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7月 17 日。
海斗にとっての「四十九日目」、この世にいられる最後の日がやってきた。
空は突き抜けるように青く、朝から蝉の声が激しく降り注いでいる。
海斗と里玖、そして七海の三人は、『最後の思い出づくり』として、朝一番で水族館「アクアワールド」へとやってきた。
入館するなり、七海が「あざらしさん!」と興奮気味に声を弾ませる。
七海は、アザラシへの餌やり体験を、とても楽しみにしていた。
しかし、実際にプールで泳ぐアザラシを目の前にすると、その大きさに少し怖くなったらしい。
バケツに入った小魚を手にした七海は、アザラシの名前を呼んではみるものの、アザラシが近づくと「きゃあっ」と飛びのいてしまった。
アザラシは「え~、くれないの~?」と大きな黒い目で訴えて、水中にもぐってしまった。
「ほら、七海。手を伸ばして……そうそう。アザラシさんの近くにお魚落としてあげり」
しまいには、海斗も一緒に七海の腕を支えてやり、再度トライ。
水面に落とした餌の魚を、パクっとキャッチするようにアザラシが食べた。
「ぱぱ、みて! たべてるよ!」
海斗を振り返った七海は、得意げに満面の笑みだ。
メインイベントのイルカ・アシカショーでは、あえて前方の「びしょ濡れゾーン」に陣取った。
湾ごしに福博の街を遠く望む野外プールは、海風が入るとはいえ、午前の段階でかなりの暑さだ。待っている間に汗ばんでくる。
「海斗は、本当にカッパ着ないでいいと?」
カッパを着た里玖が、海斗を振り返る。
「七海が濡れたいって言ったんやけん、俺も覚悟決めんと。それに暑いし」
「ぱぱもぬれると?」
「もちろん」
ショーが始まると、イルカが豪快に水を跳ね上げる。
「きゃーーーっ!!」
「つめたっ!」
「ぱぱ、びしょびしょー!」
水しぶきどころではない、大波のような大量の水が一気に三人を襲った。
三人は顔を見合わせ、子供のように声を上げて笑い転げた。
びしょ濡れの七海をトイレで着替えさせると、三人は大水槽の前に立った。
光が透ける青い水の中を、魚たちは鱗を光らせながらゆったりと泳いでいる。
「……あのクエ、いい具合に脂が乗ってそうやん。薄造りにしてポン酢でいったら最高やね。そっちのアジは、なめろうにしたら最高の酒の友やん」
「もう、海斗。水族館で献立を考えんといて~」
里玖が笑い、七海も「ぱぱ、たべちゃだめー」と真似して怒る。
「しかし、さっむ」
濡れたままの海斗は、館内のエアコンに震え上がった。
「当たり前やん。濡れたまんまだし。風邪ひくよ……あそこで Tシャツ買ってきいよ」
里玖はショップを指さした。
「……もったいないよ。今日で、いなくなるのに」
「バカ。今それ言わんでよ。もう。……ちょっと七海みといて」
里玖はそういうと、一人でショップへ歩いて行ってしまった。
しばらくして戻ってきた里玖の手には、Tシャツがあった。
「ほら。着替えてき。海斗がいなくなったら、あたしが着るけん」
「里玖……」
Tシャツを握りしめて、海斗は里玖を見つめた。里玖は
「海斗の解説きいてたらお腹すいちゃった。さっさと着替えて昼ごはんにしよ」
と、歩き出している。揺れる青い光の中をわざとそっけなく歩く、里玖の後ろ姿。海斗を笑顔で見上げる七海も、揺らめく青に染まっている。
今日でこの世と別れるなんて、海斗はまだ実感がわかない。
昼食は、水中を泳ぐイルカの姿を眺められる名物レストランにした。
イルカプール越しに光が差し込む幻想的な空間で、三人は寄り添うようにして食事を楽しむ。
「ぱぱ、イルカさん、こっちきた!」
「ほんとやな。七海に挨拶しにきたんやね」
七海はスプーンを握ったまま、イルカに向かって一生懸命手を振る。
目の前の大きな水槽の中で、二頭のイルカが勢いよく横切っていく。
親子なのか、大きなイルカとやや小さなイルカは、寄り添ってシンクロするように同じように泳ぐ。
海斗は、自分の皿から七海へ、七海が好きな具材をそっと移してやった。
「……里玖、ありがとな」
「ん? T シャツならいいって。私が欲しいのを買ったけん」
――そういう意味じゃないんだけどな。海斗は、ふっと笑うと
「おかげで、♪少しも寒くないわ~」
と冗談めかして歌った。
* * *
午後。
夕方の開店準備に合わせて、三人は沖島食堂へと戻ってきた。
「じゃあ、私は七海をお風呂に入れてから、また後で来るけん」
里玖はそう言って、一度団地へ戻っていった。
――これが、最後の仕込み。
