、頭にカビが生えるぞ」
海斗から抱え上げられるようにして湯船から出た七海は、神妙に台に腰掛けると目をぎゅっとつむった。
海斗はシャンプーを泡立てた手のひらで、七海の小さく柔らかい頭を包み込んだ。
片手で包めるほど小さな頭。細くて柔らかい髪。自分と里玖の血を分けた、愛おしい命。
この子の頭を洗ってやれるのも、これが最後かもしれない。そう思うと、また視界が滲んだ。
「……ぱぱ?」
泡だらけの頭で振り返った七海に、海斗は泡のついた手で目を拭いながら言った。
「うわ、しみる。シャンプーしみるわ、これ。めちゃ強力やな」
そう言って、無理やり声を上げて笑った。
「ほい、いっちょあがり。里玖ー、七海出るよー」
「はーい」
浴室の扉が開き、湯気をまとった七海を里玖がバスタオルで包み込む。
「暑いね~、扇風機の前にいこっか」
「まま~……」
里玖は冷やしておいた子供用の保湿ローションを、七海の全身にピタピタと叩き込む。
「なあに?」
「ぱぱ、泣いとった」
里玖の手が、一瞬止まった。
「……なんで泣いとったと?」
「シャンプーがしみたってゆっとった」
里玖は再び手を動かし、七海にパジャマを着せた。
「それは痛いねえ……ちゃんと目閉じないとね」
数分後、海斗が上気した顔で風呂から上がってきた。
「……あつ~。やっぱ湯船入ると暑いわ」
「はい、ウーロン茶。ビールがよかった?」
「ビール飲みたいけど……未成年だからウーロンもらうわ」
海斗はグラスを受け取り、一気に飲み干した。
里玖は、そんな海斗を真っ直ぐに見つめると、問いかけた。
「……さっきは、なんでビール飲んだと?」
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