海斗は、慣れ親しんだ包丁を握り、黙々と野菜の下ごしらえに集中するよう努力した。
醤油や揚げ油の香り、玉ねぎを炒める賑やかな音。
すべてこれが最後、と意識しまうと熱いものが目にこみ上げてきそうになるから。
横では、波多野がいつものようにテキパキと動いている。
「波多野さん」
海斗は、手を止めずに声をかけた。
「……沖島食堂のこと、よろしくお願いします。父と母を、支えてやってください」
波多野は手を止め、少し訝しげに海斗を振り返った。
「なんだそれ。もう二度と帰ってこないみたいな言い方やん」
海斗は一瞬だけ言葉に詰まって手を止めた。すべてを打ち明けてしまいたい衝動が、一瞬だけ脳裏をかすめていった。
「……いや。留学が長いから。それだけっす」
「なんだ、任せろ」
波多野は、豪快に笑うと、海斗の背中をバンバンと叩いた。
――三連休初日の今日も、沖島食堂は大入り盛況だった。店の外には行列が出来るほどだった。
てんてこまいだった営業もやがて終わり、店の灯りが落とされる。
いつもどおり、父と母、波多野、そして里玖と七海を交えての遅めの夕食をかねての反省会……だが、今日は海斗が留学前ということで、和食メニューの中でも特に海斗の好物が食卓に並んだ。
圭子のにんにくが効いた唐揚げ、晃秘伝の魚のみそ焼き、波多野特製のふわっふわのだし巻き。
どれも海斗が大好きな日本の味だった。
「さあ、海斗。アメリカに行ったらこんな和食は食べられんけん。しっかり食え」
晃が嬉しそうにビールを注いでくれる。
「……うん。いただきます」
こんがり焼けた魚のみそ焼きは、甘めの味噌が染みたクリスピーな皮に、ほろりと柔らかい身が絶品だ。
「海斗、アメリカでもしっかりね。応援しとるけんね」
「うん。がんばる」
海斗は笑って答えたが、胸の奥は張り裂けそうだった。それをこらえるために、よく食べてよく飲んだ。
そんな切ない海斗の胸の内は、誰も気づかない。ただ一人、里玖を除いて。
あと3時間。
今日が終われば、自分という魂は、この温かな場所から消えてしまう。
けれど、この味も、家族の笑顔も、自分がここに生きた証として、ずっと続いていくのだ。
里玖は、海斗の横顔を見つめながら、テーブルの下で静かに手を握ってきた。
その手の温度が、海斗の胸に深く深く染み込んでいった。
海斗にとっての「四十九日目」、この世にいられる最後の日がやってきた。
空は突き抜けるように青く、朝から蝉の声が激しく降り注いでいる。
海斗と里玖、そして七海の三人は、『最後の思い出づくり』として、朝一番で水族館「アクアワールド」へとやってきた。
入館するなり、七海が「あざらしさん!」と興奮気味に声を弾ませる。
七海は、アザラシへの餌やり体験を、とても楽しみにしていた。
しかし、実際にプールで泳ぐアザラシを目の前にすると、その大きさに少し怖くなったらしい。
バケツに入った小魚を手にした七海は、アザラシの名前を呼んではみるものの、アザラシが近づくと「きゃあっ」と飛びのいてしまった。
アザラシは「え~、くれないの~?」と大きな黒い目で訴えて、水中にもぐってしまった。
「ほら、七海。手を伸ばして……そうそう。アザラシさんの近くにお魚落としてあげり」
しまいには、海斗も一緒に七海の腕を支えてやり、再度トライ。
水面に落とした餌の魚を、パクっとキャッチするようにアザラシが食べた。
「ぱぱ、みて! たべてるよ!」
海斗を振り返った七海は、得意げに満面の笑みだ。
メインイベントのイルカ・アシカショーでは、あえて前方の「びしょ濡れゾーン」に陣取った。
湾ごしに福博の街を遠く望む野外プールは、海風が入るとはいえ、午前の段階でかなりの暑さだ。待っている間に汗ばんでくる。
「海斗は、本当にカッパ着ないでいいと?」
カッパを着た里玖が、海斗を振り返る。
「七海が濡れたいって言ったんやけん、俺も覚悟決めんと。それに暑いし」
「ぱぱもぬれると?」
「もちろん」
ショーが始まると、イルカが豪快に水を跳ね上げる。
「きゃーーーっ!!」
「つめたっ!」
「ぱぱ、びしょびしょー!」
水しぶきどころではない、大波のような大量の水が一気に三人を襲った。
三人は顔を見合わせ、子供のように声を上げて笑い転げた。
びしょ濡れの七海をトイレで着替えさせると、三人は大水槽の前に立った。
光が透ける青い水の中を、魚たちは鱗を光らせながらゆったりと泳いでいる。
「……あのクエ、いい具合に脂が乗ってそうやん。薄造りにしてポン酢でいったら最高やね。そっちのアジは、なめろうにしたら最高の酒の友やん」
「もう、海斗。水族館で献立を考えんといて~」
里玖が笑い、七海も「ぱぱ、たべちゃだめー」と真似して怒る。
「しかし、さっむ」
濡れたままの海斗は、館内のエアコンに震え上がった。
「当たり前やん。濡れたまんまだし。風邪ひくよ……あそこで Tシャツ買ってきいよ」
里玖はショップを指さした。
「……もったいないよ。今日で、いなくなるのに」
「バカ。今それ言わんでよ。もう。……ちょっと七海みといて」
里玖はそういうと、一人でショップへ歩いて行ってしまった。
しばらくして戻ってきた里玖の手には、Tシャツがあった。
「ほら。着替えてき。海斗がいなくなったら、あたしが着るけん」
「里玖……」
Tシャツを握りしめて、海斗は里玖を見つめた。里玖は
「海斗の解説きいてたらお腹すいちゃった。さっさと着替えて昼ごはんにしよ」
と、歩き出している。揺れる青い光の中をわざとそっけなく歩く、里玖の後ろ姿。海斗を笑顔で見上げる七海も、揺らめく青に染まっている。
今日でこの世と別れるなんて、海斗はまだ実感がわかない。
昼食は、水中を泳ぐイルカの姿を眺められる名物レストランにした。
イルカプール越しに光が差し込む幻想的な空間で、三人は寄り添うようにして食事を楽しむ。
「ぱぱ、イルカさん、こっちきた!」
「ほんとやな。七海に挨拶しにきたんやね」
七海はスプーンを握ったまま、イルカに向かって一生懸命手を振る。
目の前の大きな水槽の中で、二頭のイルカが勢いよく横切っていく。
親子なのか、大きなイルカとやや小さなイルカは、寄り添ってシンクロするように同じように泳ぐ。
海斗は、自分の皿から七海へ、七海が好きな具材をそっと移してやった。
「……里玖、ありがとな」
「ん? T シャツならいいって。私が欲しいのを買ったけん」
――そういう意味じゃないんだけどな。海斗は、ふっと笑うと
「おかげで、♪少しも寒くないわ~」
と冗談めかして歌った。
* * *
午後。
夕方の開店準備に合わせて、三人は沖島食堂へと戻ってきた。
「じゃあ、私は七海をお風呂に入れてから、また後で来るけん」
里玖はそう言って、一度団地へ戻っていった。
――これが、最後の仕込み。
海斗は、慣れ親しんだ包丁を握り、黙々と野菜の下ごしらえに集中するよう努力した。
醤油や揚げ油の香り、玉ねぎを炒める賑やかな音。
すべてこれが最後、と意識しまうと熱いものが目にこみ上げてきそうになるから。
横では、波多野がいつものようにテキパキと動いている。
「波多野さん」
海斗は、手を止めずに声をかけた。
「……沖島食堂のこと、よろしくお願いします。父と母を、支えてやってください」
波多野は手を止め、少し訝しげに海斗を振り返った。
「なんだそれ。もう二度と帰ってこないみたいな言い方やん」
海斗は一瞬だけ言葉に詰まって手を止めた。すべてを打ち明けてしまいたい衝動が、一瞬だけ脳裏をかすめていった。
「……いや。留学が長いから。それだけっす」
「なんだ、任せろ」
波多野は、豪快に笑うと、海斗の背中をバンバンと叩いた。
――三連休初日の今日も、沖島食堂は大入り盛況だった。店の外には行列が出来るほどだった。
てんてこまいだった営業もやがて終わり、店の灯りが落とされる。
いつもどおり、父と母、波多野、そして里玖と七海を交えての遅めの夕食をかねての反省会……だが、今日は海斗が留学前ということで、和食メニューの中でも特に海斗の好物が食卓に並んだ。
圭子のにんにくが効いた唐揚げ、晃秘伝の魚のみそ焼き、波多野特製のふわっふわのだし巻き。
どれも海斗が大好きな日本の味だった。
「さあ、海斗。アメリカに行ったらこんな和食は食べられんけん。しっかり食え」
晃が嬉しそうにビールを注いでくれる。
「……うん。いただきます」
こんがり焼けた魚のみそ焼きは、甘めの味噌が染みたクリスピーな皮に、ほろりと柔らかい身が絶品だ。
「海斗、アメリカでもしっかりね。応援しとるけんね」
「うん。がんばる」
海斗は笑って答えたが、胸の奥は張り裂けそうだった。それをこらえるために、よく食べてよく飲んだ。
そんな切ない海斗の胸の内は、誰も気づかない。ただ一人、里玖を除いて。
あと3時間。
今日が終われば、自分という魂は、この温かな場所から消えてしまう。
けれど、この味も、家族の笑顔も、自分がここに生きた証として、ずっと続いていくのだ。
里玖は、海斗の横顔を見つめながら、テーブルの下で静かに手を握ってきた。
その手の温度が、海斗の胸に深く深く染み込んでいった。
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